ケーキの切れない非行少年たち

ケーキの切れない非行少年たち

ちょっと前に話題になった「ケーキの切れない非行少年たち」を改めて読んでいる。

ケーキの切れない非行少年たち (新潮新書)

内容は色々と衝撃的で新鮮なものであるが、なんと言っても前にも書いたことであるが、目の前に起こっていることに対するとらえ方が、人によってあまりにも大きく差があることが実例を持って語られていて興味深い書籍になっている。もちろん、発達障害の少年の話で合ったり、一般の例から言うと一部特殊なケースが含まれているという面があるが、これはある意味では一般社会の縮図であり、一般社会においても、職場で隣で仕事をしている人であっても、目の前に起きていること、同じ文章、同じ言葉を聞いても、まず価値観の違いからとらえ方が違うという面もあるが、認知の能力の差異というのはどんな個人にも存在するので、認知内容の差が発生している、この事実に改めて気づかされるのである。

とかくビジネスの分野では、特に私のように国際交渉の場に多く出席する立場であると、意見の対立というのは日常茶飯事であり、感情的になることすらある。それはそれでビジネスを展開する上で大事なプロセスであるが、認知能力の差というのは、国々の価値観の差、文化の差に隠れがちであるが、存在しており、これが前提条件の違いで合ったり、ものの見る角度の違いにつながっているのだろうと、感じる次第である。

認知能力という意味では、もちろん個体差というか個人差もあるのだが、興味深いのは人間のバイオリズムであり、今同時並行で読んでいる本によると、「揺らぎ」という物質現象の根本を担うものにより、人間にもいくつかのバイオリズムがあるということだ。もちろん、朝と夜にでは体内の各器官の働きが違い、発揮される認知能力にも影響してくるということもあるだろう。

世界は「ゆらぎ」でできている 宇宙、素粒子、人体の本質 (光文社新書)

人間には一番有名な25時間の周期があり、毎朝太陽の光でリセットされるというのは有名な話であるが、それ以外にも体内器官の周期というものが存在しており、人間活動もそれに影響を受けている。それらが認知能力の差を生み出すケースもあるだろう。

序盤から話題がだいぶ変わってきたが、何が言いたかったかというと、認知能力には個体差、個人内差両面で、想像するよりも大きなギャップが存在しているということである。その存在がある上で社会生活を送らないと、いろいろな場面で理解できないことに遭遇し、それがストレスになってしまう。

これは現代社会が抱えている闇であり、平等とか人権という問題を過剰にリスペクトしすぎた結果として、国民は均質な存在であるというイメージがつきすぎてしまったことにも起因していると思う。富める人も貧しい人も、賢い人もそうでない人も多様な人がおり国民を構成しているというのが30,40年前の社会であったと思うが、人権とか差別の意識の高まりもあり、なんとなく多様な人がいることをマスメディアなんかでは伝えられなくなっている感じがある。テレビがつまらなくなったという人がいるが、これが一因だろう。これによって、我々の意識の中に、人はある程度均質なのではないか、こんな幻想が広がってしまっているのかもしれない。それが、認知能力にそもそも差があるということを忘れさせてしまい、現代人の多くのイライラにつながっているのではないだろうか。

アメリカンドリーム

アメリカンドリーム

アメリカでは4大とも5大とも言われるプロスポーツが有名であり、フットボール、バスケ、野球、ホッケー、サッカーと色とりどりだ。それぞれに競技においてカレッジもすそ野が広く、カレッジフットボール、カレッジのバスケットボールは異常な盛り上がりがあり、お金もかなりの金額がスポンサー等々から動いている。プロスポーツのトップ選手の年俸は数十億円にもなり、広告露出も多く100億を稼ぐような選手もいる。ゴルフもトッププロが大金を稼ぐ競技であり、とにかくスポーツで成功を収めるというのは、アメリカンドリームの一つとして挙げられており、子供たちはそれを夢見て小さなころから生活する。

