昆虫食と食糧危機

最近は薬局のおつまみコーナーにもコオロギの佃煮というか、チップスというか気軽に食べられる昆虫のおつまみが売っている。妻は食べるのを嫌がるが、ビールのお供に全く問題なく食べられる。メキシコに行った時には、確かイナゴのタコスを食べたが、これも美味しかった。

見た目ではなく、蛋白源という考え方に立つと、昆虫は今後の人口増加に対応した食料危機の救世主とも言われる。牛や豚、鳥、羊などを飼育する畜産業で使用する飼料や水の量と比べて、同じたんぱく質量を作るのに、資料や水は少なくて済むらしい。これは環境保護にもつながるし、食糧危機にも対応できる。アフリカやアジア、また先の例のように中南米諸国でも昆虫は食べられており、欧米中心の価値観以外のところでは今後受け入れられていくであろう。

食の歴史――人類はこれまで何を食べてきたのか

また、畜産業の飼料としてのたんぱく質に、今は魚粉が多く使われているが、これも小型の魚類の乱獲が問題となっており、人間の口に入る手前の、飼料としての昆虫の取引というものが今後は拡大していくのかもしれない。

ただ、昆虫も好き勝手にとっていいわけではない。もちろん、昆虫も食物連鎖の一端を担っているわけであり、例えば鳥の餌はかなりの部分が昆虫だ。昆虫を乱獲すると食物連鎖内に影響を与える可能性があり、これは魚類の乱獲と同じ問題を生み出す。ただ、魚類に比べても飼育は簡単な面があるかもしれず、蛋白源としての昆虫の養殖というのが今後は流行るのかもしれない。

養殖でない場合に、食物連鎖以外の面での影響に、受粉を補完しているという昆虫の役割は非常に大きい。これは食物の生育を助けるわけで、植物性の食料に対して昆虫が担う役割は非常に大きく、欧州の調査ではここ最近の有機肥料の使用などにより昆虫の多様性が失われつつあり、それによって食物栽培にも影響が出ており、受粉補助という昆虫の役割に注目が集まっているようだ。

それに伴い受粉補助ロボットの開発も行われているようで、どこかで問題を解決しようとすると、どこかに問題が生じてしまう。森羅万象であり、全てのものは繋がっているのだと感じる次第だ。

そもそも人口が70億人とか、数十年後には100億人というのが、人類の人口として限界を迎えているとしか思えない。食料危機は確実に存在している危機であり、既に耕作面積が不足しており、それを解決する手段も目ぼしいものはない。蛋白源をどうするか、マグロや牛肉の獲得競争もすでに始まっており、これには所得の格差がもろに聞いてくる。良質なたんぱく源はその国民を豊かにし、経済活動や、軍事力にまで影響を与えると思う。ローマ時代の兵士ではあるまいし、という声もあるかもしれないが、これは個々人の問題ではなく、例えば数千万人というような単位で国民を見たときには、影響を与えるものだと思う。

新版 日本人になった祖先たち―DNAが解明する多元的構造 (NHKブックス No.1255)

ここから言えることは、人口が持続可能な水準を超えてしまって、様々な獲得競争が行われるフェイズに入ってきている時代において、力関係の逆転というものは容易ではないということであり、富める者はさらに裕福に、こういう世界が続いていくのだと思う。それが良いのか悪いのかは分からないが、第三世界といわれてしまうような途上国にとっては、あまり明るい未来ではないのではないか、という印象を持ってしまう。

人間とスポーツ

大谷選手や松山選手の活躍がアメリカでも日本でも注目を読んでいる。二人とも20代で世界一線で活躍している事が非常に喜ばしい。特に松山選手のマスターズ制覇は今週のホットトピックであったし、米国人の友達からも祝福のコメントがあった。

野球であったり、ゴルフ、テニス、卓球と球体のボールを何かで打つという競技、スポーツが一定程度の注目を集めているが、このボールを駆使するというのはどういう欲求からきてて競技スポーツとして発展し、どのような人間の欲求を満たすから感染スポーツとして発展したのだろうか。

例えば野球でいうと、生身の肉体を使ってピッチャーがバッターに対して「一番打ちづらいと思う球」を投げる。それをバッターはできるだけ遠くにバットを使って飛ばす、単純化するとこういった競技であると換言できる。投げるという行為は、やり投げにも通じるものがあり、狩りを行っていた人類は投げる行為が上手であれば、槍を上手に扱えたはずで、生存競争に有利と言える。

