海洋性民族

海洋性民族

日本人は魚をよく食べる。もちろん他の国の人々も魚介類を食べるのだが、例えばアメリカ人、特に中西部のような大陸の真ん中にあるような地域では魚を食べるというのはかなり稀な行為だ。そういった意味で、日本人は平均以上に魚介類というか、海洋性の食物を多く消費する方の民族であることは間違いなさそうだ。

海の歴史

日本人の祖先は二系統ありそうなことは昨今多く言われており、南、もっと言えば、出アフリカ以来海岸を移住してきた南方系の、海洋性の集団があり、インドからマラッカ、ベトナムと移動して日本列島に至った民族集団であり、この言い方が正しいのかはわからないが以前の言い方では縄文系と言われた、比較的彫が深いタイプの顔つきの人たちが一つ。もう一つは大陸系と言われる、中国、朝鮮半島から移住してきたタイプの民族があると言われている。世界地図を見た時に、大陸経路と海岸経路が出アフリカで分かれてから、日本列島という有る意味では袋小路で会いまみれるというのは、壮大な歴史を感じさせるし、人類の多様性を改めて実感する。ホモサピエンスが地上に現れたのは20万年前と言われ、そこからは諸説あるようだが出アフリカをしたのが10万年前として、日本にホモサピエンスが住み始めたのが3万年前とすると、7万年の別れを経て、日本列島にて再開した、という言い方も出来そうである。もしかすると10万年かもしれないし、5万年かもしれないが、いづれにせよそれくらいの年月を経て、経路による違いは恐らく大きかったと思われる。7万年とかいうオーダーはそれくらい種を大きく変える事が出来る。

さらにいうと恐らく両系統共に、他のヒト種との交雑が行われたのではないかとも言われている。海岸性の民族の方はジャワ原人なのか、フローレンスにいたヒト種なのか詳細は分からないが比較的小型のヒト種との交雑があり、恐らく浅黒い肌、堀の深い顔、比較的多い体毛、これらはそういった種の影響かもしれない。北方から来た大陸系はデミタス原人とか、もしかしたらネアンデルタール人の影響もあるかもしれないが、いづれにせよこちらも他のヒト種との交雑があった可能性が高い。

当時の人々を考える際に、現在との多様性の違いに驚かされる。進化人類学的に物事を捉えて、現代社会と比較するという考え方があるのかどうかわからないが、種の壁を越えて交雑するという多様性は、現生人類にはない。これは大きな違いであり、当時の人々の野心的な気持ちというか種の保存のために出来る事は何でもしていた、という点が意識的、無意識的、考え方はあるが、興味深いし、尊敬に値するともいえる。また、現代に比べて圧倒的に生存する難易度が高いにもかかわらず、何万年もかけて東へ東へ進出していったバイタリティーも現生人類に比べると、非常に大きかったのではないだろうか。もちろん、食糧が無くなって、余剰人口が止むを得ず、移住地を求めるために未開の東へ進んだという面が強く、さらにその中でも何例もの移住が失敗に終わり、何万年という年月をかけて、かなりの失敗を経て、徐々に東に来たので一概には言えないが、現代の感覚から言っても、未開の地へ大した科学技術も持たずに進出していくのは、火星への移住位野心的とも感じる次第で、尊敬に値する。

人類の歴史というのはそういった多様性の維持を積極的に獲得してきたからこそ紡がれてきた歴史であり、これをないがしろにすると中長期的に悲劇を招くだろう。スケール感が異なる話にはなってしまうのだが、多様性というは重要視すべき価値観の一つであり、対義語的な同一性、同調性、閉鎖性、これらが台頭する時は、人類が悪い方向に進む時なのだろうと思う。歴史を紐解いてみても、卵が先か鶏が先か的なところはあるが、大戦争が起きるのは、同調性や排他性の圧力が強まる時であり、人類は殺し合いを行うのである。それに至る過程は、もちろん生活の困窮であったり、富の奪い合いから始まるので、生きるために殺し合いを行うという逆説的な言い方になるのだが、少しでも多様性の尊重という意識を持っていれば、避けられる戦争、対立もあるのかもしれない。それが20万年もかけて人類が繋いできた事であり、繁栄した理由かもしれない。それを否定する事は、人類の繁栄に反旗を翻すことにもつながりかねず、今一度多様性について考え直す時期なのかもしれない。

