無限の存在

無限の存在

宇宙は無限なのか、という論争がある。現在の科学では無限なのか有限なのか答えは出ていないというが実情ではあるが、一応我々が住んでいる宇宙の年齢は135億歳とか有限の数字を持って言われている。インフレーションが起きて、ビッグバンがあったのがこれくらい前であったらしい、というのが現在の予測になっている。

宇宙背景放射の発見であったり、重力による光の屈折の発見であったり、どうやら宇宙の始まりを示唆するような発見というのがなされているので、135億年前くらいの前後にそういったイベントがあった可能性はある程度高いと言えるのだろう。しかしながら、ビッグバン当時の様子を見る事は理論的に推測されている当時の状態から考えると、いくら遠くを見る事が出来る望遠鏡があったとしても難しそうなのが現状であり、だからこそ宇宙の始まりについての論争には終わりが無くなっている。ただ、宇宙が膨張しているのは状況証拠から恐らくそうだろうと言われており、そうなってくると始まりがあった、最初の特異点があったからこそ宇宙が膨張したと言う事になる。

これらはどちらかというと有限な宇宙をサポートするような事柄であるが、有限な宇宙はどうなんだろう。宇宙の外側には何があるのだろうということを考えさせられるのである。今の我々には想像もつかないがこれは科学技術、科学の知識が足りないからそう見えるのだろうか。

例えば1万年後の人類は答えを見つけているのだろうか。1万年前とは言わずに、初めての地動説が唱えられたと言われるコペルニクスの時代、それより以前の人類にとって、宇宙空間というのは我々のイメージする世界とは全く異なっており、地球が球状のスクリーンみたいなものに覆われているイメージであった。マゼラン、コロンブス、バスコダガマの大航海時代の前は、地球が丸いかすら証明されてはいなかった。もちろんギリシャ時代から丸いであろうことは言われていたが、証明した人はいなかった。船が近づいてくるときにマストから見えてくるから地球が丸い事を知ったという逸話があるが、その前の人類は地球が丸いかすら知らなかった時代が勿論ある。

これらは彼らが無知だったとかそういう問題では無く、科学は一定方向に進んでいる、プラスサイドのみに大きくなるようなベクトルを持っているという事であり、その観点から言うと、科学的な探求というのが止まる事は無いというのが、筆者の信念である。観測技術的に宇宙の開始点を知る事が出来ないという今日の大きな課題もその内解消されるだろう。宇宙の端っこ、宇宙の始まり、これらを想像する事も興奮するが、解明された時の興奮もただならぬものになるはずであるし、宇宙の始まりが分かっても、今度は宇宙の前には何があったのか、その宇宙の前に会ったものの始まりは何なのか、そういう議論が起こるはずである。

この種の論争は終わりがない。一見科学の力で理解できていると思いがちな事も、実際には次々と新たな発見が行われる可能性がある。小氷期と革命の関係をTV番組でやっていたが、中世の小氷期の終わりにフランス革命、農業革命、産業革命という革命が起きたと言われている。このころの地球の気温は著しく下がっており、パリのセーヌ川が凍結したのもフランス革命の直前の数年間と言われている。

そのころ農業関係者は大打撃を追っており、王宮に対する不満が鬱積していた。これがフランス革命の原動力になった。太陽活動が低下したために小氷期が発生したのだが、太陽活動が政治活動に影響を及ぼしたのである。当時のフランス人は太陽活動の低下について意識していないだろうが、今の研究者の研究によってこのことが解明されるのである。

物事の見方、事実の側面というのは、それこそ無限にある。それらを科学する事の方法論も無限にあると言っていい。その一つ一つの課題に対して答えを出すのは研究者と呼ばれる人間であり、これからも新たな事実は次々と現れてくるだろう。無限の宇宙と有限の宇宙という事を頭の中で考えていると、これからも出てくるであろう科学のまだ見ぬ発見について空想が働き、楽しくなってくるのである。

宗教の本質

宗教の本質

先日、古い映画ではあるがダヴィンチコードを再び見てみた。イエスキリストの末裔を守る、という話であり、現代にも末裔が生きているという話であったが、日本で言うと天皇家は2600年前から血脈が途絶えていないことになっているので、あながちフィクションと切り捨てる事も出来ない。十字軍であったり、テンプル騎士団はそのキリストの神器を守るため云々という話なので、ストーリーとしては歴史も重なりあいながら、興味深いものであった。