これは狩猟時代には非常に大事な能力であったはずであり、生存競争に強いことを示すための協議としてやり投げが発展したのだと思われるし、その流れを汲んで投げる行為を競うことは理解できる。狩猟がない季節でもそういった事を競い合って、勝者が勝ちに浸り、それを誇ることを競う、これはある種お祭りの起源の一つである可能性もあるし、そういって人間は余暇を楽しむ発想を広げていった。

我々はどこから来たか?我々は何者?我々はどこに向かうのか?我々の存在意義は?―現代人類学の人間観―

そういう発想でいうと、バットを使って球をできるだけ遠くに飛ばすというのも、武器を使って狩りをするのか、戦いの中で使う武器の扱いのうまさを競う、そういった発想が根底にあるのかもしれない。例えば、頭で思い描いた太刀筋と実際の肉体をリンクさせるには、鍛錬や筋力が必要であり、その能力を磨いた上に、武器使いの上達があり、そこを競うことは、これは狩猟時代よりも現代に近い時代の権力争いの中での話になるかもしれないが、生存競争に有利であり、現代風に言うと異性にもてるわけである。

究極的にはスポーツというのも、「もてる」かどうか、を競うものなのかもしれない。足の速さを競ったり、泳ぐ速さを競うことも、逃げ足の速さや、狩りでの優位性、これらを担保するものであり、現代では感じずらいことであるが、これらを鍛錬することで、生存確率を上げることに繋がる。そういった最高に生存確率を上げ切った競技人を見ることで我々は感動するし、その人々の生存能力の高さに興奮するのである。

生存競争というのは人類の根底に刻まれているファクターであり、すべてそこに結び付く。食欲、性欲、睡眠欲、と言われるものもそうであるが、我々が何気なく見ているスポーツであったり、その祭典であるオリンピックにしても、この生存競争の疑似競争という側面があり、人類の根底にある興味がひきつけられるのではないか、ということを思う次第である。

人類とアルコール

人類は10000年前前後から、大麦を発酵させたり、ブドウのしぼり汁を発酵させたりして、アルコールを接種していた。意図的な醸造所の遺跡も見つかっているので、宗教儀式に必要なのか、それとも余暇としてなのか、いづれにせよ10000年ほどアルコールを接種している。

アルコールは基本的には肝臓で分解されるものであり、人体にとってはどちらかというと有害である。酵素による加水分解で分解して排出するものであり、人体に不可欠な栄養素ではない。ただ、衛生面においては、昨今毎日接している通り、アルコールは除菌、殺菌効果があるとはいえるので、あると便利で、現代社会では工業用アルコールが大いに生産されている。

宗教との関係でいうとモハンマドは部族内、宗教内での争いを防ぐために、イスラムの教えにおいてはアルコールの接種を禁じていた。これが現代でもイスラム社会では基本的にアルコールを接種しない所以である。実際、中東の国やインドネシアでもイスラム教の方々は飲酒をしないのが基本となっているし、公共空間ではイスラム教以外の人間も飲酒を避けるように、というのがマナーになっている。

食の歴史――人類はこれまで何を食べてきたのか

イスラム教というのは砂漠で発生した宗教なので、まず生活の基盤において水分を欲しているというのがある。礼拝ごとに顔や手を水で洗うのもその歴史的な背景が影響しているだろうし、アルコールも、他の地域以上に民が酔っ払いやすかった可能性もある。それが争いに発展しやすいということなのかもしれないが、地理的な背景もあるのだろう。

アルコールは脳を麻痺というか、俗にいう酔っ払う状況に導く作用がある。これは初期のころは恐らくは宗教儀式上重要な意味を持っていたのではないかと思われる。アルコールが脳を麻痺させるから酔っ払うという科学的な知識がない中で、大麦を発酵させたものやブドウ汁を発酵させたものを飲むと、人によってはトランス状態になる、というのは宗教家を興奮させたはずだ。

古代の宗教というのは一つに麻薬的な成分によるトランス状態や、飲酒によるトランス状態を起こし、その中で例えばまっとうな感覚を持つ人間がコントロールしたり、トランス状態を見せつけるなどして、人智を超えた存在を見せつける、というのも一つの統治形態であっただろう。その辺りが、ビールやワインの醸造所が作られた期限ではないかと思う。権力維持のために醸造した始めたものが、大衆にも広がっていた、そう見るのが妥当ではないか。

日常的にビールを飲む生活を日本でも享受できているが、アルコールには色々な面がある。そもそも人体には毒であること、殺菌作用は重要であること、宗教によっては禁忌品であり、宗教によってはその統治に活用されたであろうこと、非常に単純な化学式であらわされる化合物であるが、その奥深さに驚かされる。なぜそもそもアルコールは脳に麻痺症状を起こさせるようになったのか、これも恐らく生物の進化と関係しているのであろう。この部分をもう少し掘り下げたいとは思っている。