芸術とは
芸術の変遷というのは面白いもので、中世、ルネサンス時期の芸術とは宗教画であったり、有力なパトロンの庇護のもと技巧的に優れた画家が絵画を描いたり、彫刻を作ったりするものであった。それはそれで技巧の素晴らしさを持ち合わせているので、見るものに訴えるものがあるとは言える。
ただ、どちらかというと技巧をメインに据えた表現方法であり、例えば作者の葛藤とか、根源的な思いとかそういった表現には至っていなかった。むしろそれよりさらに以前の例えば日本で言えば土偶であるとか、そういった時代の彫刻というのは、道具が発達していないこともあるが、技巧が整理されておらず、当時の人間が思うがままに作成されており、生々しさや勢いを感じるという面もある。どちらの芸術が優れているとかと言う事は分からないが、時代時代に芸術というか創作活動は行われ、その時代に会った創作活動が評価されてきたというのが歴史であろう。
そこに19世紀ころからこれも産業革命が一つのターニングポイントなのかもしれないが、もっと言えば民主主義化の影響かもしれないが、個性を持った創作活動をする芸術家が増えだす時期を迎える。
芸術の民衆化、大衆化であり、表現の方法も多種多様なものが生まれるようになってくる。個人個人がそれぞれの価値観を認める社会になった証であり、ベルカーブではないが、個性を自由に発揮しだすと5%くらいは異常値が出てくる。この異常値が天才と呼ばれる人たちであり、平均的な人間が思い描くような世界観ではない世界観を持っており、それを世の中の人に表現したくなる衝動を抑えられなくなった一握りの人間が天才的な芸術家と言う事になるのだろう。
その文脈で言うと、現代民主主義社会における天才的な芸術家の定義は、人とは違った世界観を持ちその表現を世に発表する活動を行っている人と言う事になり、その芸術作品はその異なる世界観を一般人に伝えて、一般人がこんな表現、こんな世界観、こんな感情、というものがあるのだ、と驚かせるものであると言える。
その観点から言ってもパブロピカソという巨人は、他の天才とも一線を画している天才であり、近現代というくくりで言っても圧倒的だと感じられる。それは上述したような民主主義的な思想が大衆にしっかり浸透してきたという時代背景もあるのだろうが、その中でもキュビズム、を生み出したような感覚は単に発見というだけでなく、技巧的な能力が異常に高かったピカソ自信が、アフリカ芸術に影響されたと言っている「アヴィニヨンの娘達」を発表した時の覚悟、自信、葛藤、こういうものは想像を超えるような世界だろう。
特に当時の技巧的な作品優位な世界の感覚では、明らかに下手糞な絵と言われる内容であり、そこまでにある程度の成功を収めていたピカソとしては、これを発表するだけで大きな葛藤があるはずだ。それでも自身の信念を貫き、芸術はこうあるべきだ、美しさではなく、それぞれの表現方法で自己表現をする事が芸術であり、創作活動であるのだ、という信念を貫いたのである。もちろんその細部の技巧や、色彩感覚、構図、これらを見ても一級品であるピカソだから出来る面もあるのだが、芸術に疎い筆者が学生時代に初めて「アヴィニヨンの娘達」を見た時の衝撃は今でも忘れられない。
簡単に言うと「不思議な魅力であふれている」という感じだ。その次の衝撃は「ゲルニカ」を見た時であるが、ここには醜さと、窮屈さで満たされた感情が爆発しており、見る者にも同じ感情を与える。当時確かスペイン内戦だったか、スペイン対ナチスドイツの戦争だったかで、ビルバオ地方のゲルニカが空襲されており、反戦の意思を示すためにピカソが「ゲルニカ」を書いたという話があったと思うが、その醜さ、窮屈さ、これらを見るものに感じさせる、という究極的な芸術作品の役割を全うしていると言え、これこそまさに傑作と言えよう。
そういった学生時代を過ごし、そのピカソを心から称賛している岡本太郎氏の著作に大いにハマり、最近は原田マハ氏のピカソ、ゴッホ、等に関する小説を読みふけるのである。岡本太郎氏は当方にとっては芸術作品の偉大さよりも、文筆家としての優秀さの方が感じられる。彼はどちらかというと理論的であり、感情の爆発で芸術作品を作っている、作りたいという意思は大きく感じるのだが、ピカソに比べると論理が勝ちすぎており、作品においては爆発しきれていないというのが印象である。ただ、著作は数回繰り返し呼んだほど、気にっている。