ゲイの遺伝子

ゲイの遺伝子

橘玲の著書を読むのが好きだが、ゲイ遺伝子の事が書いてあった。一卵性双生児のゲイと、二卵性双生児のゲイで比較した場合、遺伝子情報が全く同じである一卵性双生児が兄弟共にゲイである確率は有意に高く、ゲイ遺伝子の存在はほぼ間違いないと言われているらしい。著書にも書いてあったが、男通しがひかれあうというゲイ遺伝子が進化の過程で生き残る事は、子孫繁栄という生命の趣旨から言っても理解が難しいところであるが、ある研究者によって、「男性にもてる、男性をより愛する、どちらの性質とは断言できないが、他社よりも男性と結ばれやすい遺伝子が男女問わず存在する」という天才的な理論が考えられ、それを実証によって証明したらしい。

ゲイの男性の叔母にあたる人物の子供の人数の統計を取ったところ、こちらも有意に人数が多い傾向が得られ、ゲイの男性の叔母は男性にもてがちという傾向が得られ、これによってその叔母で発現した遺伝子は、男性獲得競争で優位に働き、子宝に繋がり、それがゲイの男性で発現するとゲイとなる、という事らしい。

ゲイは100%ではないだろうが遺伝的に説明できる部分があるという事と、進化の過程でも保存されてきた遺伝子であると言う事は、昨今言われているLGBTの権利保護という観点でも重要だろう。本人の意思によるものでないケースがあるという部分と、遺伝的にも劣後しているわけでは無いという重要な面である。ゲイカップルからは子供が生まれないので、子孫繁栄という意味から古典的な思想の中では忌み嫌われる傾向があったが、これは近縁の家族の中で、それを補って余りある子宝に恵まれる事の裏返しであることを言っているわけであり、近縁家族で見ると、ゲイがいない家族に比べてそん色ない事が、遺伝子として残っている事から逆説的に証明できるのである。

これらの事柄を見ていると、発想の転換と統計のような科学は、人々の常識まで変えてしまう。固定観念の打破である。天才的な科学者、この場合は遺伝学者と統計学者であるが、彼らの探求が固定観念を変えてしまう。

筆者は今ダン・ブラウンの著書を読んでいるのですぐカトリックの話になってしまうが、カトリック教会がこのゲイ遺伝子についてどういう発言をするのかは非常に興味深い。伝統を重んじる価値観の中で、科学的に立証できるゲイ遺伝子の存在はどう考えるのか。人工中絶、進化論、遺伝子学、これらはすべてがカトリックの敵であった。かつては敵であったと言うべきだろうか。地動説、ビックバン、これらに続く議論になるのだが、ヴァチカンの立場と、伝統的な信者の立場もまた違っており、ヴァチカン自体はそれほど強硬ではないようにも見える。

例えば人工中絶については「優先順位が高い議論ではない」というような趣旨の発言を教皇が行っていたり、完全な米国の保守派と言われるカトリックとは一線を画しているようにも見える。 話を天才的な発見という観点で戻すと、恐らくはこれからも遺伝学、の世界は常識が覆され続けていくのだろう。まずゲノム解析で得られる情報量というのが飛躍的に上がっているのが原因だ。

日本人の祖先についても、北方系、大陸系、海洋系というように色々なルートがあった事が分かっているし、恐らくは今後個人個人がどの系統の色が強いのか、と言う事も解明されていくだろう。それに加えて、国の成り立ちについての謎も、遺伝学的に今後色々と解明されていくのではないだろうか。

狗奴国との関係という観点や、卑弥呼の出自、天皇家と神話の関連、倭寇とその後の日本人、色々なテーマがあるが、ホモサピエンスが日本に至った過程、その他の人類との交配の過程が分かってくると、我々のルーツが分かってくるはずである。デニソワ人や北京原人、ジャワ原人、これらとの交配具合がどうであったのか。我々の骨格は欧州に住む人、とくに北方系の人々とは体格的に大きく異なる。ネアンデルタール人は屈強な体躯を持っていたが、ジャワ原人は小さかった。これらの事実と現生人類の分布、例えばロシア人とインドネシア人の骨格を考えると、ホモサピエンス以外との交配の歴史が大きな意味を持ちそうな気がする。こういった分野においても、今後も印伝学者による発想の転換、それを実証するための統計学的な調査、その為のゲノム解析の高速化、これらが進んでくれば、大いに研究は進展するのだろう。科学の進歩を見るたびに興奮が呼び起こされる所以である。

