日本のお辞儀は合理的

2020年8月6日の日記より

日本のお辞儀は合理的

New York Timesの記事で、米国の大手ホテルチェーンであるHiltonグループが、マスクをしているホテルスタッフが顧客への経緯や謝意を表す手段を模索中という記事があった。口元を隠されると笑顔を見せづらく、Smileが売りだった米国の接待方法が崩れるという事だろう。ホテルではSmileだが、欧米の握手やハグによる挨拶は今回の感染症の感染拡大に一役買ったという言い方もされている。欧州では肘をぶつけ合うあいさつに代えようという動きもある。

そもそも動物である人間と言う意味で、動物の同一種でのコミュニケーションだが、体をこすりつけあったり、言葉を話さないがゆえに、体の接触でのコミュニケーションが中心なのだと思う。これはお互いに敵意がない事の証明にもなるだろうし、においなどで相手を識別するという意味でも有効だったのだろう。その流れから言って、人間が体の接触による挨拶を行っている事も違和感はない。

感染症の日本史 (文春新書)

しかしながら日本を含む東アジア、広く言えば中国文化圏では握手でさえも一般的では無いと言える。中国、台湾、韓国、日本でもそうだが、タイやインドネシアでも積極的に握手をしていた経験は無い。タイでは両手を胸の前で合わせてお辞儀をする挨拶が一般的にみられる。これだけの事実からだと非常に大胆な推測になるが、他人との接触を避ける事で伝染病の拡大を避けていた、そういう歴史がこのような文化を形成したのかもしれない。

日本では平安自体から天然痘などの感染症が広がった事実が文献などから確認されるそうで、そういう意味でも直接的な接触を避けたのかもしれない。

日本では古来、穢れという思想があったというのが井沢元彦氏の著書での主張であり、筆者も大いに同意する主張となっている。穢れの思想は現代でも日本に充満しており、死についての会話を避けたり、死んだ動物を見るのも避けたり、科学的根拠がなくても必要以上に死や汚れ、穢れを避ける場面は現代でもよく見られる。病原菌やウィルスの存在が分かっていなかった古代、日本で言うと平安時代やそれ以前の時代には、例えば天然痘が流行るのは穢れが蔓延する事だと恐れられ、特に感染者やその病による死者を遠ざける事に精力を傾けていた。そんな時にハグをしたり、握手をしたりと言うのは合理的ではなかったのだろう。

欧米との違いがどこにあるのか、この点が重要だが、恐らくは集団の形成方式の違いが大きいのかと思われる。俗に言われる狩猟採集民と、農耕民との違いではないか。農耕民族は比較的人数の多い集団による組織を大事にする傾向があり、日本はムラ社会だと言われる事が多い。一方欧米は個人主義とよく言われる。狩猟採集も集団で行う必要があるので、個人主義と狩猟採集民がどこまで結びつくのか微妙ではあるが、相対的に見た場合には、農耕民の方が集団生活で生きる必要性は高かったと思われる。そんな中、伝染病と言うのは集団を殺してしまうものであり、伝染病により社会が死んでしまうリスクが農耕民社会においては高くなる。そういう危機意識が直接的な身体接触を避ける方向に働いたのかもしれない。

さらに言うと、日本は世界でも有数の自然災害大国であることも、ムラ社会を作り、その社会生活の基盤を守ろうとした原因かもしれない。日本は、まず火山が多く、地震が多い。これはプレートの位置から見ても止むを得ず、同じような境遇なのはインドネシア、ニュージーランド、アイスランドが主なところではあげられる。2011年の大地震のような地震や、大津波、こういったリスクに常にさらされている土地である。また、日本の場合は大陸との距離が近い事、赤道との距離感、これらが影響して雨が多く、火山でできた急峻な土地が多い国土において、洪水が発生しやすいというのもプラスされる。火山、地震、洪水、これだけでも世界有数の災害大国だと言えるだろう。10年に一度、50年に一度、100年に一度、2011年の大地震は1000年に一度とも言われる。こういった災害の記憶と言うのはどうしても薄れてしまう。ただ、例えば古くて現在も残っている神社が災害の被害を受けづらいように、何らかの痕跡は残っているもので、例えば集落が昔からの土地に存在する場合、そこから離れたところに家屋を構える事は、日本では自然災害のリスクにさらされる行為になるのである。2011年の津波の被害を見ても分かる通り、これは生死にかかわるリスクであり、日本では集団を維持する方向、またはみ出し者と言われる人間が出ずらい環境、こういったものが形成されていったのではないか、と自然災害の面からも推測が出来る。 これらを踏まえても集団で生きる事の重要性と言うか、集団を形成しないことのリスクが高い国であり、そういった面からも身体接触を挨拶において避ける方向に日本が進んでいたことが、欧米との比較において考えられるのである。

