サハラ以南アフリカ

人類というかホモサピエンスの歴史はサハラ以南のアフリカから始まったといわれる。遺伝子的にもサハラ以南の現代のホモサピエンスの遺伝子の多様性は、他の全地域の遺伝子の多様性よりも多く、サハラ以南でホモサピエンスは長い間進化を進め、ある程度の繁栄を治めた後に、他の地域に進出していったのがうかがえる。

サハラ以南の地域から弱い、これは肉体的なものなのか、例えば疫学的なものなのかはわからないが、サハラ以南の地域では生きていけない、生きづらい集団の中で、恐らくは好奇心は強いという集団が脱出して、住む地域を拡大していったのであろう。その中で一万年前ほどに農耕が始まった。

農耕が始まったのは、そのほうが食料の調達に有利だからであり、原始的には取れた種を自分の住んでいる土地の近くに植えたところから始まったのだろう。その中で、川の氾濫や干ばつに合うようになり、治水というのが生存における大きな課題であることがクローズアップされてくる。そうすると近隣住民で力を合わせて治水を行おうということになる。

治水を行うと収穫が安定するようになり、余剰作物が生まれて、それを管理する富裕層が生まれて、一帯を支配する権力者が生まれるようになる。これが帝国ができていったメカニズムであろうと言われており、治水がすべての原点であり、4大文明と俗に言われるところには大河があり、帝国ができて文明が生まれたというように言われている。

一方で、ホモサピエンスの故郷であるサハラ以南はどうだったのだろうか。大文明が築かれた証拠はあまり見られていないように思える。これはひとえにその気候環境であろう。サハラ以南のアフリカは非常に豊かな植生を誇る。ジャングルとかターザンの映画で見られるような雰囲気を思い出せばいいが、食べ物に困ることはなさそうで、少々の気候変動においても植生は大きく変わらない。

食の歴史――人類はこれまで何を食べてきたのか

この環境が帝国が生まれなかった環境であると、ジャックアタリは著書で述べているが、当方も同意する。この環境下においては、近隣住民が力を合わせてインフラ整備をする必要性がないのである。それぞれが小さなコミュニティーで自分たちの食料を確保する、という方法で無理なくコミュニティーを維持できていたのである。そういうこともあって、こういった赤道近くの地域においては少数民族というのが多くいる印象だ。アフリカだけでなく、アマゾンや、パプア、これらの地域も同様であろう。帝国を作り上げる必要性がなかったのである。

ただ、このことがグローバル化、資本主義、効率至上主義、これらの社会変革の中で、彼ら少数民族を虐げることにつながっていった。備蓄や、将来を考えずに、目の前のことをエンジョイするという人生を送っていた少数民族に対して、特にアングロサクソンが中心となって支配を行うようになった。財力と武力による支配である。それが世界秩序を作ってしまった。奴隷貿易がその中でも最悪のものであるが、そうやって価値観の違う人たちを支配して自分の富のために活用したのである。奴隷貿易の歴史を考えるとやるせない気持ちになるが、そもそもの気候、ホモサピエンスとしての好奇心、ここら辺が現代の富の偏在の結果に影響を与えていると考えると、歴史は繋がっていると感じる次第である。

生物の奥深さ

新技術として注目を集めているものに、ミドリムシを使ったユーグレナや、人口蜘蛛の糸を製造するスパイバー、本日の日経新聞にも言葉が躍る。そもそも例えば石油にしたって生物の化石が由来であり、生物なかでも植物が光合成で合成する有機物の存在が原点になるのである。太陽の光と水と二酸化炭素からたんぱく質を作っていくわけであるが、この合成プロセスがすべての原点といってもいいだろう。

植物は光合成で成長し、それを草食動物が捕食して、さらに肉食動物が捕食する。人間もこの食物連鎖の一端を担っており、すべてのベースになるのは植物の光合成である。生命の起源についても原始的なたんぱく質が集合して、増殖するためにRNAのようなものが作られるようになって、徐々に高度化していったという説を聞いたことがある。

たんぱく質はなぜ増殖する必要があったのだろうか。人間というか現在の生物にとって種の保存というか拡大というか、自分の種を残すことは唯一にして最大の目的であり、その生存競争に有利な種が生き残っている。人間もそのように進化をしてきており、現在に至っている。

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ただ、それは何故だろうか。我々が種を残したいと思う欲求はどこからきているのだろうか。一説に肉体はDNAを運搬する箱のようなものであり、真の目的はDNAの時系列というか過去から未来への運搬にあるというものである。そのために、我々は生きており、DNAの運搬に有利な進化も遂げていく。ただ、DNAの運搬ということは誰にとっての利益なのか、もしくは何のメリットがあるのだろうか。

