Houstonの停電

Houstonでの停電

筆者も友人がテキサス州に住んでいるので、非常に気になるニュースであるが、何が重要かというとインフラ整備の重要性を感じるニュースであろう。とにかく、これはアメリカにも日本でもいえることであるが、インフラは老朽化している。もちろん、今回のHoustonの停電は寒波が襲ったことにより電力消費量が想定以上になったというところから始まってはいるが、その間接的な影響なのかどうかはわからないが、水道管の破裂が頻発して、水の確保に四苦八苦しているというニュースが印象的だ。

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日本は戦後しばらく恐らく70年代頃がインフラ整備のピークだったと思われる。アメリカはもう少し前だろう。そのころに水道管であったり、ダム、発電所、道路、橋梁、これらのものがどんどん整備されていった。筆者が米国に住んでいた時に感じたのは、インフラの州毎の整備の違いであり、税収の差が反映されるのだろうが、カリフォルニアやテキサスは比較的新しい高速道路の建設も行っていたし、新たなインフラ整備にお金をかけている印象であったが、中西部例えばオハイオ、ミシガン、その辺りは橋梁にしても渡っていいのか、と思うものも見受けられた。

米国でのインフラの老朽化、特に橋梁の老朽化は言われており、既に60,70年建設から経過してしまっている橋梁が全米に何十万とあり、すぐに補修が必要なものがそのうち何割も占めているという状況であった。これは米国に住んでいる橋梁のコンサルタントに聞いた話であるので間違いないが、米国では橋梁だけとってもインフラの老朽化は喫緊の課題なのである。日本はインフラが劇的に整備されたのが、米国よりも少し遅れているが、これから10年もすれば同じような状況になってくるのではないかと思われる。寒波が襲うと水道管の破裂による被害も出てくるだろうし、橋梁や道路の老朽化による災害が発生してくるのかもしれない。

そういう状況故、トランプ前政権もバイデン政権もインフラには投資をする、と掛け声が大きい。トランプ前大統領も当選したときは、10年で100兆円だったか、そんな話を言ってたと思う。しかしながら、財源問題にあたるのである。

税金を増やした上で、今後40年、50年の未来を見据えたインフラへの先行投資、というのは民主主義が進めば進むほど、予算として通過しなくなる。民衆は明日のパンを欲しがるのである。即効性のある政策を掲げる政治家が当選しやすいのが民主主義の問題点であるが、これが現在の米国ではもろに出ている。もっと象徴的なインフラによる事故なりが発生しないと、議論が盛り上がらないだろう。

これは日本でも警戒すべき状況である。世の中的には民主主義を進めることは良いことだという価値観があるようだが、これは中長期の国家戦略にはマイナス効果になりかねない。ノスタルジックではあるが、旧来の自民党はそういう長期的な戦略をある程度は描けていた気がするが、今は場当たり的で困ったら定額給付金、こんな発想しかない。政治が弱まったのか、民衆が短絡的になったのか、リベラルな思想が浸透しすぎたのか、分からないが、民主主義をこのまま進めていくと、個人主義、自由主義が過剰になり、インフラの崩壊、そこからの災害が多発する社会になるだろう。これは怖い未来であり、だれも望んでいないようであるが、今の自由主義というのが行き着く先はそんな社会であるような気がする。

ロシアのコロナ感染状況

2020年8月4日の日記より

ロシアのコロナ感染状況

感染者数は多いが、経済は再開。消費マインドも強め

新型コロナウイルスの感染拡大が比較的早期に来たロシアでは、感染の波が収まる気配を見せていない。しかしながら、旧共産圏の強みでもあるが、社会基盤と言うか社会保障が充実しており、医療体制は十分な厚みがある。初期のころからPCR検査を徹底しており、感染者の洗い出し、隔離の徹底により、感染の再拡大を食い止めた。また元々平均寿命が長くないという背景もあり、高齢者における長寿に対する願望が相対的に小さいのかもしれない。

経済面で見てみると、もちろん4月、5月の原油価格の急落には影響を受け、財政的には苦しい時期があった。しかしながら、4月を国としてほとんど休暇としたことにより、感染拡大を食い止め、5月以降は経済活動を再開している。6月からは物流も完全に復活し、7月からは観光も再開し、国民は通常通りの夏季休暇を楽しんでいる。筆者の周りにもロシア国内ではあるが、夏季休暇に旅行に出かけるという声を聴くようになった。

