医療の未来

子供の時に見たトータルリコールという映画は刺激的であり、確か遺伝子操作によって体のデザインができるような未来になっていたと記憶している。既に出生前診断は普通の状態になりつつあり、ゲノムの解析が終わり、これからは遺伝子の操作による選択的な生命のデザインは普通になっていくだろう。既に作物ではなされているのは周知の事実であり、人間にも利用される日は遠くないだろう。

倫理的な問題を咎める声は勿論聞こえてくるのであるが、人間の欲望というのは止められないものであり、例えば我が子にはより賢く、より健康に、と願うのは親心であり、遺伝子操作でそれができる方法が目の前に提示されるようになれば、これは倫理の問題を飛び越えて、費用対効果の問題になり、効果が大きいと判断されれば、実行がなされるだろう。頭脳がお金を生むという世の中になって久しいが、賢いことは将来の収益、すなわち収入につながるのは、かなりの領域で言えることであり、今でさえ子供の教育は最も効率の高い投資手段といわれるくらいなので、お金をかけて賢さを得て、将来的に収益を得るというのは、確率の高さ、費用対効果を考えても非常に好ましいものである。

残酷な進化論 なぜ私たちは「不完全」なのか (NHK出版新書)

一方で、医療についてはどのように進化していくのだろうか。人類の寿命が急速に長くなっているのがここ100年ほどのトレンドと言えるだろう。医療、科学分野の進歩が加速的に見られた100年であったと言えると思われる。人口が爆発的に増えているのは、生産性が上がったことが原因ではあるが、医療の進歩が級数的になされているからという面もある。

そういう意味で寿命が急速に長くなったのはここ最近の、人類にとっては急激な変化であると言える。その中で、一部の器官において、今まで必要とされなかった耐用年数が必要になってくるケースが出てきているのだと思う。一定程度の割合で心臓の病で亡くなる方がいるのもそうだし、他の臓器においても、従来であればこれほど長いこと使われることは稀であったという機関において、臓器の寿命というものが問題になってきているのだと思う。

その観点から今後の医療の中心は再生医療になっていくのだろう。3Dプリンターで作った臓器のモデルなどが報道されるが、その分野は医療提供側にとって大きなビジネスチャンスということもあり、研究は進むのであろう。様々なパーツにおいて、再生医療がなされ、必要に応じて、お金を払えば臓器やパーツのスペアを作り、交換することが可能になっていくのだろう。もちろん、これは誰にでもできることではなく、一部の富裕層に限定されるように、医療提供側が価格政策をとるはずではあるが、その分野の進展は恐らく21世紀の大きな変化の一つになるだろう。

世界を変えた14の密約

そうなってくると未だに解明されていない部分が多い脳という存在を除くと恐らく多くの物は交換可能になり、脳が正常である限りは生きていく、という状態になる。さらに寿命が延びることになっていくが、人類はその状態を受け入れるのだろうか。果たして150年とか200年もの間、生きることが幸せなのであろうか。何のために生きているのか、生きるということは何なのか、そういう世界観にもつながる話であるので、またの機会に考察をしていきたい。

痛みや疲れ

痛みや疲れというのは個人差があるとよく言われる。客観指標があるのかどうか詳しくは分からないし、例えば疲れでいうと、乳酸のたまりやすさや、筋力の個人差、そういったものに左右されるだろうから一概には言えないが、これらは感じ方の個人差の存在を感じさせるものの一つでもある。

例えば10㎞を徒歩で歩いた場合、筆者の家族でいうと妻は疲れやすいが、私は疲れないし、娘たちはその中間くらいという感覚がある。娘たちは「疲れてない」と言いたい年ごろなのかもしれないが、筋力の違い等を考えても私と妻では疲れる感覚が違う。また、例えば痛みに対する感覚も個人差があり、注射をしても痛い人痛くない人がいたりもする。

そもそも痛みや疲れというのは人間として生物学的に何の反応なのかということを考えると、人間として警戒する表現の表れのはずであり、痛みが出るようなことを継続的に行わないように体が発する警告が痛みであり、体力の限界まで行動して死に至ることを避けるように発する警告が疲れのはずである。例えばこれらを失った状態を考えると、どんなに痛い事をしても気にかけないという状態になる。切り立った崖の上に食料がたくさんあるときに自分の体が傷つくリスクを考えて、落下するリスクが高いときはその食料を取りにいかないが、傷つくことを厭わない人は食料を取りに行くだろう。その結果として体に深刻な損傷を与える可能性が高まってしまう。そのための傷みという警告なのだろう。