国防費に関する議論

国防費に関する議論

日本の国防費はGDP比で1%程度と先進諸国というか、色々な国と比較しても突出して低いと言われている。韓国は2.5%を3%に引き上げるらしいし、NATOという軍事同盟を結んでいる西欧諸国でもNATOの基準値は2%となっている。これはひとえにアメリカの核の傘、駐日アメリカ軍による抑止力、これら日米同盟、日米安全保障条約のたまものである。

尖閣諸島、竹島、北方四島、これらの領土を守るために自衛隊や海上保安庁は日々奮闘しているが、諸外国と比べて国防費が潤沢とは言えなくなってきている。もちろん日本のGDPの成長が止まっているから、諸外国の国防費に比べて相対的に費用が下がってきているからである。そういった状況の中、日本という国家を防衛というか文字通り守り、我々の子孫に安全で誇れる国を残そうとした場合、今後は国防費を増やす議論をしていかなければならない。

戦争を無くす努力をしていれば国防費、ひいては国防の配備すらいらないというような左寄りの主張はあるが、そんなわけがない事は戦争の歴史である人類史が物語っている。ヒトの行動原理の根本は欲望であり、相対的に他社よりも富を得たいと思っている。もちろん生存、遺伝的形質の保全、これらのために重要な事は言うまでもないが、最低限の生活ができていればいいと、本質的に一生思い続ける事が出来る人は多くはない。

皆が富を求めるのである。現代のような物質主義の時代になり、マネーが余暇や消費の中心となっていればなおさらである。国の中で富の争奪が行われるが、それでは飽き足らなく、国家間の競争に発展していく。さらには究極的には領土の奪い合いに発展するわけで、これは人類が数千年行ってきた事であり、これからもそうであろう。

そういう意味で国防費用というのは国家が考えるべきことの最重要な点の一つであるが、日本ではこれがなかなか進まない。敗戦とその後の教育によってあまりにもナイーブな老人が大量生産されてしまったからである。もちろん、明治維新以降、特に20世紀に入ってからの日本の拡大主義、軍国主義というのは、1945年の敗戦時に大きな傷跡となって帰ってきた。シビリアンコントロールの重要性を再認識するし、同盟の重要性も認識すべきであるが、改めて考えるべきは、国防における事前準備と、民主主義が善であるという偽善、これらであろう。

軍国主義の暴走を招いたのは、民主主義的な意思決定が無かったからではない。これはナチスヒトラーでも言える事だが、民衆の多くはその意思決定を指示しており、恐らく今以上に民主的な指示により、軍国主義的な方向に走ったと言われている。これは民主主義の怖い面であり、現在の色々な国で起こっている問題であるが、指導者というか政治家が弱腰を見せると、民衆という名の世論は一定の反発を示す。それがエスカレートしていくと、戦時中の日本やナチスドイツのような状況をもたらすのである。これが民主主義の暴走状態であり、危機の時は発生しやすく、2000年前後に始まった小泉政権も似たような感じがあったと記憶している。

こういったものの暴走を止めるには同盟関係という客観視できる存在が重要になるのであろう。国の内部は文化的にも感覚的にも同じ感覚に陥りやすいが、複数の同盟国家からブレーキをかけてもらう事が重要で、それこそNATOとか、軍事同盟ではないがEUはそういった民主主義の良い意味でのブレーキに少なからずなっていると感じる。

そういう意味では国防費の議論も一方に傾きやすい世論に対して慎重に議論していく必要があるのかもしれない。不安を煽り過ぎると国防準備を過剰にしないと不安だという世論が大きくなるだろうし、これはコロナ騒動でも見られた現象である。不安を解消してくれるのが政治であるというナイーブな人間たちが、政治に過剰に期待してしまう。税金を払っているんだから、全て解決してくれ、という安易な発想が大いに目立った。

事はそれほど簡単ではなく、コロナにしても国防にしても、完璧な対策などない。それを辛抱強く見てられるのか、という点が政治を見るうえで大事であり、コロナのケースで言うと日本は諸外国よりもそれが出来ていたのかもしれない。筆者の海外二か国での9年間の生活を通して感じている事は、政治家は国民の鏡であるという事だ。

国民が選出している政治家が政治をしているので、当たり前と言えば当たり前の事実かもしれないが、そういう認識をしていなく、「政治家は金に汚い」とか「政治家はうそつきだ」とか「政治家は民衆である国民大多数の意見を聞いていない」とかいう声はどこの国でも聞くが、それら国の政治家の「金の汚さ」「嘘つき度合い」「人の話を聞かない度合い」というのは、おおむねその国の国民の性質と一致している印象だ。もちろん個人差はあるが、適当な国民が多い国は政治家も適当に見える人が多い。「政府は綺麗事だけではなく、実行力を!」とか言っているキャスターがいたりするが、当人が実行力が無いんだろうな、と思うケースが多々ある。まずは、自分たち国民が選んだ政治家が政治をしていると言う事を改めて認識して、例えば資質が足りない国会議員がいると思うのであれば、それはそれを選んだ国民の資質が低いことの裏返しであることを自覚すべきだ。民主主義国家の政治を良くしたいのであれば、国民それぞれの資質を上げる必要があり、その為に教育であったり、自己研鑽、個人個人が意識を高める必要があるし、これは中長期的に政治主導で良いサイクルに乗せるべく、みんなが意識すべき事だろうと思う。