さて、先ごろ報道された、「10月からコロナワクチンを接種開始する」という記事だが、ある意味では流石ロシアと言ったところか。冷戦時代の軍拡競争、宇宙開発競争、スポーツによる国威発揚競争、そういったソ連時代のキーワードから連想されることだが、ロシアの科学技術は一定の基盤があり、特定分野における技術力は目を見張るものがある。潜水艦、原発、チタン等の金属材料、そして医療が良い例だろう。西側諸国と言われる米国、英国、こういった国のメディアは基本的には自国礼さん、ロシアは批判、という態度であるので、今回の記事に関しても「安全性には疑問がある」と繰り返す。しかしながら、これは世界でのワクチン戦争で先手を打たれてしまったことに対する、反撃でしかなく、ロシア対西側諸国で今後勃発するワクチン販売競争における、一発目の対立に過ぎない。世界人口60億人に対して、ワクチンをどうやって効率的に販売し、自国の製薬会社がどうやって設けるのか、ここに支配層の大きな興味があるわけで、ロシアがワクチン接種を開始するというニュースは西側諸国にとって気持ちいいはずがない。一方で、ロシアとしては安全性を少し犠牲にしてでも、全世界に対して誰よりも早くワクチン接種を行うと宣言する事が、最大の宣伝効果である事がよく理解できていると感じるニュースではある。

ロシアにとっては、ワクチンによる副作用が国民の、例えば0.01%に影響があるとしても、この段階で誰よりも早くワクチン接種開始のニュースを宣伝する事が、今後のイニシアチブを握るためにも重要であったわけだ。

主には米国とロシアの対立が背景にあるわけで、ワクチン開発競争のイニシアチブを争う戦いは始まっている。上述のように副作用が確率的に低い場合は、目をつぶって一般販売を開始するケースはこれから多く出てくるかもしれない。安全性を担保する治験というテストがあり、国にはそれを法律で縛る権力があり、実際法制化されている。しかしながら、自国の製薬会社の利益と言う広い意味での国益と、国民の安全性と言うものはこのケースでは二律背反してしまう事になるので、注意が必要か。我が国の厚生労働省が冷静な判断を下すことを望む。

大手製薬会社が得る事が出来る利益は、今回のワクチンは相当なものになる。そういう観点から、ウイルス自体が人為的なものだったのではないか、とかいう陰謀論も湧いてくる。例えば、1960年代、70年代のアメリカでは健康疾患が出やすいダイエットフードを発売したとか、クレジットカードを世に広めていく時には実験によりクレジットカードによるショッピングは麻薬と一緒の効果があるとわかってやっていたとか、時に一個人の健康よりも企業の利益が優先されるのが、この資本主義と言う仕組みでもある。

世界を変えた14の密約

話をロシアに戻すと、ロシア、中国と共産圏もしくは旧共産圏的にな思想は全体主義的な発想を持ちやすいと思われ、国民一人一人の命の価値は我々が考えるよりも相対的に小さいかもしれず、旧共産圏資本主義と言うのは全体主義的な利益至上主義と言うナチス以上に厄介な仕組みになってしまうのかもしれない。人権をないがしろにしながら利益を追求してしまうと、モラルハザードを超えてしまい、取り返しのつかない商品、開発、そういったものが行われる可能性があり、そこをバランスするような機能の開発、具体的には国民による監視、国際社会による監視が必要になってくるのだろう。

日本のお辞儀は合理的

2020年8月6日の日記より

日本のお辞儀は合理的

New York Timesの記事で、米国の大手ホテルチェーンであるHiltonグループが、マスクをしているホテルスタッフが顧客への経緯や謝意を表す手段を模索中という記事があった。口元を隠されると笑顔を見せづらく、Smileが売りだった米国の接待方法が崩れるという事だろう。ホテルではSmileだが、欧米の握手やハグによる挨拶は今回の感染症の感染拡大に一役買ったという言い方もされている。欧州では肘をぶつけ合うあいさつに代えようという動きもある。