オリジン【角川文庫 上中下合本版】

キリスト教を国家宗教とした2,3世紀ごろのローマ帝国では、その頃いくつもあった宗派のストーリーというか神話を、取捨選択して国教のストーリーとしていったという表現があったが、これは本当に興味深い。結局のところ、権力者が国民統治のために活用する、活用しやすく作り変えて宗教としていくのであり、その結果、宗教家という権力者が生まれ、統治に大きな力を発揮していくのである。

前にも書いたが、キリストの誕生日と言われるクリスマスは、結局のところ太陽信仰という古来からの信仰の中での、太陽が再生する日である冬至に近い日としており、これも以前は異教信者だった人たちを懐柔するための作戦であろう。このように権力というものは宗教、文化さえも塗り替えて、都合が良いように作り変えてきたのである。これは恐らく世界的に見ても、一般的な動きなのだろう。キリスト教だけが特別ではなく、権力は富に繋がり、人間というものの欲望が存在する限りにおいては、権力欲を抑止することは出来ず、権力争いをしてきた1万年と言っても過言ではない。何故1万年というかというと、これは大体農耕が始まった時だと言われており、農耕により生産の集約、余剰食糧が現れ、富と貧富の差が生まれて言ったというのが定説であり、それ以前の人類は、山や川、海で取れたものをその日暮らしに近い形で生活していたと言われている。それほど農業生産というのは革命的な事であり、人類の運命を本質的に変えてしまったと言っても過言ではない。

翻ってみて我が国日本であるが、2600年前の神武天皇がこの国土に降り立ち、国を統治していき、現在まで天皇家という形で続いているというのが、神話に近くはあるが、この国の形、文化、歴史を形作っている。これらは日本書紀に記載されている記述であるが、その時に、2,3世紀のローマ帝国のようなことが行われたのは間違いないだろう。そこで善意を持って、真実だけを編纂したと考えるのはあまりに青臭い考え方と言わざるを得ない。

確かにそれを超える事実を知る事は不可能に近く、日本書紀を信じるしかないのだが、そういう取捨選択が起きた事、勝者が書く歴史である事、これらは自覚して読むべきだろう。ちょうど2世紀、3世紀頃に、太陽をつかさどる神が隠れてしまって、みんなで無理やり出したら、そこから国は繁栄した、みたいな記述が日本の神話にはあるみたいだが、この頃に勝者が生まれたというのは一つの良い推測であるだろう。

その頃に丁度、井沢元彦氏の著書によれば、日本列島において二度の皆既日食があったらしい。これは天文学、数学的に計算ができる現象であり、この二度の日食は確かにあったようで、しかもここ2000年では珍しい事に、ヒトが人生で二度見れるチャンスがあるくらい、ショートスパンで起こったというのが計算結果になっている。

その時に太陽を司った神が、呪術的な予言を見せたり、呪術的なスピーチをして、権力を奪い取ったのかもしれない。これが日本でも2,3世紀、ローマ帝国が宗教を統一してキリスト教を国教としたのも同じような時期というのは非常に興味深い。日本で起こった二度の皆既日食がローマで同時期にあった言う事は無いだろうが、何かしら天候に関わるイベント、彗星などの天体に関わるイベントがあったのかもしれない。それくらい天気、天候、天文、これらは世界の統治機構を変える力がある。これらをコントロールする事は、ある意味では権力をコントロールする事にもつながる。人類は食糧生産という農耕を生み出した時と同じ、革命的な状況を迎えようとしているのかもしれない。天候をコントロールするというのは、新たな権力の創出なのかもしれない。

原子力発電と再生可能エネルギー

2020年11月19日の日記より

原子力発電と再生可能エネルギー

日本政府も2050年までの実質CO2排出量のゼロを目指すという方針を表明したが、足元の現状は、日本の再生エネルギーによる電源比率は18%にとどまるらしい。欧州主要国は40%前後と言われ、太陽光、風力発電が一定程度普及している。日本は国土が狭い、という考え方をする人がいるが、欧州の国々と比べたら、フランスやスペインと比べても2割少ない程度で、ドイツよりも国家面積は大きい。

