世論の正体

世論というと世間のみんなが考える考え、というような定義がなされている気になってしまう。本来、例えば100人の国民がいたら、100通りの考え方があるはずなのであるが、世論という便利な言葉によって、例えば世論調査で内閣支持率が36%に下がったら、内閣は不信任状態だ、そういった雰囲気が流れてくる。

オリンピックに反対する勢力もあたかも国民の過半の勢力のように報じられ、それがオリンピックへの批判を加速させた。何かあると、オリンピックが悪い、オリンピックだけは特別扱いか、オリンピックは開催できるのに、はっきり言って言い訳のネタにされていた。こんなに子供じみた言い訳はないだろう、という突っ込みが出ないほどに報道は面白おかしく、報道していた。

世論というものは例えば世論調査にしてもそうであるが、偏りがある。まず、選挙にしても、世論調査にしても、回答する人々の世代に偏りがある。これは政治への関心を表しているかもしれないので、若い世代を擁護できないことではあるが、実態として例えば選挙の投票率は、20代の若者は40%程度、60,70代の高齢者は60,70%程度の投票率が、前回の都知事選でも見られていた。

民主主義とは何なのか (文春新書)

65歳以上の高齢者の人口が35%に到達した超高齢化社会の日本において、この投票率の違いはもはや致命的とも言える。要は世論がただの老人の意見になってしまった。高齢者というのは将来を考えない、何故なら自分たちは10,20年後には亡くなるので、現在を重視する。今、国が借金してでも不動産価格を維持して、株価を維持するほうが自分にとって有益なのである。

この超高齢化社会において、世論は10年後とかのちょっと先のことを見据えた政策すら、取りづらくなっているのである。将来の産業育成政策とか、2050年に向けた温暖化対策というのがむなしく聞こえてくるのはこのためであろう。オリンピックにしても、結局反対してたのは老人であり、彼らは自分たちが重症化するリスクが高いので忌み嫌っているが、若者は気にしておらず、お祭り騒ぎをしたかったというのが本音であり、この4連休の人出を見てもそうである。

サンデーモーニングの司会の関口宏がオリンピックなんてやってる場合なのか、的な発言をするが、やはり高齢者から見るとそうなのであろう。彼らが勘違いしてしまっているのは、例えば40年前に彼らが若い世代だったときは、いまほど高齢者人口が多くなく、世論は若い世代の物だった。だから世論調査、世論、と聞くとまだ全国民の意見を代弁しているというように思ってしまうのである。40年経って社会構造が大きく変わったことに意識が追い付いていないというか、気づけなくなってしまっているのだろう。

こういう部分を見ても、80年代の日本が元気だった理由、現在の日本が将来の展望が無く見える理由が見えてくる。人口構成の違い、この事でかなりのことが説明できる。日本の人口構成がフラットになってくるのは、現在の団塊ジュニアが退場する25年後くらい、2045年くらいであろうか。それまでは老人的な国家運営が続くのであろう。

民主主義の怪しさ

現在東京においては緊急事態宣言というものが出されており、今年に入ってほとんどの期間が緊急事態宣言という、皮肉というか言葉の意味から言っても緊急なのか恒久なのかよくわからない状態になっている。オリンピックのためだとか、マスコミはすぐ悪者を作って世論形成をしようとするが、そもそも緊急事態宣言に至っているのは、マスコミが作り上げた世論によるところが大きいだろう。

毎日のように「感染力の強いデルタ株が」と報道していれば、危険な状態になってきていると感じる人は増えるわけであり、7月上旬に緊急事態宣言を出さなければ、それはそれで猛烈な批判を政府は浴びていたであろう。

要は正解がない中で、全力を尽くして対策に当たっている人に対して、正解ではないからと言って批判する知識人とか、専門家と呼ばれる人が多い。こんな状況で正解のかじ取りはなく、うまくいくはずはない。何故なら、スペイン風邪以来の大規模な疫病であり、現代社会において対策がないからである。アメリカなんて何十万人もなくなっており、アメリカの対策に比べて日本の対策はどうなのか、そういう議論もない。

また、緊急事態宣言をした場合のメリットデメリット、しない場合のメリットデメリット、これは批評者であるマスコミや、国民が考えなければならないことであり、政府は考えたうえで対応していると思う。このような状況整理もせず、「自分が思った社会にならないから」という幼稚な精神で何でも批判するのがマスコミにしか見えない。