宗教の本質

宗教の本質

先日、古い映画ではあるがダヴィンチコードを再び見てみた。イエスキリストの末裔を守る、という話であり、現代にも末裔が生きているという話であったが、日本で言うと天皇家は2600年前から血脈が途絶えていないことになっているので、あながちフィクションと切り捨てる事も出来ない。十字軍であったり、テンプル騎士団はそのキリストの神器を守るため云々という話なので、ストーリーとしては歴史も重なりあいながら、興味深いものであった。

オリジン【角川文庫 上中下合本版】

キリスト教を国家宗教とした2,3世紀ごろのローマ帝国では、その頃いくつもあった宗派のストーリーというか神話を、取捨選択して国教のストーリーとしていったという表現があったが、これは本当に興味深い。結局のところ、権力者が国民統治のために活用する、活用しやすく作り変えて宗教としていくのであり、その結果、宗教家という権力者が生まれ、統治に大きな力を発揮していくのである。

前にも書いたが、キリストの誕生日と言われるクリスマスは、結局のところ太陽信仰という古来からの信仰の中での、太陽が再生する日である冬至に近い日としており、これも以前は異教信者だった人たちを懐柔するための作戦であろう。このように権力というものは宗教、文化さえも塗り替えて、都合が良いように作り変えてきたのである。これは恐らく世界的に見ても、一般的な動きなのだろう。キリスト教だけが特別ではなく、権力は富に繋がり、人間というものの欲望が存在する限りにおいては、権力欲を抑止することは出来ず、権力争いをしてきた1万年と言っても過言ではない。何故1万年というかというと、これは大体農耕が始まった時だと言われており、農耕により生産の集約、余剰食糧が現れ、富と貧富の差が生まれて言ったというのが定説であり、それ以前の人類は、山や川、海で取れたものをその日暮らしに近い形で生活していたと言われている。それほど農業生産というのは革命的な事であり、人類の運命を本質的に変えてしまったと言っても過言ではない。

翻ってみて我が国日本であるが、2600年前の神武天皇がこの国土に降り立ち、国を統治していき、現在まで天皇家という形で続いているというのが、神話に近くはあるが、この国の形、文化、歴史を形作っている。これらは日本書紀に記載されている記述であるが、その時に、2,3世紀のローマ帝国のようなことが行われたのは間違いないだろう。そこで善意を持って、真実だけを編纂したと考えるのはあまりに青臭い考え方と言わざるを得ない。

確かにそれを超える事実を知る事は不可能に近く、日本書紀を信じるしかないのだが、そういう取捨選択が起きた事、勝者が書く歴史である事、これらは自覚して読むべきだろう。ちょうど2世紀、3世紀頃に、太陽をつかさどる神が隠れてしまって、みんなで無理やり出したら、そこから国は繁栄した、みたいな記述が日本の神話にはあるみたいだが、この頃に勝者が生まれたというのは一つの良い推測であるだろう。

その頃に丁度、井沢元彦氏の著書によれば、日本列島において二度の皆既日食があったらしい。これは天文学、数学的に計算ができる現象であり、この二度の日食は確かにあったようで、しかもここ2000年では珍しい事に、ヒトが人生で二度見れるチャンスがあるくらい、ショートスパンで起こったというのが計算結果になっている。

その時に太陽を司った神が、呪術的な予言を見せたり、呪術的なスピーチをして、権力を奪い取ったのかもしれない。これが日本でも2,3世紀、ローマ帝国が宗教を統一してキリスト教を国教としたのも同じような時期というのは非常に興味深い。日本で起こった二度の皆既日食がローマで同時期にあった言う事は無いだろうが、何かしら天候に関わるイベント、彗星などの天体に関わるイベントがあったのかもしれない。それくらい天気、天候、天文、これらは世界の統治機構を変える力がある。これらをコントロールする事は、ある意味では権力をコントロールする事にもつながる。人類は食糧生産という農耕を生み出した時と同じ、革命的な状況を迎えようとしているのかもしれない。天候をコントロールするというのは、新たな権力の創出なのかもしれない。