白人主義、白人覇権という時代

2020年8月17日の日記より

白人主義、白人覇権という時代

初めに言っておきたいが人種差別というのは、知識や知能が低い人間が行うもので、人種の違いをステレオタイプに語る事で、そこには存在しない優位性を誇った気になって、優越感に浸る行為であり、虐げられてきた人間や、自己肯定間のない人間が行う低俗な行為だとは思う。

現在読んでいる本に、「Paperの語源はパピルス紙である、という幻想は白人が作り上げた歴史観である」という記載があるが、まずパピルス紙なんて言い方が間違っており、パピルスは紙ではない。どちらかというと竹を張り合わせたようなものであり、紙を発明したのは中国文明というのが定説である。ただ、メソポタミア、エジプトで紙が発明された、としておくと、自分たちが優越感に浸れると考えて、宣伝した集団がいるのである。こういった先入観を植え付ける行為は、特に17、18,19世紀の欧州で盛んだったようで、今では信じられないような話だが、彼らは、人類は黒人→黄色人種(現在はこんな言い方しないが)→白人と進化をしてきて、白人が一番進化した人類だと本気で信じていたし、こういう思想が奴隷貿易の正当化にも寄与したのだと思われる。

ファンタジーランド 【合本版】―狂気と幻想のアメリカ500年史

たしかに現代の統計学、文化人類学によると、人種間の能力の差というのはあるような分析結果もある。橘玲氏の著作に色々書かれているので参考にして頂きたいが、実感としても例えば黒人の人は音楽的な才能や、アスレチックな才能という意味では非常に高く、例えばオリンピックの100M競争の決勝は8人とか9人とかがほとんど黒人の選手と言う事が多い。一方で身体的な頑丈さは白人が持っている特徴であり、我々モンゴロイドは著者の考えでは好奇心と知能の高さを持っていると考えている。

これは二つの要素の掛け合わせなのだが、モンゴロイドの特徴の大きな原因は、ホモサピエンスの出アフリカからの進出の過程にあると思っている。アフリカで発生したホモサピエンスという現生人類の種は、その後メソポタミアに進出し、二手に分かれるようにヨーロッパに進出した集団と、沿岸部を東に東に進んでいった集団とに分かれる。最新の研究によると、その過程で、他の人の種であるネアンデルタール人と主に欧州で、これまた他の人の種であるデミタス原人とかジャワ原人とアジア地域で接触があった。ネアンデルタール人との混血は確かなようで、アジア地域の他の人の種との交配は不確かな状況ではあるが、メソポタミア地域から移動していく過程で、もちろん力が弱い集団が外へ外へ追いやられていく事で土地を移動したというのが、移動をしていった理由の一つなので狩りをする能力は低かった集団が移動を重ねたのだろう。そういう意味で、力というよりは恐らく俊敏性などの身体能力が生存に重要だったので、アフリカに残った集団、メソポタミアくらいまでは身体能力が高い集団が残って行ったのだと考えられる。また、恐らく音楽的な才能というかリズム感はそこでの種の繁栄に欠かせない要素だったのだろう、と言う事も考えられる。