もちろん映画俳優、歌手、これらもアメリカンドリームを体現する存在であり、子供たちはこれらに対してもあこがれを抱き、自分もいつかはそういう存在になるということを夢見て生活するのである。

ファンタジーランド 【合本版】―狂気と幻想のアメリカ500年史

これは実は厳しい学歴社会の裏返しであるというように、筆者は思っている。アメリカほど学歴の差を覆すのは難しく、家庭環境が学歴に与える影響が大きい社会はないのではないだろうか。例えば、大学に一人通わせるのに数千万円かかるのはざらであり、有名大学であればもっと費用が掛かる。日本でも私大の学費は高いといわれるが、アメリカの場合、大学進学の費用を賄えるのは一定の富裕層であり、それ以外は学生ローンという方法もあるが、基本的には富裕層の子女が大学進学のほとんどを占める。有名大学を卒業すると就職先は数多あり、一定以上のレベルの収入を得ることができる。

大学に行かせられない層には、TVやメディアを使ってアメリカンドリームの存在をあおる。スポーツ選手の自宅紹介や、日常密着映像を見て、そういった層に対してアメリカンドリームは身近な存在であり、だれに対しても開かれているんだよ、そういったメッセージをTVを使って発信するのである。アメリカンドリームをつかんだ人間のストーリーなんかを紹介するが、親が貧しくて、努力して、みたいな誰にでも起こりうる点を強調するが、実際には天賦の才が導いた側面が強く、誰でもなれるかというと、その夢が破れた一般の人間のほうが圧倒的に多い。その夢破れた人に対しても「アメリカンドリームを本当に夢見れたではないか」というのが慰めになり、不満は爆発には至らない。これが貧困層を押さえつけてきたからくりの一つではないだろうか。ショービジネスを切り貼りして身近な存在と演出することは、富裕層が世代によって入れ替わらない社会を作っていることを、富裕層自身が免罪符としているのかもしれない。

民主主義とは

2020年8月5日の日記より

民主主義とは

そもそも民主主義とは民というのは民衆の意味であり、民衆が物事の中心となり意思決定をしていくという仕組みである。日本で言うと、議会の選挙があり、民衆の中から代議員という代表者が選出され、彼ら民衆の代表者である代議員が行政の長である総理大臣を選出する。行政の長は組閣権を持ち、行政府の長を選出するという仕組みになっており、立法、行政においては確実に民主主義と言う仕組みで実行されているのは間違いない。

民主主義とは何なのか (文春新書)

長谷川氏の著書によると、民主主義と言うのは、寡頭制政治のような形態、独裁制のような形態、これらがシステム不良を起こして循環していく中での統治の一形態である、という位置付けであった。寡頭制政治というのは少数ながら複数の識者や賢者と呼ばれる人間が、現状把握、将来の見通しを考えて意思決定を行っていくシステムである。日本で言うと江戸時代の老中のシステムは近いところがあるかもしれない。しかしながら、例えば飢饉、天災等の国家経営に関わる重大事故が発生した時には、しばしば少人数の老中の間でも意見の対立が起こる。これは現代の政治でも言える事だが対立における根本的な問題は、優先順位と時系列の見方の問題であり、これが対立軸になるのだが、双方の立場においては論理的に正しい主張となるので、結論が出ないと言う事がしばしばおこる。優先順位と言うのは、例えば財政規律と、困窮者の支援、どちらを優先するかという問題で、基本的にはどちらも正しいが、相対する方向性である。また、時間軸で言うと、20,30年後の巨大地震のために税金を投入してインフラ整備を行うか、2,3年後の需要急増のために物流インフラを充実させるのか、これらも予算配分において対立に陥りやすい。そういった対立状況に陥った時に決定を行うのは、先の江戸時代の話で言うと、大老か将軍と言う事になる。

