政策決定速度

2020年10月5日の日記より

政策決定速度

経営の講座なんかでも、迅速な意思決定、意思決定速度、こういった言葉が聞かれるくらい、企業経営にとって、意思決定速度は重要なファクターではある。先行者利益を得るために、他社よりも早くアクションを起こしたり、変化を起こして新たな領域にいち早く取り組むためにも、迅速な意思決定が必要な場面は多い。特に旧来の日本組織のヒエラルキーというものは、トップの意思決定に至るまでに時間がかかる事もあり、意思決定に時間がかかり、特に現代のような変化のスピードが速い時代には、組織の形態として不利だと言われることもある。確かに、課長がいて、部長がいて、その上にいくつか階層があって意思決定がなされる日本式の組織の弊害もあるだろう。

しかしながら、政策決定という観点において、今回のコロナという状況下で、住民へのアピールのために、政策決定を焦った、もしくは稚拙な判断で色々決めてしまったと感じられるのが、ニューヨーク市のデブラシオ市長だろう。感染拡大防止のために迅速にロックダウンを行った。これが圧倒的に評価を受けて、3月4月はNYは良いよな、的な世論になったが、結果論とは言えこれは拙速だったと言えるだろう。ロックダウンによる封じ込めが成功しているのかというと、一時的な感染者数の増加の歯止めにはなっているが、その後に感染者数をゼロにもっていくことは出来ないし、ロックダウンをしてしまうと、緩和した時に結局感染者数が増えるのが、インド、欧州の例からも明らかになっている。NYではいまだに新規のPCR検査の陽性率が上昇するとロックダウンを行うというルールを持っており、再びロックダウンが行われそうな状況になっている。

一方、感染拡大の初期には日本やスウェーデンのようなロックダウンを行わない国について、批判的な見方もあった。日本は緊急事態宣言を行ったがこれは不要だっただろう。政策決定者にもう少し胆力や度胸があったら避けられたのではないかと思っている。その点、スウェーデンは自分たちの信念のもとやり切った印象がある。危機の時に試されるのは、信念を持つ事であり短期の結果を求めず、中長期の視野に立って物事を見れるのか、それに尽きる。

あの時点で学者と言われる人は、「こうなったら、危機的状況になる。」「もしこっちの傾向が強く出たら、パニックになる」、こういった可能性は低いのだが、インパクトが大きい事についてやたらと強調するものであり、90%の可能性のシナリオを信じられなくなってくるもので、10%のシナリオのリスクを回避する事に全力を挙げてしまう。

これは勿論、そこを煽るマスコミがいるからであり、マスコミは「この1%の可能性のシナリオに行った場合、国民の20%が死亡する計算が成り立つ」とか例えばこうやって煽る人種なのである。このマスコミに振り回されたのがNYだとみることは出来るだろう。NYは恐らく世界でも有数のマスコミ都市であり、リベラルであり、市民の力が強い市である。その市長は、マスコミの挑発的なWorst case scenario報道に対して、断固とした対応を取らざるを得ない、これは市長自らが支持を得るためには、仕方がない事でもある。

翻って、日本においては緊急事態宣言は似たような意識を持つ東京都知事にとっては必須の政策であった。東京のマスコミは一刻も早いロックダウンを要求するようにエスカレートしたであろう。しかしながらここで国がある程度中心となり緊急事態宣言を行うに至った。国としては最後の最後までやりたくない、やる必要が無いという意識だったと思うが、マスコミとリベラルな人々に押されて踏み切った。

当時の感染例から見ても、マスクと手洗いでかなりの部分の感染拡大は阻止できるという見込みはあったのだと思う。コロナウイルスについては煽る報道が多いが結局は風邪のウイルスとそれほど大差があるわけではない。しかも国全体で見た時にそこまで危機的ではないという判断のもと、国は緊急事態宣言を行わないという選択肢も相当程度持っていたのだと思う。マスコミが煽らなければ、していなかったかもしれない。

これはまさにリベラルというものの政策決定に対する悪影響、ようするにリベラルというのは個人主義であり、自己中心主義でありコミュニティーで阻止していこう、という発想がないのである。これが支配するようになると恐らくは自治というか国家というか、組織が破たんしていくのだろう。究極的な弱肉強食の世界になってしまう。

また、昨今のマスコミ中心の民主主義というものの危うさも示しており、NYはいまだにロックダウンの呪縛から逃れられていない。リスクを許容しないと宣言してロックダウンしてしまうと、状況が変わった時に許容するような結論に至れない。一旦許容しなかったリスクを取る事に対しては、最初の議論よりも抵抗が激しくなってしまう。そこから何が言えるかというと、稚拙な状況決定は、特に明確な白黒つけるような判断であればあるほど、後戻りが出来なくなってしまうという教訓かと思う。

