メディアの横暴

現在、テニスの全仏オープンが開催中であるが、開催直前に話題をさらったのは大坂なおみ選手である。記者会見への参加を拒否したことで、大会主催者からの反発を浴びることになり、大会を棄権することにした。

勿論、大会規定には記者会見への参加が義務付けられているようであり、そんな中拒否したことなので、ルール違反ではあるが、うつ病を抱えており、記者会見に出ることが苦痛であったという大坂選手のコメントを聞き、賛否両論があった。

同じアスリートの人たちからは同情の声が大きいように感じるが、批判の声を拾ってくるのは勿論マスコミである。彼らの横暴が20歳そこそこの大坂選手を傷つけていることは、あたかも忘れているかのようにである。

自由なメディアというか、開かれたメディアというか、以前は密室の記者クラブ的な感じで大手マスコミが管理していた世界なのかもしれないが、今の世の中は、どんな記者でも比較的自由に記者会見に出入りできる雰囲気で、ネットメディアやタブロイド紙の人でも、出入りしている印象だ。これは、マスコミというものの、そもそものイデオロギーからきていると思うが、言論の自由の番人みたいな位置づけが、根本にはあり、自分たちで改革開放を進めていった結果であろう。

しかしながら、このことが質を低めているのは事実であり、自分たちの首を絞めている。大手メディアが独占していた時代の記者会見は質問の質にしても、聞いている記者の人間性についても、その世界でトップの例えば大坂選手のような人が質問を受けても、同じようなレベルの質に住んでいる人が多かったのではないだろうか。しかしながら、現在の記者会見は、本質ではないような質問であったり、何かのWordを引き出したいだけで、引き出したら引き出したで脚色して自分の描いていた通りの記事を書くような、Fake newsに近いような書き方の記者もいる世界である。

マスコミには色々な問題があるとは思うし、ここに書くには今は時間が足りないのだが、この言論の自由の行き過ぎた精神、自らの改革開放による記者のレベルの低下、この点は大きな問題点であり、今後も止まらない問題であろう。マスコミを志して、ジャーナリスト然としている人々にとって、言論の自由と改革開放はイデオロギーの骨格であるからである。ここを否定してしまうと矛盾が突き付けられてしまい、自らが崩壊してしまうのである。

諸外国ではわからないが、日本ではまとめニュースサイトの存在も問題であると筆者は感じている。これは、ニュースを見る読み手のレベルを低下させており、まず一方的なニュース、自分の考えに近いこと、自分の興味に近いことしかニュースを読ませない傾向を植え付け、そのことが問題を批判的に見る目を衰えさせている。さらに、大手一般紙からタブロイド紙、謎の週刊誌まで同列にニュースを表示するようになったので、それぞれの質ややり口の違いについて検証せずにニュースを受け取るようになっている。タブロイドの夕刊フジとかゲンダイとか、ネットがなければ中年のおじさんしか読まなかったような明らかに怪しいメディアの論調や報道を真に受ける若者が出てくるのである。これが拡散されFake newsになっていくのであるが、昭和の時代は夕刊フジの言っていることはかなり怪しいということはみんな分かってみてたのである。

持って行きどころのない宣言延長

緊急事態宣言が東京都では延長された。他の宣言地域も同様に延長されたわけであるが、例によって延長の根拠はよくわからない。よくわからないというか、延長の根拠はないのだろう、延長を則したのは空気感だからだ。

宛てにならないとは思いながらであるが、世論調査の結果などを見ても半数以上が宣言の延長を支持している状況であったので、どんなに科学的根拠があったとしても、宣言の終結を言うことはできないのだろう。菅総理にしても各都道府県の知事にしても、3月の大阪で解除を早まったというトラウマがあり、誰も解除を言い出せる状況にはない。

