結論は早いほうが良いのか

2021年1月20日の日記より

俗にいう第三波の感染拡大のただなかにいる状況に置かれているが、世論なのか、少数の心配性の意見なのか分からないが、悲観論が目立つ。1か月後には東京の感染者が8000人になるとか、前回20年4月の緊急事態宣言の時も同じような報道がなされていたが、今回も誰も分からない事を、さも分かったように、さらにどこかの大学教授とかの権威を活用しながら、うまいこと自分たちの責任にはならないように語尾を調整しながら、報道を垂れ流している。

20年4,5月の時点で二次関数的な感染者の伸びの予想を報道していたテレビもあったが、あれは何だったのだろうかという気持ちにさせられる。ただ、報道をしていたその瞬間においては「という予測も」とか「最悪の場合」とか一応予防線は張りながら報道していたようだが、情報の拡散力とは恐ろしいもので、一部が切り取られて拡散していってしまう。

これは今の世の中では避けられない宿命であり、視覚的に何かを報道するようなときは本当に気を付けなければならないと思う。ただ、報道する側にそこの意識が欠けているというか、結果的に嘘情報を報道してしまっていたり、世論を間違った方向にミスリードしても責任を取るそぶりはみじんもなく、当事者ではなくあくまでも外野でヤジを飛ばしているというスタンスを貫いている。当事者感がないヤジというのは本来共感を呼ばないもので、嫌悪の対象にすらなる。それが回り回ってテレビ離れを誘発していると思うのだが、業界はどのように感じているのか、興味深いところでもある。

半年前にもよく聞いた話であるが、オリンピックなんか開催している場合ではないという論調がまた強まってきた。組織委員会や、与党政治家のオリンピック開催準備に向けた発言が出るたびに一定程度が、開催は無理だ、開催している場合ではない、そういった事を言っているように報道がなされている。この議論にもなっていないようなしょうもないやり取りを見ているとげんなりするが、組織委員会にしても昨年は延期を決断したように、状況が見通せなかったり、世界的に感染が拡大している事が明らかな時に、何万人もの外国人の受け入れをしようとは思っていないはずであり、もちろんワクチンによる感染拡大の落ち着きがなされればという条件で、準備を進めているだけの話である。

オリンピック程の大イベントについては、相当の準備が必要であるし、開催出来る事になった場合に備えて準備が必要なのである。もちろん、組織委員会としては「開催できるか不透明ながら」という部分は明言しづらい。そうしてしまうと準備が進みづらくなるからであり、そういう行間的なものを読み取らず、森組織委員長が前向きな発言をしただけで、ネットは罵詈雑言に包まれる。とにかく目の前の事柄に反応する事がネットの言論であり、3か月先、半年先のケーススタディですらほぼ許されない。これはこれでいいのだが、これをテレビとか新聞のようなマスメディアが、さも世論のように取り上げて、それを情報ソースとしている人たちの頭の中を洗脳しようとする。結果としてオリンピック開催準備をするなんて行為は馬鹿がやる事だ、みたいな風潮が出来上がってくる。ネットの言論はそれはそれでいいのだが、世論という形状に仕立て上げてしまう、テレビという旧世代の情報発信装置に問題があるのかもしれない。特に国民の30%とも言われる高齢者は世代的にもテレビの情報を信じてしまう所があり、民主的な政策決定にテレビが与える影響というのはいまだに大きいのである。

空気感とポリティカルコレクトネス

騒いだもの勝ちという哲学というか文化は、例えばインドやインドネシアなどの国でよくみられるし、旧共産圏の国でも見られるというのが、当方の印象であった。嫌な事があれば、騒ぎ立てると自分の思い通りに行く可能性があるという感じで、とりあえず言いたい事、自分の意見を騒ぎ立てる、という旧来の日本の感覚だと少し品が無く感じるスタンスだが、それは国による文化の違いであったり、政治体制の違いであったり、そういうものによる違いであるから、良い悪いの話ではない。ただ、どちらかというと少数の立場の人の意見が聞き入れられづらいような国、すなわち政治的に民主的な活動が抑圧されていた地域で多く見られる現象のように感じる。少数者は騒がないと意見を聞いてももらえなかったという歴史的なものが影響している可能性が高い。