特に新たな脅威とか、先々に何が起こるか分からない状況下において、稚拙な判断というのは自分の首を絞める可能性を持っている。そういった状況において、色々な観点からの意見を取り込み、時間をかけて意思決定を行うという日本的な組織の在り方というのも捨てたものでは無いとも思う訳である。特に国の意思決定においては、日本は間接民主主義という名の、国会議員を選出したうえで、国会議員の投票によって首相を選ぶ仕組みがあり、国会議員の入れ替えは大いにあるが、首相、内閣というのは直接的に国民投票で選ばれていないので、足元のリベラルな人たちの意見、マスコミの報道というのをそこまで意識せずに意思決定が出来、これは本質的な判断を出来る事に繋がるので、この間接民主主義というものは今の時代にはむしろ適している。米国のように権限が異常に多い大統領を一回の選挙でしかも4年間固定してしまうというのは、もちろん民主主義という観点からは、もっとも民主主義を体現した制度ではあるのだが、大衆迎合、マスコミ迎合、リベラルな個人個人の意見迎合、的になってしまい、大局観を持った人間を選出するのが難しくなってしまう。その場その場をしのげるような、それでいて演説上手な人間がトップに立つようになる。それの最悪の例がヒトラーだったとも言えるだろう。

軍事政権

軍事政権

日本の歴史を振り返ってみると、1200年ごろから1850年頃までの650年間が軍事政権だったと、言えるかと思う。途中は色々あって、貴族、皇族が仕切った時代もあるし、一概には言えない部分もあるが、大枠で言うとそうだ。

江戸時代には士農工商という身分制度がとられて、民衆が政治に参加するという発想すらなかったであろう。ただただ、強いものが権力を握り、豊かになる、そういった時代であった。労働力=権力であり、コメの生産=豊かさであったので、石高で大名の大小、優劣が決まっていたのである。これは平安時代の藤原氏においても同じことが言え、全ては力の強いものが支配するという世の中であった、過去に遡れば遡るほどそうであろう。

それが産業革命という歴史的な出来事で変わったのだろうか。工業社会は内燃機関を活用してどんどん機械化が進んでいったと言われる。そこで得られたエキストラの利益を活用して、植民地を広げていったのが大英帝国であった。まさに資本主義を象徴しているのだが、労働資本を持った人間が有利な時代から、金融資本を持った人間が有利な時代に大転換がなされたのである。

そこからは金融資本を活用して、金持ちがさらに金持ちになるという世界が広がって行った。政治の世界では従来の権力者が、比較的短期間で権力を失うケースが出るようになり、旧来の権力者が権力を失っていった。民間の起業家が意見を強めていったのである。そういった中で民主主義という考え方が出てきたのであろう。貴族や王族に頼らない、税金をより広い分野に活用していくという精神である。もちろんフランス革命はもう少し以前に起きており、王政の打破のエネルギーになったのだが、世界特に先進国に民主主義的な考え方が広がって行ったのは、産業革命が大きな影響があったと思われる。

その後、科学技術は大いに発展を見せて、非常に便利な世の中になり、もはや労働力を持っている事は優位性ではなく、資本家の天下になっている。資本家への権力定着が進んできているので、こんどはそういった富裕層への風当たりが強くなっていると感じる。

財政政策の高度化によって、民衆の職や食料は保たれているが、大きな飢饉や災害などにより、国民生活に打撃が出ると、権力が定着している層への不満が暴発するのだろう。今は、18世紀の王族は資本主義の成功者たちに置き換わっており、その権力の発端は資本主義と民主主義政治にあった事を国民は思い出すはずである。そうなると、意外と一夜にして政治体制の返還が見られるのかもしれない。

長谷川氏の「民主主義とは何なのか」という著書によると、独裁政治体制→元老院的な政治体制→民衆代表による議会制→民衆直接選挙による政治体制→独裁政治体制、という循環があるという話だった。古代ギリシャでも民主主義という政治体制は行われていたが、学のない人も、犯罪者も、誰でも同じ一票を持つ事、裏工作でどうにでもなる事、そういう意味もあり民主主義というのは怪しい政治体制だった。

それを一人のスーパーエリートで、徳の高い人が効率的に変えるのが独裁性であり、恐らく導入時には独裁制は非常に画期的で効率的な政治体制と称賛されるだろう。ただ、権力の固着が早いので、早々に堕落した政治体制になりやすい。ヒトラーなんかがイメージしやすいが、第一次大戦でボロボロになったドイツ国民は、ヒトラーを圧倒的に支持した。80%とも90%とも支持率は言われる。これは既得権益、ヒトラーの場合はユダヤ人だったが、を打破して、多数派の国民に還元するというものであり、結局誰かを悪者にして、そのエネルギーで全体主義を作っていくというものである。悪者を作りたがっている風潮は、現代のマスコミの報道にも大きく感じるところで、この悪者が確固たる対象となる場合には、全体主義的な政治が出てくる予兆なのかもしれない。