一方、アフリカで反映する事が出来なかった身体能力の低い集団のなかで、恐らく好奇心の強い集団というのがあり、それが移動を先導していく立場になったのだと思われる。そこでまずは、生物相の違いにも遭遇するわけだし、天候や土地の違いもあるだろう。また、これは恐らくはだが、他の人の種との交流もしくは交配もあったかもしれない。これから得られるのは多様性であり、もっと言えば環境適応能力が高くないと生存していけないのである。ここで試されるのは、工夫をする力であり、困難に対応する力である。そういったところから、好奇心や知能という面では東へ東へ進んでいった集団内で高まっていく、逆に言うと知能が低い集団は移動の過程で環境適応が出来ずに、生存できなかったのではというのが著者の仮説である。

この話は結果としてアジア地域で一番東に到達した日本人が知能が高いと言いたいのではなく、続きがある。そこからベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸に進出、さらにどんどん南下を重ねて、現在の南アメリカ大陸まで進出している一団があるのである。恐らくマチュピチュを作ったような集団は、もっとも好奇心が強く、知能が高い集団だったのではないだろうか。アメリカインディアンと言われる、白人が進出する前に住んでいたネイティブアメリカンと呼ばれる人々も文化的にも、知識的にも高かったと思われる。

これらが覆ったのは文明というものが起こってからであり、文明というものは大きな権力を生み出し、大きな戦争を生み出した。戦争の発展は人類の技術の進歩を飛躍的に即した面があるのだと思う。恐らく5000年前頃までは、やんわりとした集団が、自分の集団だけが生存できるだけの食料を確保して、自分の集団の生存だけを目的に生きていいたのだろう。他の動物種が行っているような生活スタイルだ。しかしながら、5000年前頃に、記録装置(骨、石板、パピルス等)の発明なのか、青銅器の発明なのか、穀物収穫の手段なのか、どれなのかはわからないが、集団の食糧確保の量が飛躍的に高まる大きな発明があったのだろう。その中でも記録装置というのは、例えば、毎年、この年はこういう方法で農業を行ったら収量がどうだった、というのを何十年でも正確に記録できるわけで、食糧確保の効率を飛躍的に高める事ができる。そういったまさにイノベーションが起きたのが恐らく5000年前頃であり、そこから文明が始まり、富と権力の集中化が起こり、戦争が頻繁に起こるようになった。

戦争が起こるようになってからの技術革新の速度は恐らく飛躍的に速度が高まる。それまでの人類20万年の歴史での進歩とは比較にならないような技術の進歩が生まれだす。なかでも戦争が多かったのが地中海沿岸地域であり、エジプト、メソポタミア文明、これらが距離的にも近かったことも原因ではないだろうか。その後、戦争の歴史が始まり現代にも続くわけだが、戦争の歴史による技術の進歩は12,13世紀までは地中海沿岸地域と中国地域で盛んだったと思われるが、大航海時代を開いた欧州の国々が先を行く事になった。そこでの開発により得た利益が現在でも格差として残っている、というのが現実で、そこでの開発により得た利益によって、5000年前以前の歴史の書き換え、宣伝工作を行っているのも、そういった国々の人々である。恐らくは戦争というものが続く限り、戦争で得た技術革新が優位性の担保になっている国々の優位性は変わらないだろう。こういった時代がいつまで続くのかはわからないが、戦争がなくなる時代は恐らく来ると思う。これは、単純な反戦運動による戦争のない未来の実現という意味ではなく、富や欲望を簒奪しあわなくてよくなる時代が来るのかもしれないという事である。映画マトリックスの世界ではないが、仮想現実の世界が、実際現実の世界よりも主流な世界になれば、どんな物欲も支配欲、性欲、金銭欲、こういった人間の煩悩と言われるものが仮想現実の中で、個人単位で解決できる日が来るのかもしれない。その時点でどういう人種、国が優位的な立場にあるのか、という議論は意味が無いものになりそうではあるが、欲による闘争がなくなれば、現在に残る戦争で築き上げた白人が優位な社会というものは無くなっていくのかもしれない。