民主主義とは何なのか (文春新書)

ただ、言葉だけは巧みなので、幼稚な精神性でもさぞ色々考えたような雰囲気を出せるし、その為に、服装やしゃべり方の演出、そういったもので誤魔化して報道を続ける。情報弱者である高齢者がそれを真に受けて、徐々に洗脳されていき、政府は何にもしていない、悪い判断を行っていると考えるようになる。

冷静になって考えてほしいが、東大卒が多い高級官僚が色々と考えて、省内で議論もして作り上げた政策と、マスコミがうわべだけで批判していることのどちらが正解に近い可能性が高いだろうか。マスコミに優秀な学生が就職しなくなって久しいと思われるが、基礎的な認知能力にも差があるわけであり、状況把握、状況整理、政策決定、これらについて筆者は圧倒的に官僚の政策を信じたいと思うに至るわけである。もちろん、政治家というのは文字通り政治が絡むものであり、ストレートフォワードに正解に近い政策に至らないかもしれないし、省庁のトップの意向によって政策が変わってしまう場合もあると思うが、基本的に予備調査、状況把握、状況整理、ここまでは少なくとも官僚が行っているはずである。

そういう意味でいうと、今の姿というのは真面目な政策実行を行おうとする官僚に対して、扇動家のように薄っぺらい論理で大衆を言葉巧みに導くマスコミ、この対立構図がうかがえる。歴史を紐解くと、扇動された国民というのは誤った方向に国を導く。ナチスドイツもそうであり、戦中の日本もそうだったはずである。国民の意思というのは非常に危険である。認知能力が低い人も多いわけであり、そういう人たちが例えば多数派になってしまった場合に、正しい結論を導けるのであろうか。不満げに政府批判を繰り返す人たちを見て、この人たちが大臣になったりしたら、この国は崩壊するな、と思い、しかし扇動家によってそういった政治体制が作られつつあるのかもしれない、とも思う次第である。

ESGに関して

木材を使ったビルに投資するとESG投資で、鋼材を使ったビルに投資するとそうではない。イメージ的にもそうであるし、実際本日の新聞にもそういう投資があると記載があった。もちろん、紙面には記載しきれない要件とかがあり、原材料だけの問題ではないのだろうが、イメージで語られることの危険というのはある。

これは地球温暖化の議論でもそうであるが、エコバッグを使うとプラスチックバッグを使わないのでESGだ。これは本当なのであろうか。疑ってみる必要は本当にないのだろうか。

木材と鋼材でいうと、森林伐採の影響というのは昨今言われなくなっている気がする。20世紀のころはアマゾンの森林が急速なペースで失われており、二酸化炭素の吸収量が減っている、そういった論調が目立っていた。毎年日本の国土に相当する分とかが焼失されていたような曖昧な記憶があるが、現在はどうなってしまったのであろうか。

世界を変えた14の密約

例えば、鉄鋼の鋼材については、鉄鉱石と石炭から作る鋼材が日本や中国では多いが、米国ではスクラップるから製造する鉄鋼の量の方が多いと言われている。その場合、どちらが環境にいいのだろうか。従来の論調であったら、木材を伐採することは二酸化炭素の排出ではなく、吸収量の低下を招くという議論があったように思うが、これはもう取るに足らない議論となってしまったのだろうか。

勿論、鋼材はスクラップを溶かすときに大量の電力を使うので、現在のEVの議論と同じで火力発電を使う限りにおいては、環境にやさしくはないのではあるが、木材と比べてどうなのか、これは議論が必要である。

ストローやプラスチックカップについては、海洋汚染が言われているので、材料としての環境負荷について議論はあまりされていないが、材料としての環境負荷だけで見た場合にどうなるのかは興味がある。ここでも問題は複雑に絡んでおり、カメの鼻にストローが刺さっている映像でイメージ戦略化されている可能性はある。ツバルの海面上昇が実は井戸水の堀りすぎによる地盤沈下だったのは有名な話であり、氷山が解け落ちる映像は多くは北極海に浮かんでいる氷山だったのも有名な話だ。

イメージ戦略がどうもついて回る節があるESG議論というのは、ESG問題自体は非常に重要な問題ではあるのだけど、一つ一つの話については疑ってみる必要がある。基本的には理研の対立のケースが多く、ESG、ESGとは言っても、何らかの商業的な利得と結びついているケースは少なくないと思う。