食物連鎖と人間

2020年11月18日の日記より

食物連鎖と人間

ヒトは牛も食べるし、豚も食べる。野菜や果物などの植物も食べる、というのが一般的な理解であり、一方で天敵と呼べる存在は今の世の中にはいないと言えるだろう。もちろんホモサピエンスが出始めた20万年前はヒトはアフリカ大陸で肉食獣に追われる存在であった。その頃は食物連鎖のピラミッドで言うと下位の方にいたと考えられる。その当時と比べて本質的な体力という面では何も変わっていないのがヒトであるが、いつの間にか食物連鎖の最上位に来てしまっている。

食物連鎖というのは自然界のバランスを保つために、まさに今で言う所のサステイナブルな環境を守るために必須な仕組みであり、まさにエコシステムと呼べるものである。植物食の動物を小型中型の動物食動物が食し、その動物食動物を大型の肉食動物が食す、その連鎖があるので、というか結果としてなのかもしれないが、ピラミッドの上位に行くほど個体数が少なく、下位に行くほど個体数が多いというのが一般的だ。

海洋生物においてはこの傾向が顕著であり、生存競争が非常に激しいマンボウやイメージしやすいものだと鮭も産卵数がとてつもなく多いと言われている。これは難しい議論だが、生存競争が激しい食物連鎖下位の生物群の産卵数が多いのは、生存に生き残るためなのか、それとも産卵数が多い生物種が結果として食物連鎖下位に生き残ったのか、どちらも言えそうだが、恐らく正解は後者の方であろう。生存能力が低く、生存競争が激しい食物連鎖のポジション上に残っている生物種は元々産卵数が多く、そうでなければ絶滅していると言える。

その観点から見た場合、ヒトが繁栄するに至ったのは、個体数を増やす能力というか素質があったからと言えるのだろう。当時のヒトの集団は乱婚であったと言われている事、また自分の子でなくてもグループ内では協力し合って子育てをしたこと、他にも個体を増やすうえで有利な能力というか素質があったと思われる。その時代が1万年前くらいまで続き、1万年前から9000年前頃に農耕が始まり、富と権力の集約が起こり、また余剰生産能力により人口の爆発、科学自技術の発達が1万年間で起こった。1万年くらいでは形質や、本質的な能力に変化が無く、現代の人類は、食物連鎖の頂点に君臨しながら、個体増加能力が高いという状況になってしまっている。

イナゴが増え過ぎると稲の栽培に支障が出るように、自然環境の維持にとって大きな脅威になってしまっている。先進国と呼ばれる国では出生率が下がっており、日本は人口減少社会となっている。また、性別の曖昧さが増してきている事も現時点では小さいが、個体数の増加の歯止めになっている可能性がある。少子化については財政の再分配機能の機能不全とみる見方も少なくないが、一方で、食物連鎖の頂点になった生物種の一種の自粛行動なのかもしれない。

もちろんアフリカ諸国を含む途上国ではいまだに出生率が高い状態があるが、ヒトの人口というのはこれから100,200年かけて調整されていくのかもしれない。もちろん、イナゴのように絶滅する事は無いだろうが、1000年、10000万年というスパンで見た場合に、今の人口というのは突発的な異常増加だったと言う事になる可能性はある。

これは生命が歩んできた38億年の歴史自体が制御している事というか、38億年間にわたって生命が連綿と維持されてきたのは、地球環境という生命を含めたシステムが、自己調整できるようになっているから、むしろ自己調整してきた結果が刻まれており、自己調整する事というのが地球の環境として維持するための項目に刷り込まれているから、達成されているという見方が出来る。