マスコミはマスコミで、誰かが解除を口走って、解除に至り、少しでも感染者数が増えようもんなら、その誰かを徹底的に攻撃するのだろう。昨日、テレビ朝日の報道番組のキャスターは、緊急事態宣言が延長されても収束する気配がないことに憤りを示していたが、誰に対する憤りなのだろうか。彼らはそれがさも政府が悪いように報道するが、政府にしたって緊急事態宣言以外に手がない、それに尽きるわけである。

緊急事態宣言については巷の空気感がかなりの割合で緊急事態宣言は不要だね、そうならないと解除するきっかけを失ってしまっている。3月の大阪の検証もなされないまま、空気だけで語ってしまう。その空気を作っているのはマスコミであることを十分に認識すべきだろう。

3月の大阪の検証というのはどうなのだろうか。変異株に置き換わった、ということが言われているが本当に変異株は1.7倍とか2倍の感染力なのだろうか。確か英国で出た論文にそう書かれていた、というのが始まりでそこから壮大な独り歩きというか、便利な枕詞として不安を煽りたいマスコミに徹底的に活用されている。視聴率を稼ぎたいだろうから、不安を煽るマスコミにはうってつけの論文だったのだろう。ただ、コロナウイルス自体世間は一年程度の経験しかなく、変異株に至っては、その論文にしても圧倒的に初期調査の結果のみで、統計学的に精査されているのかもわからないような初期報告をしているだけである。

統計学というか、科学の検証というのは通常観測されるノイズを除去していってこそ、効果や結果を測定できるというのは常識であり、それがなされないと本当のことは分からない。もちろん、その検証ができなかったから初期報告をBBCなりが報道したのであろうが、その後検証は聞こえてこないわけである。

コロナウイルスの新規感染者数の推移を見てると、もちろん国にもよるのであるが、ロックダウンのような規制の影響もあるが、その他の感染対策の影響もあるし、季節要因もあるように思われる。特に昨年年末の感染拡大は世界各国で見られており、これは人々が外出する季節であったことが要因として圧倒的に大きい感じがする。そういう意味では日本の3,4月は人が動く季節であり、このあたりに感染者数が増えるのは当然であり、インドの感染爆発も3月はインドのお祭りの期間であったから、というのが大きい。

民主主義とは何なのか (文春新書)

ウイルス自体の感染力というのは何を基準にどういったケースを想定して言っているのかまったくもって理解ができないが、そんな事より社会要因の方が圧倒的に効いてくるのである。何をもって1.7倍と言ってるのかよくわからないが、この言葉に踊らされているのは、まずマスコミ、そして科学リテラシーのない大多数の日本国民なのであろう。変異株とオリンピックを結びつけるような謎の報道すらある。選手が大挙として来るとどんな変異株が日本に持ち込まれるか分からないというもので、一見その通りのように思うが、そんなことは日本国内でも起こりうるわけであるし、いまでも海外からの渡航者はいるわけであり、そうであれば完全に国境を閉鎖すべきであるし、オリンピックだけ悪者にするのは違う。

米国では一年も前にフロリダでNBAのPlay offをバブル開催していた。豪州や米国ではテニスの4大大会をバブル開催していた。それを行って感染者数の大幅な増加は見られたのだろうか。日本でもテスト大会の国際大会は開催しているし、野球やサッカーで数千人の観客を入れてのイベントも行っている。こういうイベントの検証は済んでいるのだろうか。マスコミはそういう事を報道すべきではないだろうか。恐らく、「じゃー問題ないじゃん」という結論になってしまって、空気感と相いれない内容になってしまうのだろう。そうすると国民が色んな意味で冷めてしまうので、報道する側が面白くなくなってしまう。そんなどうでもいい価値判断で空気を決めていっているのである。

報道が煽る脅威

テレビをつけても、分かってるのか分かってないのかというようなお笑い芸人が司会の報道番組然としている番組が、「インドの変異株が」「大変なことになる恐れも」そんな事しか言わないで、煽り立てているので、テレビはほとんど見なくなった。