昨今の災害について

2020年8月24日の日記より

昨今の災害について

確かに印象としては洪水は増えている感じがする。筆者は41歳であり、ある程度の知識が備わり記憶があるのが35年くらいあると考えると妥当だろうが、その期間に日本で発生する洪水は増えている実感はある。また、気温についても30年前の東京はここまで暑くなかったというのも実感として持っている。その代わり、当時の東京は公害とかの対応をようやく終えつつあるような状況だったので空気は汚かったし、なんか全体的に汚かった。

そこから30,35年経っているわけだが、実感として感じずらい数字としては、人口の集中が高まっている事で、95年の東京の推計人口は1177万人で、2020年7月の推計人口はほぼ1400万人となっており20%以上の増加をしている。人口の単純増加量だけでなく、さらには都心で働く人口が増えており、高層ビルの数や高さは増している。それらのフロアに全てエアコンが付いており、さらに家庭のエアコンの普及率は大体75%前後だったのが90%を超える状況になっている。家庭の室外機から排出される空気を触ったことがある方もいられるかと思うが、これが一日中出ているわけで、家庭内の空気が快適になればなるほど外気温は上がるのである。当然のことだが、これはヒートアイランド現象と呼ばれている。また、これは正確なデータを見れていないが、舗装率もここ30年で上昇している。これこそ実感がなく、今の現代を生きる我々は30年前も同じような舗装率だったと思いがちだったが、良く思い返してみると上述のように都内ももっと汚かった。舗装率も低かった。これも都市の気温を上げている一因だろう。もちろん、現在温暖化と呼ばれている現象についてヒートアイランド現象だけですべてが説明できるとは思わないが、そもそも温暖化という言葉が曖昧な定義に支えられている事も問題だが、地球規模の平均気温の上昇というのは、色々な要因が複雑に絡み合って起きていると言う事を、今一度思い返す必要があるという事である。例えば、全世界のエアコン普及率は高くなっているだろう。全世界が快適な方へ、快適な方へ進んでいるのでおり、それも一つの要因だと思われる。また、太陽の黒点活動の揺らぎも地球気温への影響要因の一つと言われている。地球の公転軌道の問題もあるだろう。また、上述した通り、世界規模で見た場合の舗装率の急速な上昇もあると思われる。

それらと比較した場合に、大気中に0.03とか0.04%しか含まれていない二酸化炭素の濃度が例えば10%上昇した、というのは本当に現在の気温の上昇を説明できるのだろうか。様々なモデルで検証されているが、気温上昇がありきで、それに合わせるように変数を設定した結果、確からしいモデルに調整していった、そういう雰囲気を感じてしまう。

恐らく本当の犯人を見つけることは出来ず、ここからは政治の駆け引きであり、エアコンや、舗装率の上昇に伴って販売数が増えるであろう自動車、というのは政治力の強い分野であり、レジ袋とか、ペットボトルとか、そういう分野をやり玉に挙げるのだろう。電気自動車なんていうのは、二酸化炭素排出量という意味では、排出量の低減にそれほど貢献しているとは思えず、これはもはやイメージ戦略であり、発電に石油や石炭を使わなくならないと意味が無い。ようやくそういった議論が昨今は進んできておりSDGsとか言われるようになってきており、特にOil majorには逆風が吹いているが、それは一方で市民がコストを払わなければならない世界であり、我々は許容できるのであろうか。究極的にいうと、今現在の生活の便利さと、相対する将来世代への投資という概念のぶつかり合いである。

これは民主主義という政治形態が一番苦手とする分野である事は、以前に述べた通りだが、政治の力でこれを乗り越える事は、民主主義という政治形態である限りなかなか厳しいものである。国際的な枠組みであるパリ協定とか、そういった仕組みでも無理だった。これも結局は利己的な考えが中心の民主主義に駆逐されてしまうのである。そういった過去を振り返ると、今こそSDGsという機運は高まってはいるが、民主主義が超えられない一線なのだろう。地球の温暖化は進んでいくという結論の元、生活をどういう方向に変えていくのか、そういったことに議論を移していった方が、効率が良さそうではある。