宗教の本質と体制

宗教の本質と体制

宗教というものの本質は、死からの救済という所にあるのかと思う。年老いた家族の死や、若くして亡くなる家族、友人の死という厳しい現実に対して、残された人間の救済が心身の健康のためには必要だ。また、自分の死という現実に対しても、死という現実から目をそらすための理論が必要であり、宗教というものに発展する。死というのは全てを無に帰してしまう非常に残酷なものであり、世の中に宗教が発達した一つの理由だろう。

死について体系的に理論化し、死後の世界を描いたり、死後の世界のルールを決めていくのは宗教の役割で、それがあるからこそ安心して送り出せるし、安心して死を受け入れるようになっていくのだろう。一方、生きる事についても宗教というのは重要な役割を担っている。なぜ生きるのか、何故幸福感に差が発生するのか、何故苦しいのか、何故楽しいのか、こういった事に一人で回答を示すことは難しく、出来るのは一握りにのヒトであろう。

なぜ生きるのか、これに対する明確な回答というのは、死を受け入れる事よりも難しい。人生というのを物体の動きとして捉えると、生というのは運動をしている状態であり、死というのはそれが止まる事である。そう考えると死とは生が止まる状態であると定義でき、生という物体が動いている状態、について、何故動くのか、この点の方が大きな論点になりそうである。

何故動くのか、というのがなぜ生きるのか、という部分に通じるのだが、生物学的に言うと、これは人だけではなく、全ての生物に共通の意思があり、自らの子孫を後世に伝える、言い換えれば自らのDNAという物体を将来にわたって生き延びさせる、というのが生きる趣旨だ。これは全ての生物において共通の目的になっているようにも見える。DNAを後世に伝えるというのは、どういう意味合いなのか。DNAの塩基はいくつかの組み合わせで意味を持つものになるが、そこで示されている一塊の情報を将来にわたって維持する事に意味があるのだろうか。我々はその情報を未来永劫維持するために、生活、人生を送っているのだろうか。この点について、明確な回答はどの宗教も出せておらず、生物が38億年かけて地球でつぐんできた歴史の意味合いというものについても誰も分かっていないのが現実だろう。

もっと言えば、何故38億年前に生物が発生したのか。45億年前に地球が出来、150億年前に宇宙が出来たのはなぜのなか、そういう話になってしまう。ビッグバンの前の世界はどうだったのか、ビッグバンを起こしたのが神なのか。宇宙の始まりや、その後の世界の進展に何らかの意思や目的があるのか、これこそ宗教として探求していくと、興味深い分野なのだろうな、と感じる次第である。

古来のキリスト教は、これをすべて神が作ったものとした。ガリレオやダーウィンがでてくるまでは、キリスト教の理論というのはもっともらしく見えていたようだが、科学が地動説や進化論を認めて、太陽が出来てから地球が出来た事、ヒトはチンパンジーと近縁で哺乳類の起源はネズミに類似した生き物だった事、こういった事がすこしづつ理論を否定してきた。現代における宗教というのは、次のステップを検討すべきであり、ビッグバンの前の世界への想像、そしてその後の宇宙の進化、地球の進化、生物の進化、これらに意味を持たせて、我々生物が今後進むべき道というか、目的というのを体系化していく事が宗教として我々の人生の生きる意味を説明するものになるのだろう。

勿論、個人としての生きる意味というのはもっと簡単で良くて、例えば、今日も幸福に、充実した人生、こんな簡単な言葉でよく、自らのライフスタイルを規定していけば、自分、家族、友人、これらの進むべき道は見えてくる。それらを下支えとして生活をしていく事は勿論なのだが、生命というか生物全般における生きる意味、生をもらっている意味合い、これらを探求する事は、科学の分野に通じる事でもあるし、非常に大きな示唆を与えてくれる。そういった事もあり、何故恐竜は絶滅したのか、というのも興味深い分野であり、地球上を牛耳っていた生物である恐竜が絶滅したのは隕石の衝突が原因と言われてはいるが、隕石が衝突しても絶滅していない生物種がおり、それが人類にまで発展したという事実はある。

地球上を牛耳るまでなると、環境の劇的な変化に種として対応できなくなるとか、そういった種としての脆弱性が進んでいったのかもしれない。これは我々現代の人類にも大きな示唆を与えるものであり、今後興味深く検証していきたい。