こういった危機における政治では、問題点が続発する事になる事もあり、対立軸が多くでき、意思決定のために、政治が専制化しやすい。意思決定がなければ生活困窮によって死んでしまう人間が出てくるからである。そういう過程を経て独裁的な政治に移行していく。これは独裁者が「独裁をしたい」という意思を持って始まる政治と言うよりは、恐らく先に述べたように独裁的な意思決定が必要となるから生まれる統治機構なのだと思われる。独裁政治においては、迅速な意思決定により目先の問題を解決しやすくなり、短期的には非常に良好な政治運営を行える可能性がある。しかしながら、中長期的には権力の固定化により、富の固定化や、ねじ曲がった意思決定を監視する機構の弱体化、という問題が発生してくる。特に後者について、政治における問題と言うのは前述の通り相反する対立軸のどちらかを選択するという意思決定が必要であるが、独裁者の志向により偏った意思決定の数が増えていく可能性があり、統治されている国民すべてもしくは過半数が納得する意思決定を常に行えるわけではなく、国民側から独裁者に対する批判の目が増えてくる。特に、独裁政治に移行した直ぐ後は迅速な意思決定によって、目の前の問題を迅速に解決していた姿を目の当たりにするので、こういった国民からの批判が出てくるのはある意味では避けがたく、さらに時間的にも比較的早く不満は充満していくのであろう。フランスの市民革命なども良い例である。

そういう状況が起こると、国民の多くもしくは過半数が「自分たちで意思決定したほうが良いだろう」という考えを持ち出す。これがまさに市民革命であり近代的な民主主義の始まりである。我々現代を生きる人間にとっては、民主主義と言うのはごく当然の「正しい」価値観として捉えられているが、こういった流れの中での統治の一つのシステムである。一見すると、みんなの意思を確認して多数派の意思決定を受け入れるという平等な制度に見えるが、政治と言うものの本質を考えた時には非常に怪しいシステムでもある。

問題点は二つあり、一つ目は、意思決定を行う人間の知識、経験、能力の問題である。中国では昔、科挙と言う試験を行い優秀な人材を行政官として活用していたが、行政を行う人間と言うのは、知識、経験、能力が必要であり、誰でもできるわけではない。国の意思決定においても同じであり、国家100年の計を決める人間が、行政の仕組みや、過去の統治機構を知らずに、意思決定を行うことは出来ない。江戸幕府で言えば、老中や官僚となる武士たちは、小さなころから国民とは別のレベルの教育を受けて、意思決定を行う身分となって行った。しかし現代の民主主義と言うのはこれとは違い、日本で言えば年齢が20歳になれば、教育が有ろうとなかろうと意思決定に等しく参加する事が出来、これを集計して民意として、民意で意思決定を行うシステムなのである。多数決をしておけば、正しい意思決定が行えるという前提に立っているのかもしれないが、これがそもそも非常に怪しく、国家として正しい意思決定を出来ているのか、特に21世紀に入ってからの民主義国における意思決定については大いに疑問が出るところだろう。

もう一つの問題は、民衆というマスの人数が意思決定を行うには、投票、選挙と言う仕組みが不可欠であるが、そうなってくると扇動家というのが必ず出てくるという事である。これは現代の職業政治家と意味的にはほぼイコールであるが、知識、経験、能力が乏しい民衆を扇動して、自身の都合が良い意見に導こうとする人間の事である。これを行う人間は非常に巧みに行い、人心を惑わして、都合よく意思決定に導く。さらにこれがエスカレートしていくと扇動家同士の争いになり、ここで大衆迎合的な政治が生まれていく。今まさに米国では大衆迎合的な選挙戦の最中であるが、人気がある扇動家が権力を握る事になり、そういう人間は知識、経験、能力に乏しい人を引き付けるために、短期的な利益につながる政策を中心にこなすことになる。そうなると中期、長期的な政策がないがしろにされる事になり、恐らくは中期的に破たんの道に進まざるを得ないのだろう。

こうして新たな危機が生まれて、民主主義が否定され、また識者、賢者による統治に移行せざるを得ない状況になっていくのだろうが、次回は大衆迎合政治が生み出すジレンマについて、話を進めて行きたい。