複雑な形状のたんぱく質は増加し始めると、その環境自体が生存というか存在を永らえるために有利になり、その目的を達するために自己増殖機能を持ち始め、有利な環境がたんぱく質の寿命を永らえさせて、さらに増殖を加速させる。居心地のいい環境を作るために増殖することを選んだ、ここまでは何となく描けそうな説であるが、たんぱく質の意思がないとそもそもこの説も発展性がない。

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生命はなぜ生まれたのだろうか。これは宇宙の始まりと一緒で、やはり誰かが背中を押しているのだろうか。地球誕生直後の激しい環境の中で、圧力、温度、そういった条件が合わさり、二酸化炭素や水から簡単なたんぱく質が発生した、というのは恐らく事実なのではないかと思う。そこからたんぱく質が複雑化していったというのも科学的に理解はできなくはない。ただ、そこでなぜ増殖する道を選んだのか。宇宙についても宇宙全体が膨張していることはほぼ間違いなく、であれば最初に起点があったのではないかというのがビックバン理論であり、インフレーション理論である。起点に揺らぎを与えたのは誰なのか、そして何故なのか。始まりを語る上で宗教的な見解を持ち出したくなるのだが、そこはこれからも追及していきたい。

人類と火

子供のころ、火遊びをするとひどく怒られた。もちろん、子供の不注意で例えば建物が火事になったり、森を焦がしてしまったり、火の不始末は甚大な被害になるので、当然のことだ。群馬県での山火事がハイカーの火の不始末の可能性が言われているのも、記憶に新しいところだ。

火の不始末による野火というか山火事もあるが、雷などによって出火することもあるし、自然の力で火が起こされることはある。人類というか人種というか、恐らくホモサピエンスだけが火を使っていたわけではないと思うので、表現が難しいが、いづれにせよ火を最初に使い始めたときは自然に出火した状態を発見したところから始まったのだろうと言われている。

例えば自然出火した近くに、動物の死骸があり、それが一部焼けており、食べてみたところ美味しい味がして、消化も楽であることに気付いた、そういうことが始まりなのであろう。いづれにせよ、そこで得た知見を活かして、人類は火で調理するという技術と経験を得た。このことは火で調理することが当たり前の我々には分かりづらいが大きな変化を及ぼす。

火で調理するとたんぱく質の変性、余計な水分の除去が進むことになり、まず味が良化する。さらに、栄養素についても相対的に濃縮された状態で摂取されることになるので、食事の効率が上がる。そしてたんぱく質の変性によって、消化に費やすエネルギーも減じられるわけである。これは生肉を食べる状態と、焼かれたステーキを食べる状態や、生のアスパラガスと茹でたアスパラガスを食べる状態を想像してみればわかるが、生の状態は人にとって食べづらい。まずは噛んで飲み込むまでに相当の労力が必要であろうことが想像できる。

食の歴史――人類はこれまで何を食べてきたのか

火の発見と、火の活用が人類の進化を支えたと言っても過言ではないだろう。エネルギーを費やす方向性が変わると、身体的には恐らく脳へ供給できるエネルギー量が増えるので、これが言語の発達を則したのかもしれない。また、日常生活という意味でも、食事に費やすエネルギーが減ることで、食糧確保に使うエネルギーや、子孫繁栄のために費やすエネルギーに、自分のエネルギーを費やすことができるようになるわけであり、このことが人口の爆発に一役買った可能性は大いにある。

ホモサピエンスの脳の容量は、初期人類であるアウストラロピテクスやもっと最近の人類であるホモエレクトスと比べても3倍ともいわれる。現在のサルの集団と比べても数倍の大きさであろう。その事が言語の発達を則し、その後に文明を作り上げることにつながるわけであるが、進化を大きく分けたのは火の利用なのかもしれない。

人類の祖先であるホモサピエンスは動物界では弱い存在であった。どちらかというと中型哺乳類で、雑食であり、食物連鎖の中でいうとそれほど上位に君臨するような存在でもなかった。しかしながら、食糧確保の多様性を確保するために、地域的な広がりを持つことができ、その中で比較的火の発見もしやすく、もちろん一人が発見しただけでなく、複数人がそれぞれ発見できるほどに、地域的な生活圏の広さを持っていたのだろうと想像できる。それが二足歩行を始めたからなのかもしれないが、二足歩行→弱者ゆえの生活圏の拡大→偶然の火の発見確率の上昇→調理を覚える→脳の容量がさらに増加する、こういったサイクルがあったのではないだろうか。

ではなぜ二足歩行をし始めたのか、これについては確保した食料を両手で運搬するのに優位であったから二足歩行を始めたのである、という説があるが、なかなか面白い説だと思う。食料の運搬は、家族や親せきにあたる仲間のためのものである可能性が高く、結局のところ家族への愛が人類の繁栄につながった、そういう考え方が成り立ってくるのである。