宗教と科学

宗教と科学

この古くて新しいテーマについての対立は17世紀、18世紀よりは落ち着いているようにも見える。ガリレオやダーウィンが活躍した時代に比べたら、現代の科学者は新発見について誇りを持てるようになっているだろう。これは宗教側が譲歩しているとか、科学に適応しようとしているわけではなく、科学の発見が宗教の論理を凌駕しているからだと思われる。

宗教側の姿勢というのはそれほど変わっていないように見えるからである。例えば米国ではいまだに進化論を教える事が出来ない州があると言われている。我々日本人からすると異様な光景にも感じる。これは民度とか学力の問題では無く、宗教勢力が一定の力という名の権力を持ち、州政府、連邦政府にロビイングという圧力をかけているからである。ロビイングを行うロビイストは金だけあれば何でもする人たちであり、中国のためにロビイングを行うコンサルもワシントンDCにはたくさんいる。

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なのでロビイストの存在は問題では無く、そこに金を掛けられる団体がある事がポイントであり、宗教家、ここでは主にカトリック系と言う事になるのだろうが、これらの団体が資金力を持ち、影響力を行使しているという事の示唆である。これが良いとか悪いとかいう話ではなく、日本は宗教勢力の権力への介入というのは創価学会と公明党の繋がりでしか現れず、宗教色の強い政策が反映されることがないが、世界の国々では宗教というのは一定の政治的発言力を持っていると言う事が言えるのだろう。

一方科学者の存在も政策に影響を与える事はある。例えば地球温暖化問題で政策に沿った論文を出す科学者はいるし、そういった例はある。ただこれらはどちらかというと科学者が政治利用されている例であり、科学者としての政治思想は脱宗教的な発想とは言えるが、何か大きなバックボーンがあるわけではなく、政治における立場では、宗教が圧倒的に有利ではあるのだろう。というか科学者陣営は積極的に対立をしたり、対抗的な発言をしているわけではない。

そのように考えると宗教と科学の対立というのは、モラルであったり、人生観、哲学、そういった分野での人類、生物としての根源的な事に対する問いについての回答における対立であり、もっと個人に対しての影響が強いとも言え、これが一つの対立軸である。ヒトが「分からないものを知りたい」とする好奇心からくる欲求と、「分からない事は不安。だから、早急に回答を受け取りたい」と求める不安、分からないことに対してのアプローチの違いともいえるのだろう。どちらもまっとうな思考回路であるが、人類が歩んできた道を考えると、少なくともホモサピエンスの20万年の歴史で言えば、好奇心が切り開いてきた道という面が大きいだろう。

もちろん困難に直面した時に不安要素を最小化するという能力も生き延びてきた要因の一つではあるが、人類が現在のような技術力を身に着けたのは、好奇心が全ての源ではないかというのが、筆者の考えだ。出アフリカから始まり、ベーリング海峡を超えるという生物分布の拡大の歩みは、もともと住んでいたところの食糧が足りなくなったから、東へ東へと進出したという側面も勿論あるが、その移住に際しては力は弱かったかもしれないが、好奇心旺盛な集団がいて、移住を決断していった。そういった連鎖のもと、最終的に現在の南アメリカ大陸に到達した人類は、好奇心やクリエイティブな発想を身に着けていったのだろうと想像できるのである。

そういった意味で「分からないことをもっと知りたい」という欲求にこたえる科学や科学者というのは重要な存在であり、人類存亡の根幹をなすものである、そこまで強く筆者は支持するのである。科学の歩みを止めてしまう事は、人類の歩みを止めてしまう事にもなりかねない。

6500万年前に圧倒的な最強の生物類となった恐竜は、隕石の衝突でほろんだが、例えば進化の方向性、生物種の選択的進化が少しでも別の方向に行っていたら隕石の衝突があったとしても絶滅しなかったのかもしれない。そこには油断や慢心が無かったのであろうか。そういった意味で科学の進行を止めるとか減速させるような動きがあると、人類全体の繁栄という観点からも悲しい気持ちになってしまう。

特に科学の発展にも莫大なお金がかかる昨今ではあるが、お金は極限まで効率的に運用するというトレンドが出来上がりつつある。これは目の前の利益を最大化するという聞こえの良い方策ではあるが、遊びの予算で科学振興を行う事を減らしていくと、1000年、2000年単位で見た時に、人類の科学発展の基盤がくじかれることになる。もしかするとそういった視点から資本主義を批判的にみる事が出来る科学者の意見団体が必要なのかもしれないと思う次第である。