この一年間のマスコミの報道が如何にいい加減だったか、科学的な視点を持つことができないか、大いに立証されたと思う。昨年の5月頃に緊急事態宣言が明けたら、東京の感染者は1000,2000人と級数的に増えていく「可能性がある」と騒ぎ立ててたのを思い出す。

今度は変異株らしい。しかも、インドの変異株と言えば、インドが医療崩壊を起こして酸素ボンベの取り合いをしていたこと、ガンジス川に死体が流れていたこと、これらの映像と合わせて流せば、最大の恐怖を植え付けることができる。

3,4月頃から変異株にどんどん置き換わっているから変異株の感染力は高いという報道もあったが、前の株の勢力が弱まっていただけであろう。もちろん、それを感染力が高いという言い方もできるかもしれないが、そもそも「感染力が高い」という言葉の定義もせず、曖昧なまま連呼する。感染者一人が他者に移す可能性が高まるのか、恐らくそういう意味で使いたい人が多いのだろうが、そうではない場面でも「感染力が高い」という言葉を使って煽り立てている報道が多い。

明治維新とは何だったのか――世界史から考える

そもそもそういった似非報道番組で司会をしている人たちに共通していることは、その場を取り繕う言葉を紡ぐことに関しては、非常に秀でているのだろうな、ということである。だからこそ、その瞬発力が高い芸人出身の人が重宝されている。もちろん、その場を取り繕うことが上手な人間は一定程度の知能の高さも併せ持っているのかもしれないが、そもそも芸人さんという職業は言葉の定義、科学的な分析手法、論理的な構成、こういうのを曖昧にすることで、「ずれ」を生み出して笑いを生む職業であり、報道に要求したいような言葉の正確性、定義の明確化、科学的な分析、論理的な話の展開、こういったものを求めるのは、かわいそうなのである。

ではなぜそういう報道になっているかというと、視聴者が求めているのである。如何せん数学、理科、理系と言われる学問を軽視してきたこの日本である。文系なんて言葉は恐らく世界にはない。芸術と言われる分野を追求することを学問と呼ぶのか微妙であることはさておき、芸術的な分野以外の学問分野において重要なことは、論理的な構成力である。理系と言われる分野であっても、文系と言われる分野であっても、Paperは論文と言われる。文字から言っても論理性が必要なのである。

数学や物理学、これらを追求する学問がどこか変わり者の学問ととらえられている風潮がある。これは一定程度は世界的にも言えることかもしれないが、日本における教育においての数学の軽視は驚きを覚えるほどであり、大学入試に数学を課さない大学があったりするらしいが、そんな程度の論理性でたとえば企業の経営とかについてもできるのだろうか。

そういう社会的な前提の上に、非論理的な司会者が曖昧な表現を強調してしゃべることが好まれている。その場その場を取り繕って、軽い笑いにつなげる軽妙なテンポのみが要求されるようになっている。科学的な視点や論理的な構成を無視して、煽り続ける構図がこうやってできてくるのである。

何が良いたいのかというと、報道がすべて間違っているわけではなく、インド株の脅威も一定程度あるのだろう。ただ、何が重要な脅威であり、何が軽度な脅威であるのか、どの程度なら我々は苦難を受け入れて、乗り越える必要があるのか、そういった議論をしなければならない。オリンピック開催にばかり批判が向いているが、それほどの脅威なのだろうか。札幌のマラソンのプレ大会も批判が多くあったが、あれだけ感染対策をして、無観客と言っており、さらには海外から選手を招いたわけではないのに、何を脅威と言ってるのだろうか。恐らくは、「大変な時に開催する」という空気感だけが批判を受けた理由であろう。この空気で批判を作り出すことは、様々な可能性を積んでしまうことに繋がるし、空気を作り出すのはマスコミであることをしっかりと認識したほうが良いであろう。