そもそも動物である人間と言う意味で、動物の同一種でのコミュニケーションだが、体をこすりつけあったり、言葉を話さないがゆえに、体の接触でのコミュニケーションが中心なのだと思う。これはお互いに敵意がない事の証明にもなるだろうし、においなどで相手を識別するという意味でも有効だったのだろう。その流れから言って、人間が体の接触による挨拶を行っている事も違和感はない。

感染症の日本史 (文春新書)

しかしながら日本を含む東アジア、広く言えば中国文化圏では握手でさえも一般的では無いと言える。中国、台湾、韓国、日本でもそうだが、タイやインドネシアでも積極的に握手をしていた経験は無い。タイでは両手を胸の前で合わせてお辞儀をする挨拶が一般的にみられる。これだけの事実からだと非常に大胆な推測になるが、他人との接触を避ける事で伝染病の拡大を避けていた、そういう歴史がこのような文化を形成したのかもしれない。

日本では平安自体から天然痘などの感染症が広がった事実が文献などから確認されるそうで、そういう意味でも直接的な接触を避けたのかもしれない。

日本では古来、穢れという思想があったというのが井沢元彦氏の著書での主張であり、筆者も大いに同意する主張となっている。穢れの思想は現代でも日本に充満しており、死についての会話を避けたり、死んだ動物を見るのも避けたり、科学的根拠がなくても必要以上に死や汚れ、穢れを避ける場面は現代でもよく見られる。病原菌やウィルスの存在が分かっていなかった古代、日本で言うと平安時代やそれ以前の時代には、例えば天然痘が流行るのは穢れが蔓延する事だと恐れられ、特に感染者やその病による死者を遠ざける事に精力を傾けていた。そんな時にハグをしたり、握手をしたりと言うのは合理的ではなかったのだろう。

欧米との違いがどこにあるのか、この点が重要だが、恐らくは集団の形成方式の違いが大きいのかと思われる。俗に言われる狩猟採集民と、農耕民との違いではないか。農耕民族は比較的人数の多い集団による組織を大事にする傾向があり、日本はムラ社会だと言われる事が多い。一方欧米は個人主義とよく言われる。狩猟採集も集団で行う必要があるので、個人主義と狩猟採集民がどこまで結びつくのか微妙ではあるが、相対的に見た場合には、農耕民の方が集団生活で生きる必要性は高かったと思われる。そんな中、伝染病と言うのは集団を殺してしまうものであり、伝染病により社会が死んでしまうリスクが農耕民社会においては高くなる。そういう危機意識が直接的な身体接触を避ける方向に働いたのかもしれない。

さらに言うと、日本は世界でも有数の自然災害大国であることも、ムラ社会を作り、その社会生活の基盤を守ろうとした原因かもしれない。日本は、まず火山が多く、地震が多い。これはプレートの位置から見ても止むを得ず、同じような境遇なのはインドネシア、ニュージーランド、アイスランドが主なところではあげられる。2011年の大地震のような地震や、大津波、こういったリスクに常にさらされている土地である。また、日本の場合は大陸との距離が近い事、赤道との距離感、これらが影響して雨が多く、火山でできた急峻な土地が多い国土において、洪水が発生しやすいというのもプラスされる。火山、地震、洪水、これだけでも世界有数の災害大国だと言えるだろう。10年に一度、50年に一度、100年に一度、2011年の大地震は1000年に一度とも言われる。こういった災害の記憶と言うのはどうしても薄れてしまう。ただ、例えば古くて現在も残っている神社が災害の被害を受けづらいように、何らかの痕跡は残っているもので、例えば集落が昔からの土地に存在する場合、そこから離れたところに家屋を構える事は、日本では自然災害のリスクにさらされる行為になるのである。2011年の津波の被害を見ても分かる通り、これは生死にかかわるリスクであり、日本では集団を維持する方向、またはみ出し者と言われる人間が出ずらい環境、こういったものが形成されていったのではないか、と自然災害の面からも推測が出来る。 これらを踏まえても集団で生きる事の重要性と言うか、集団を形成しないことのリスクが高い国であり、そういった面からも身体接触を挨拶において避ける方向に日本が進んでいたことが、欧米との比較において考えられるのである。