異常繁殖した種に対しては何らかの圧力で自己調整がなされるし、行き過ぎた気候変動に対しても自己調整して維持されているのだと思われる。例えば氷河期の後には温暖期が来るわけだし、太陽との距離、球体であること、地軸がある事、磁場がある事、地球中心部のマントルは溶けて流動しているが地殻にはちょうど良い深さの固い殻がある事、これらが調和されているというか、これらが地球に住む生命にはちょうどいい調和となっているのだろう。これも逆説的に言うと、こういう調和環境の中、38億年間紡いできた生命の形態というのは、この調和している環境だからこそ生み出されたというか、他の調和環境の天体であったら、今の地球上のエコシステムのような形にはなっておらず、例えば食物連鎖の考え方が逆であったり、我々には想像もできないような独自の環境になっているのだろう。ヒトの人生はせいぜい100年オーダーであるが、我々のDNAは38億年前からつながっており、地球環境の歴史と切っても切れないものである。地球による自己調整という見えざる手によって、我々の運命は動かされているのである。

人口増加

人口増加

人類の人口は19世紀以降急拡大し、現在は70億とも80億人とも言われる。筆者が子供の事は50億人とか言っていたので、ここ30-40年で見てもまだ増加ペースは衰えていない。日本にいると人口減少社会に突入してきたので実感が少ないが、世界の人口は急速に増えている。

食物連鎖という観点や、人口密度という観点から考えても、人口は無限に増やせるわけではなく、食糧や、生活するスペースの問題があり、地球の地表面積は限られているという事から考えて、限界が来るのは間違いない。6400万年前の恐竜等の大型生物の絶滅は、大型の隕石の衝突による数年の気温の低下によって引き起こされたと言われているが、恐竜類が大きな気候変動に対応できなかったことも一因であろう。何故なら、小型の哺乳類等は生き延びているからである。ゴキブリなんかもその当時から生息しており、生存力は非常に高いと言われている。人間の祖先も当時は小型の哺乳類というのに分類されていたはずであり、厳しい環境の中を生き残った部類と考えられる。

ホモサピエンスは20万年前に誕生したともそれ以前とも言われているが、その当時も種を継続させるには多くの困難があった。天敵と呼ばれる肉食哺乳類生物もアフリカの大地には多くいたし、農耕など知る由もなかった人類が食べられる食物には限りがあった。

その中で中規模集団を作って助け合いながら生きる道を選択し生き延びた。そういう状況から考えると1万年ほど前に奇跡とも呼べる、農耕が始まるのである。この変革に並ぶようなインパクトを残した変革は思いつかないくらい、生物種にとっての奇跡かと思う。地球のサイズが今ほどになり、太陽と月の重力と釣り合った点が現在の太陽との距離の点である、という奇跡に匹敵するのかもしれない。

ただ、太陽との距離については、結果論的な奇跡であり、丁度いい点で釣り合った結果が生命の発展に寄与したが、丁度いい距離では無かったら生命は発生していなかったので、我々は地球がちょうどいい距離ではなかったという、想定は不可能である。話を戻すと、現代のわれわれの視点から見ると、1万年ほど前に農耕生活を始めた事は大きな転機であり、その後の歴史を大きく変えたと言っても過言ではない。

その後、人類は世界中に散らばるようになり、大きく人口を増やしていく事が出来た。また、農耕の発達は富の集約を起こし、余暇を生み出し、文明を発生させた。結果として、知識人や知識の集約を起こすようになり、今の世につながるような科学技術の発展に寄与していくのである。人口という観点でも農耕生活は大きなブーストになった。生活にリズムが生まれる事、余剰資産が生まれる事、余暇が生まれる事、これらが子育てにも大きな影響を与える事になったのである。

この1万年間続いた人口増加はどこで限界を迎えるのだろうか。種としての限界なのか、文明としての限界なのか。先進国では人口が頭打ちになり、減少に転じている。これは既に種の保存という本来の生命としての趣旨よりも、個体、個人、現在、これらを重要視する事が文化として上回ってしまっている事の一つの表れではないだろうか。もちろん、子育て環境、避妊技術、色々なものが複合的であるし、例えば個々人を見ると事情は違うのだが、国家の単位で見た時に人口減少社会になっているというのは、例えば、水槽の魚の数が減っているのをみたら、その水槽の中では異変が起こっていると思うのと一緒で、既に生物種、もしくはその集団の中では異常な事が起きていると認識せざるを得ない。これは勿論マクロで見た時である。種としては地球環境に大きな影響を与えるまでに数が増えており、こちらの観点からも限界を迎えているように見える。こういった状況で今後の人口動態を考えた時に、我々人類はどのような方向性に向かっていくのだろうか。

