物事の正解

2020年12月21日の日記より

物事の正解

たまに休暇を取得して、子供たちが学校に行くと、家の中で情報番組と言われるワイドショーなのか報道なのかよくわからない朝のお笑い芸人がやっている番組や、昼の俳優がやっている番組を見たりする。どこの番組でも共通しているが、特にコロナの件になると、皆怒っている。

Go toトラベルがコロナの拡大を助長したとか、Go toイートはまずかったとか、後出しじゃんけんはいくらでも言える。そもそも、今回のコロナウィルスの感染拡大に対する正しい対処法はあったのだろうか。もちろん、中国は外見上押さえている様に発表されており、そこだけを切り取ると成功しているように見えるが、それ以外の国では大々的に成功していると言える国はそれほど多くは無い。

国によって社会環境、人口構成、気候、色々なものが違っているのに、それでも多数の国で対応に失敗しているのである。それは政治家の能力が低いとか、頭が悪いとか、そういうものではなく、今から振り返ってみても、正しい対策というものはなかなか難しいと思えるくらい、今回の対応は難しかったからである。

政策というのは振り返ってみると、成否は比較的言いやすいものだと思う。国民生活に直結しているものが多いので、あの対策は成果が出た、あの対策は成果が出なかった、そういった事が振り返ってみると目に見えやすい。しかし、コロナウィルスの感染拡大対策については、今を持っても正解が分からない。

例えばインドのようにロックダウンでは感染が止められないとわかってから、緩和して、感染拡大が続いていても経済優先で回す、という対策をしているが、これだって不正解かどうかは分からない。最初のロックダウンが無ければ、感染拡大はより酷く、深刻な事態になっていたかもしれない。それでも国を運営している政治家、官僚が知恵を絞って出している政策である。

報道番組に出ている俳優よりはたくさんの因子を考慮に入れて検討をしている事は間違いない。日本政府の対応にしてもそうであり、東京都の新規感染者が500人が800人になった程度でGo toトラベルを始めたのは誰だ、という犯人探しになっているが、Go toトラベルが感染拡大を助長したのだろうか。科学的には誰か根拠はあるのだろうか。非常に知能が低いと言わざるを得ない世論という集合体が、Go toトラベルの時期と感染拡大時期が何となく重なっているという感覚だけでモノを言っている。

他の国のデータからも明らかなように、Go toトラベルよりも、気温との相関の方が圧倒的に相関が高いというのに。自分の思い通りに行かない事象には、理由があり、犯人がある、という非常に子供じみた議論が報道で話されている。なんなら感染拡大が止められないのは菅総理のせいだ、そこまで言いそうな勢いの報道すらある。

感染拡大を止められていないのはどこの国でもそうであり、むしろ経済面で言うと日本は健闘している方だと思う。各国よりもGo toの効果が出ていると感じる。悪者づくり、犯人捜しは、報道のお家芸ではあるが、これも度が過ぎると何が本質なのか見えなくなってくる。また、特に官僚の立場で色々と国家安定、国家の成長、そういった事を考えて政策立案、政策実行をしている人たちのモチベーションを下げかねないとすら思うし、それが日本の将来のためになるのだろうか。Go toが感染拡大を助長したという情報番組と呼ばれるマスコミは科学的に示してもらいたいところだ。

恐らくは、外出制限、これが感染拡大を止める一番の実効策であり、外出制限をしないのであれば、Go toはトラベルだろうがイートだろうが、感染拡大にはあまり関係なく、むしろ経済を回す効果が出ている、これが筆者の実感である。消費というのはムードに左右されるものであり、後押しが必要である。その為のGo to事業という意味では成功していると思う。活用している人も多いし、助かった飲食事業者、旅行業者は数多くいただろう。それに対して都で800人とか、全国で3000人なんて数は冬になればそれくらいになるだろうと思われてた数字であり、これにじたばたしているのは、テレビの画面上での演技なのだろうか。これが8000人、30,000人になる恐れがあるなら必死になる必要があるが、統計学的に500人も600人も800人もそれほど違いがある様に見えず、陽性率の数字を見ていれば変化は1%前後でしかないようなので、冷静な対応が必要でないだろうか。

千差万別

2021年1月5日の日記より

千差万別

最近特に感じる事に、100人いたら100人の受け取り方があるという事であり、それは良い面でもあり悪い面でもある。100人いた時に、全く同じコメント、スピーチを聞いたとしても、100人それぞれの受け取り方があり、受け取り方だけではなく、聞き取っている内容にも違いがあるというレベルで、異なっている。これは聞く事、読むことだけでもなく、我々日常的な感覚であれば、例えば横に並んで二人で同じ風景を見ていれば、同じように見えているだろうと考えるのが普通かと思うが、それすらかなり怪しいのだろう、というのが最近の実感だ。

もちろん、視力の違いや、色彩感覚、コントラストを捉える感覚という物理的な違いもあるが、視野の広さ、物事を眺めるときの前提となる過去の経験、これらについても個人差は必ずある。特に視野の広さというのは例えば子供と大人を比べると明らかに違いがあるもので、他人の視野との比較というのをしたことが無いから実感がないが、これも明確に差異が存在しているモノであろう。また、視野についてはIQとの関連性も論じられることもあり、視野が広いとIQが高いのか、IQが高いと視野が広いのか分からないが、これも何となく連関がありそうなのは、実感されるところだろう。