世界を変えた14の密約

昨今、日本もそういった状況になりつつあるように感じる。民主主義が正常に機能していないからなのか、SNSの普及なのか分からないところもあるが、とにかく、「それって何人が言ってる?」というような意見が、マスコミに取り上げられ、さらには世論を形成していく事すらある。少数意見が重要であることは、政治の場でも、企業の実業の場でも当然であるが、少数意見で空気を作り出して、多数派に築き上げていってしまう、という手法が非常に怖い。例えば、コロナウイルスの感染拡大を予防するための行動について、世の中には異常に警戒する人、そうでもない人、様々な意見があり、健康状態や年齢によっても違うだろう。

そんな中、異常に警戒する人の意見が世論の空気感を作り上げてしまっており、経済活動を少しでも動かすというような異論は受け付けない空気がある。経済は死んだとしても、最高の完全無欠の感染対策をする事がポリティカルコレクトネスであるかのようにである。高齢者がコロナウイルスによって搬送先が見つからず無くなったというニュースが異常に強調されて報道される。もちろん人の命は大事であるが、政策にはバランスが必要である。国会議論でも「人の命を何だと思ってるんですか?」という野党の質問で議論が止まってしまう場面を報道で見た。この分かりやすい偽善的な言葉を言ってしまうと、議論は終わるし、バランスの取れた政策を取れなくなる。

相手に攻め込まれそうになってるのに、軍備増強をしようとした人に「武器は人を殺すためのものですよ。分かってるんですか?」と止めようとしている革新政党系の意見に近い感じがする。そんなことわかってる。人の命も大事である。ただ、個人の綺麗事だけで運営できないのが国家であり、国民の命を守るために武器が必要であり、国民経済という国民全体にとっての生命線を活かすためには、言い方は悪いが一人の命との比較は慎重に行うべきである。もちろん、助かる命を助けたい、これは当たり前のことであるが、日本国内で見ても平時でも年間に100万人以上が無くなっている。政府というか行政機構はこの100万人について、もっと言えば国民1億人についての政策運営をしなければならず、一人の死亡事案を持ってきて議論する事はナンセンスというか、規模感が違うので噛み合うはずがない。野党の質問で「人が一人死んでいるんですよ」というのがあったが、それはこういう感染症対策の議論で言うべきではない。

偽善的な空気感というのはあっさりと蔓延してしまう。反戦運動というのも大きなうねりになってしまう時があり、注意が必要だ。幸いこの偽善的な空気感が蔓延しているのが高齢者であるというのが日本の救いであり、若者にこういう空気感が火が付くと、デモや実際の行動に移行してしまうので怖いというのは歴史が証明している。ただ、高齢者のサイレントマジョリティー的なマスコミを通した空気づくりは、政策決定にも影響を与えており、異常に感染対策を要求する一部の高齢者が作り出した空気感に、政府も抵抗できなくなっている。緊急事態宣言にNoと言おうものなら、袋叩きになるだろう。高齢者の身勝手で偽善的な思想が、その高齢者の大好きなテレビを通じて空気感の醸成に繋がり、高齢者の支持が無いと職を失う政治家がNoと言えない空気になる、これが現代の政治である。

緊急事態宣言の効果

2021年2月3日の日記より

緊急事態宣言が延長されたわけであるが、緊急事態宣言の効果について、分析している例があまり報道されないのでよくわからない。Go toキャンペーンにより感染が拡大した可能性があるという例の京大の西浦教授の解析結果が瞬間的に報道されたが、あれも教授自身は色々な可能性を伝えたかったのに、一部マスコミが捻じ曲げてGo toキャンペーンを悪者にして、政府批判に繋げたかった意思が先に立ってしまって報道がねじ曲がり、恐らく京大の方からストップがかかったのではないだろうか。