一般常識とは

2020年12月17日の日記より

一般常識とは

一般常識という言葉があり、会話の中でも常識というのはある程度の人数の割合で共通認識であるような感覚がある。人は何かと他人も自分と同じ常識を持っており、自分と同じ知識を持っており、同じ価値観を持っているはずであろう、と期待しているところがある。

昨日電車に乗っていたら、あきらかにおかしな人が乗ってきた。マスクはしているのかしてないのか微妙な状況というか外したり付けたりしていて、あからさまに咳払いをしたり、嗚咽をもらしたり、これらを何かわざとやっているようであった。周囲の人間がざわめき、座席に座っていた乗客がそそくさと車両から消え、そのおかしな人はそこの座席に座る事が出来ていた。その後も明らかに周りに迷惑を掛ける事を目的にしているような行動であったので、筆者も一度車両から出て、他の車両に移動する事になった。その時に、「常識のない奴だ。コロナ禍で皆が飛沫が飛ばないように生活しているのに。」と思ったわけだが、一方で、そのおかしな人の常識というのは何なんだろう、価値観は何なんだろう、とも思った次第。

これは橘玲氏の「言ってはいけない」、の議論になってしまうかもしれないのであまり好ましい話ではないが、人間というか民衆というか、日本で言えば国民というものの知識、知能のレベルは我々が実感したり、想像したりしているよりもはるかに多様であると言えると思う。

多様というのは格差が激しいという意味であり、非常に知能の高い人と、特別支援学級に行くようなレベルのグレーゾーンの人々がおり、恐らくは自分は平均的な人間だと思いつつも、そういう層に所属している人すら多数いるのだと思う。これが世論形成の難しさであり、マスコミではとかく国民は一枚岩的なうえで、多様な価値観を持っているようにふるまいたがるが、右側の隣人と左側に住む隣人では例えばコロナ対策に関する考え方も180度違うケースが往々にしてあるのである。

これが現代のSNS社会によって、全ての意見が取り上げられるようになってしまい、世論とか多数意見が何なのかが複雑になり過ぎてしまっている。例えば、炎上した企業に対する抗議の電話が数十件あっただけで、朝の情報番組と言われる怪しいテレビ番組で報道される。それをリテラシーの低い人たちが視聴して、拡散に協力していく事になり、いつしか大事になる。その数十件の抗議電話はもしかしたら、電車の中でマスクを外してわざと咳払いをするような人たちによるものかもしれないのにもかかわらずである。

左派メディアでよく「一般市民」という報道の仕方をするらしいが、非常に極端なデモを少人数で開催した時も「一般市民」という言葉を使いたがるらしい。この辺りに左派の姑息なやり口が表れていると思っていたが、要は報道全体がそうなりつつあり、国民という対象を画一的に捉えることを前提としているので、数十件の抗議電話があっても、他の国民も同様に不満を抱えているはずであり、見逃せない動きである、そういう発想になるというか、そういう前提で報道をしていると、面白おかしい事象が増えるので、視聴率のアップにつながる事にもなり、報道として収益が上がる構造になっているのだろう。

しかしながら、繰り返しになるが国民の知能には大きな振れ幅があり、画一的では決してない。価値観も千差万別であり、それを多数派が牛耳っていくというのが民主主義社会である。この価値観が千差万別であると言う事を改めて認識する必要があるのと、それを認識してないと、「みな同じ価値観のはずなのに、なぜこの人は分かってくれないのだろう」というストレスが不必要に増えて行ってしまう。

現在のようなコロナの感染が収束しない状況において、国民のストレスは溜まって行っているように思うが、みな自分の価値観があり、その価値観ベースで「みな同じ価値観のはずなのに、なぜ分からない人が多いのだろう」、こういうストレスが激しい意見に繋がっているように見える。Go to トラベルにしても、一方では「収束していない時期に始めたこと自体が理解できない」、一方は「このまま旅行業界は死んでしまうので、天の恵みであった」、こういう180度違う意見が出てくるが、それは立場が違えばそうなるのは当たり前であり、双方の意見を尊重しなければならない。なのに断定的な論調で、誰があってる、誰が間違っている、この議論が永遠と続いているようで、不毛にしか感じない。

これが鎖国が250年続いた島国根性なのだろうか。それとも全世界的に、例えばアメリカでは分断が進んでいるが、世界的な傾向なのだろうか。SNSの発達は人間をむしろ内向きにしてしまったのかもしれない。自分の意見が以前に比べて相対的に力を持っている気になってしまい、自己の肯定を増長する事になり、内向きな発想が増えているのかもしれない。