遺伝子と性格

遺伝子と性格

遺伝子解析技術、速度が上がっており、様々な遺伝情報を調べられる状況になってきた。自分のルーツを分析できるツールが販売されているし、民間レベルでも遺伝子解析というのが手の届くレベルの価格になってきている。自分のルーツを探るというのはロマンがある話ではあるが、自分の将来を探るというのは良い面と悪い面の両方がある気がする。

もちろん、病気の予測、例えば乳がんや胃がんのような病気になりやすい、高血圧になりやすい、そういった遺伝的傾向を分析して予測する事で、予防に役立てる事が出来るだろうから、広く言えば人命を助ける事に繋がり、倫理的には重要な研究分野であるように思える。

しかしながら、出生前診断を遺伝子解析で行う、ひいては、さらに研究が進み、性格診断、能力診断、そういったものが出生前、出生後に関わらず当たり前になっていく世の中に怖さを感じるのは私だけではないだろう。橘玲氏の著書によると、知能指数、性格、身体能力、音楽的才能、性的志向まで遺伝的要素が影響するという研究結果が得られているようだ。もちろん、それを発現する特定の遺伝子を発見したというまでの話ではないが、遺伝的に説明がつくケースがある一定の割合で存在するというものだ。家庭環境という環境因子は親が作る部分が一定程度あるので、親の能力や志向に似てくるのだという話もあるが、それでも例えば養子に出た場合、一卵性双生児が別々に育てられたケース、そういった研究の結果により、遺伝的要素が影響しているという研究結果が得られているという事だ。

今後遺伝子分析技術が発展していくと、例えば知能指数を司るような遺伝子、運動能力、しかも特定の、例えば足が速いとか、持久力が高いとか、そういった事を司るような遺伝子について、特定の遺伝子の関与が解明されていくと、遺伝子組み換えドーピングのようなことにつながりかねないし、あまり考えたくはないが、遺伝子分析結果による選択的な中絶などが起こりかねない、という危惧もある。そういう事態は倫理的に許されるものではないが、事実として現在、出生前診断という事が行われており、これは人間の本性として、子孫の繁栄、自分の遺伝子が残りやすくしたい、そういった意思から発生した事であり、少しねじ曲がっている気もしなくはないが、この傾向は止められないだろう。

そういった遺伝子解析による将来予測が進んでいった結果、どのような世界が待っているのだろうか。自分や子供を設計するような世界だろうか。遺伝子を操作して自分を再設計するというのは、現在の倫理では問題がある様に感じるが、将来の倫理観の中ではどうなのだろうか。美容整形は悪なのか、そういった議論にもつながるが、世界が大きく言えばゆっくりとリベラルな方向へ進んでいる事を考えると、私の数世代後の世界では、遺伝子操作を行うのも個人の自由、そういった倫理観になっているような気もする。

グローバル化は個人という自覚を則し、リベラル化を推進していると思う。地域社会や国という枠組みすら超えて世界がつながるようになったことで、自分は何人か、という問いの必要性は薄まり、自分がどういう人間なのか、個人に焦点が当たるようになっている。これは明らかなリベラル化であり、今2020年に生きている私としては、この傾向が後退するような未来は考えずらい。

日本国内で言うと、江戸時代までは身分が違う業界に行く事はかなり稀な事だったと思う。商人の息子は商人、武士の子供は武士になるのである。それが明治以降徐々に崩れたかもしれないが、それでもしばらくは階級を超えられない時代が長かった。しかしながら現代社会においては、ある意味下剋上的な事は頻発しており、それは産業の主導権がどんどん変わっていく、そういうスピードが加速していっているからである。今後、ますますその傾向は強まり、その結果として個人の未来を個人が設計するようになるだろうから、遺伝子操作による個人の将来の設計というのが自然に捉えられる未来が来るのだと思う。それについて現代の倫理観で、良し悪しを言っても意味が無い気がする。