そういう事を考えると、全く同じ方向を見て、同じ景色を見たとしても、認識される情報というのは、明らかに個人差が生まれているはずであり、これが個人間の誤解を生むことにもつながるのだろう。この見ている景色は千差万別であるという事実に対して、感覚では恐らく同じものが見えているはずだ、という先入観を持ってしまう事があり、Generation gapなんかもそうかもしれないが、色々な認識のずれを生み出していくのだと思う。

これは見るもの、聞くもの、読むもの、それぞれで当てはまるズレであり、例えば同じ新聞を読んでも捉え方は100人が100人違うのである。これは実感として持ちづらく、恐らく一般的な感覚ではそうではなく、だからこそ特に昨今は様々な不満が渦巻いているのでは、とすら感じる。ある個人が考えている事、例えば最近だと「Go to キャンペーンは中止して欲しい」と考える人には、周りに100人いたらみんな中止して欲しいと思っているはずだという先入観が強く働き過ぎており、そうでは無いと考える人の思考回路が理解できないという状況になっているのではないだろうか。

これは最近よく言われることだが、自分の都合の良いニュースやコメントしか吸収しなくなっている事と関係しているのだろう。昔は情報ソースはニュース番組と新聞だけであったが、今や纏めニュースで情報ソースは多様化している。その中で好ましいニュースしか見無くなり、多様な意見を受け入れる素地が減って行っている。自分と他人の違いを感じづらくなり、他人の考え、意見、感覚を想像する力が失われている。こういった個人の思考回路の多様性の欠如、これが様々な社会問題を生み出しており、このコロナ禍がそれらをあぶりだしている様ですらある。

対立の世紀、対立の増長、これらが米国選挙でも言われたが、これは世界的な流れとなっている。なぜ起こるかというと、異なる意見を排除し過ぎる風潮があるからと言う事は明白であり、それを助長しているのは無限に級数的に増加している情報量のせいなのかもしれない。情報が増える事で、個人のフィルターがかかり、多様な情報が届かなくなる、こういった矛盾を解消していかなければ、隣人とすら上手くやっていく事は難しくなるのだろう。

マッチポンプ

2021年1月13日の日記より

緊急事態宣言を巡って様々な報道がなされているが、政策決定者の立場から見ると、緊急事態宣言をしないとか、慎重な姿勢を取ると言事が許されなくなっている。これは報道がそう仕向けている面もあるが、やらないリスクを過剰に見積もり過ぎている故だろう。

新型コロナウィルスに関して、多くの人が何を求めているのかというのが、非常に分からなくなってきた。何か政策決定者が有効な手を打てば、ウィルスは消えてなくなる事を期待しているのだろうか。鎖国状態にして、国民の外出を最低限にしたとて、今回のような死亡率も微妙、感染力は強い、こういったウィルスを消滅させるのは不可能なのではないかと思う。感染症としてイメージされるのはSARSとかMERSとか鳥インフルエンザとかエボラ出血熱のようなものなのかもしれないが、印象としては死亡率が全然違う次元であり、どちらかというと従来型のインフルエンザやもっと言えば風邪の類と同じような死亡率なのが、今回のウィルスであろう。

単純な話であるが、感染力が同じとした場合に、死亡率が高いウィルスは感染した人間が死んでしまうので、感染が広まらない。死亡率や重症率が低いウィルスの方が元気な感染者が感染を広げるので感染が広がる。もちろん、スペイン風邪やペスト、そういったイメージがあるので万全を期して感染を抑制する事は重要であるが、何から何まで感染症として同じに扱って良いのか疑問は残る。そういった感染力や、感染症そのものの性質に関する議論も大事ではあるが、一番問題なのは市民に考える力が無くなっている事というか、これはもしかしたら普遍的なものなのかもしれないが、とにかく問題には特効薬というか最適解が常に存在していると考えがちな世論だ。

例えば従来型のインフルエンザについて、政策を総動員したら毎年の感染者は減って行き、撲滅できるのであろうか。恐らくそれは無理であり、ワクチンを使った対処療法でしか対抗は出来ないし、現実そうなっている。今回のコロナウィルスも、Go toキャンペーンのタイミング、緊急事態宣言のタイミングを上から目線で、結果論でしかないのに後から批判する人をよく目にするが、非常に無責任に感じる。

政策決定者はその時点で様々なファクターを考えた上でベストな決定をすべく、ベストな対応をしている。インドネシアの賢者から聞いた話だが、「政策決定者に文句を言うのは簡単だが、政策決定者を選んだのは自分自身であり、政策決定者である政治家は国民のまさに鏡で、国民自身の縮図というかクローンである」というものだ。いいとこどりをしようとして失敗する国民性はこの国に蔓延しているのであろう。政治家や官僚、地方政府の役人たちが国民一般に比べて能力が劣ると言う事は無いわけで、バランスを考えて政策決定をした結果、遅れたり、タイミングを間違えたりすることもある。

ただ、そういった決定を行った事がない人間が、結果だけを見て、薄っぺらい批判をする、そういう傾向が強い。特にテレビという媒体においては、安く制作できる「情報番組」というよく分からない番組が増えており、そういう所で「専門家」とか「コメンテーター」として発言している人間のコメント程薄っぺらいものはないだろう。それに左右されて政策決定してしまうのもどうかと思うが、声が大きい人の思惑を無視すると民主政治では生き残れないので、政治家としては苦渋ではあるが、そういった決断に至るのだろう。