この日本は小さな国とか、国土が狭いという先入観は困ったもので、米国や中国、ロシアという日本を取り囲む国と比べると小さいだけで、世界には180か国とも200か国とも言われる国々がある中で、小さい国と言えるのかというとそうでは無いと思う。ともあれ、そういった国家面積が近い国々と比べても再生エネルギーの活用割合は小さい。気象条件が違うとかいろいろあるのかもしれないが、一番大きな違いは、政府主導で取り組んできたのかどうか、という点だろう。

太陽光発電により発電された電力の買い取り制度など、スペインやドイツが先行して、日本は模倣をしてきた。太陽光発電の発電効率を上げるのに成功した、という日本企業や大学の研究室の発表をみる事があり、そういった分野では日本は優れた成果を上げているかもしれないが、いかんせんコストという観点から言うと、完全自由経済の下では再生可能エネルギーの普及への壁が高く、コストが高いのである。

優れたものを作る事と、世の中にそのものが普及するかどうか、これらの点が重なる部分もあれば、重ならない部分もあるという所について理解が進んでいないというのが、旧来から言われる日本企業のガラパゴス的発想なのかもしれない。ガラパゴス諸島というのは文字通り島であり、他の地域と断絶されていたからゆえに、ガラパゴス島の動植物は独自の進化を遂げた。それを使った例えとしてガラパゴス化という言葉が使われるが、日本という国家はそういう意味で江戸時代の鎖国の時の影響をいまだに抱えているのかもしれない。

それは言語的な意味で外国語の浸透が少なかったりもしたし、文化的な意味でもそうであろう。さらにもっとも重要なのは精神的な部分なのかもしれない。国内の閉鎖体系に存在する事が居心地が良い、こういった発想は依然として我々の精神のどこかに残っており、外国の事は外国の事、こういった整理をしてしまうのかもしれない。

話を戻して、再生可能エネルギーの普及については、石炭火力と比べてコスト競争力が無い再生可能エネルギーを活用するには、国民の負担が必要であることは間違いなく、税金を活用した普及の後押しが不可欠である。それらを実践できたのが欧州のしかもドイツ、フランス、スペイン、イタリアと言う事になるのだと思う。これが出来るためには、国民的な議論と、国民のリテラシーの向上が必要になる。

それらを活性化させるのは政治家と言われる人たちの仕事なのかもしれないが、本質は民主主義国家である限り国民の議論であり、国民の意識が重要になってくる。環境はどうでも良くて金儲けが重要、そう考える国民が多いと議論は進まず、再生可能エネルギーの活用も進まない。電源構成比率についての戦略を示す、そこまでは経済産業省と政治家の議論が必要であるが、それにどこまで税金を費やすのか、ここを本質的に動かすためには、国民の意識が上がる必要がある。

その点を突き詰めた時に、筆者自身が大きく日本と欧州で異なると感じるのは教育であり、教育も現状を切り取っただけの話ではなく、例えばここ50年の教育の積み重ねではないだろうか。例えば70歳前後の女性の教育レベル、というので比較すると、50年ほど前の話になるが、客観的に見て高等教育機関の充実は欧州の方が早かったであろうことや、戦後の復興期の日本を考えると、現在の高齢者と呼ばれる人たちの教育レベルが違うのではないか、という所に行き当たる。日本は65歳以上の人口が35%以上と言われ、選挙権を持つ人口比で言ったらさらに高くなるだろうし、世代別投票率を考えると、恐らく65歳以上の人が選挙に投票する人の50%を超えるのではないだろうか、とすら思われる。

そういった層の環境に対する考え方が変わらない限り、この議論は進まない。これは働き方改革とか、子育て支援とかにも通じる話であるが、日本の選挙は半分前後が高齢者によって行われていると見積もれる現状から言うと、高齢者の好きな政策に傾きやすい。

少子化が改善されない事、働き方改革が進まない事、再生可能エネルギーの割合が増えない事、これらをすべて一色淡にするのは乱暴ではあるが、政策決定が高齢者寄りになってしまうのが、現在の日本の社会であり、政治であるとは言えるのではないだろうか。今の70歳は戦後生まれであり、復興とともに育った世代である。20年後の団塊Jr世代が70歳になる頃は、すでにバブルとともに育った世代が高齢者になる。この世代は平均的な教育レベルは高くなるだろうが、個人主義的な思考が強いので、どちらかというとアメリカ的になっていきそうな気がする。もちろん人口動態上、団塊の世代が退場していくと、高齢者人口の比率が下がるであろうから、その頃には70歳前後の人々の思想を議論すること自体が、重要性を失っていくのかもしれないが。