疲れというのも同様であり、基本的にはどこまでも獲物を追いかけ続けないようにするためのリミッターであると思われる。苦みを感じることや、毒素を接種してしまった時の嘔吐や下痢という症状もちょっと毛色は違うが人間が体を守るために行う行動の一つである。

ではこのリミッターは徐々に解除したりすることができるのだろうか。例えばものすごい量の運動をした後に、疲れを感じれば休憩をするが、本当に体が動かなくなるという状態でなくても休憩しているケースはあり、その程度のリミッターであれば徐々に外していけるのではないか、それを突き詰めていった姿がトライアスリートであり、鉄人レースに出るような人たちの姿なのだろうか。現代人にとっては疲れのリミッターはあまり必要ではないかもしれない。

ただ疲れと違って痛みの方は病気のサインの警告であるケースもあるので上手に付き合っていく必要がある。膝の痛みは将来の深刻な歩行困難リスクを教えてくれているのかもしれないし、内臓の痛みについてもあまり感じることはないだろうが、感じた時には何らかのサインである可能性が高い。そんな事をふらっと思った次第で、年齢も年齢なので痛みとはうまく付き合っていきたい。

糖尿病になりやすい遺伝子

糖尿病になりやすい遺伝子

現在読んでいる書籍によると、糖尿病になりやすい家系というか遺伝子というのはある環境下では生存に有利になるから残っているという学説があると書かれている。具体的には極低温環境下において凍傷で死亡してしまうリスクを血糖値が上昇することで防ぐというメカニズムがあるらしい。シベリアの方から来たデミタス系と言ったら語弊があるが北方系のルートで渡ってきた日本人の祖先はそういった遺伝子の効力により厳寒のシベリアを超えて日本列島まで来たのかもしれない。

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鬱になりやすい遺伝子というのもあり、これもある環境下では生存に有利であったという説がある。具体的には鬱症状になると気力がなくなり、まず狩猟などのリスクテイク的な行動をしなくなるという。また、鬱症状の時には人との接触を避ける傾向があり、現在のような感染症の蔓延から逃れることもできたのではないか、そういう考え方もあるようだ。

ホモサピエンスの誕生から20万年の歴史を経て現在の人類は存在している。そこには現在の人類から見ると生活には不便と思われるような遺伝的な特徴も人類が生き延びてくるために必要だったということが言え、多様な遺伝子を持つに至ったことが人類を反映に導いたのだろうということを感じさせてくれる。

そんな中以前にも書いたがPolitical correctnessではないが、人はこうあるべきだ、という考え方が強まっている。個人の意見を尊重しすぎる風潮があるが故の反動であり、リベラルが進みすぎた社会に発生してしまうことなのかもしれないが、結果として多様性を失う方向に行ってしまう。個人に簡単なレッテルを張ってしまい、例えば日本国民を二つの種類に分けて、反戦派と好戦派、富裕層と貧困層、正規雇用と非正規、こうやって二項対立を煽ることも常套手段となりつつあるが、ある意味ではリベラル化が極まっている民主主義のなれの果てなのかもしれない。

なぜ、成熟した民主主義は分断を生み出すのか アメリカから世界に拡散する格差と分断の構図

思想やアイデンティティの面だけであったら、例えば政治体制が民主主義というものから違う体制に移行していけば、未来の世の中では多様性の復活というものがみられていくのかもしれないが、リベラルな考えは、出生前診断等で生態系の方にまで影響を与えつつある。現在の人類の価値観だけで、利益判断を行い、例えば鬱の遺伝子を撲滅したり、糖尿病になりやすい遺伝子を撲滅したり、そういった設計が可能な世の中になるかもしれない。そうなると20万年の積み上げというかもっと言えば38億年間地球環境に向き合って積み上げてきた生命の遺伝的な多様性が失われていくのかもしれない。ひどく簡略化した物言いでいうと、現代人のワガママが将来の多様性を奪っている、そういう言い方もできるのかもしれない。