感染症の日本史 (文春新書)

マスコミは自分の論調に都合がよくなければ報道しない。事実に基づいているかどうかは関係なく、視聴率が取れるかどうか、革新系のメディアは政権批判につながるかどうか、これが優先順位が高い。視聴率が取れるかどうかという点は営利企業であるから当然であり、普通の感覚で言うとやむを得ないだろうなと思うのだが、ここにも世代の断絶があり、主に50代以上の人々にとっては、「テレビが言ってるんだから」とテレビは正しい事を報道するものという先入観が強い。

これは情報ソースがテレビしかない時代を過ごしたから検証の使用が無かったからそうなってしまったのかと思う。戦時中の新聞報道がそうであったように、当時の国民は新聞報道が得られる情報の全てであり、新聞が報道しない事は起こっていないという錯覚になってしまった。そういった限られた情報で作られた世論に乗って、というか世論に酔って、軍部が強気強気の政策を進める事になるのである。

その子供世代である現在の50代以上のテレビ世代には、戦時中の新聞報道に熱狂する国民の感覚がいまいち理解できなかったのではないかと思うが、今日起きている事はまさにそういう状況で、テレビ世代がテレビを妄信するのをネット世代は理解が出来ない。テレビは情報発信の一方法でしかなく、他にも情報はいくつも得られるし、日本のテレビだけではなく、世界にもテレビがあると言う事に、ネット世代は気づいているから、日本のテレビが言っている事に拒否感があり、信用していないところがある。一方でテレビ世代はいまだに、テレビが言ってるから正しいだろうという感覚であり、これはまさに戦時中の翼賛会的で、連戦連勝報道に酔っていた国民の陶酔と同じである。

こういった事が現代のテレビとそれを取り巻く世論で起きている。65歳以上が国民の三割で、50代以上というくくりにすれば恐らく半数近く、実際に投票行動を起こす人の割合で言ったら若者は投票率が低いので軽く半数を超える世代が、いまだにテレビ世代なのである。

テレビなんか見ないという若者が多くなっているが、世論はテレビ世代が形成する。その世代をコントロールしているのがテレビというマスメディアであり、とにかくコロナウイルスについても煽り立てる。政府はその煽られた人々の意見に追随していないと次の選挙で勝てないので、マスコミの煽りに乗ってしまう。そうやって緊急事態宣言の効果についての化学的な検証は碌に公表されず、空気感だけで延長が決まってしまう。緊急事態宣言の効果は勿論あったと思うが、どの程度あるのか、これを検証しないといけない。こういった科学的な、統計学的な議論がなされるべきであり、また、ゼロかイチかという議論に矮小化する向きもあるが、本来、感染者の増減は、人の往来、気候、感染防止策、の複合要因であり、どれかが効果があり、どれかが効果が無いとかそんな単純な議論ではない。そういった議論に恐らくマスコミが付いていけないのだろう。マスコミはそんな議論をくどくど説明しても、国民は理解できないし、視聴率が取れないというかもしれないが、国民をバカにしてはいけないと思う。それは言い訳であり、恐らくマスコミに科学的なリテラシーがある人が少ないのだろう。テレビのコメンテーターは歯切れの良さだけを気にして、「要は」とか「つまり」とか分かったようにまとめたがる。

専門家の方に向けて「要はGo toキャンペーンは愚策だったという事ですよね?」とか聞く。専門家は「色々評価はあると思うが」とか「結果として拡大している事実を見ると」とか前置きや仮定を並べて言おうとするのだけど、言った後に“歯切れのいいコメンテーター”が「結果としては感染拡大を招いたわけで、愚策だったと思います」的な薄っぺらい議論にまとめてしまう。テレビというメディアと、それを信仰するテレビ世代の関係性には、戦時中の新聞報道とそれに酔って戦争を推進する世論に染まっていた国民の図式と変わっていない現実を突き付けてくる。