空飛ぶ車

我々が子供のころ、1980年代の話だが、21世紀は遠い未来のように感じられていた。1999年にノストラダムスの大予言で世界がめちゃくちゃになると言われても、どこか現実感はなく、未来の話であった。当時の漫画、映画、これらでも21世紀には電車は空中のパイプのようなものの中を走行して、ビルは雲に浮かぶような高さで、車は勿論空を走っていた。

21世紀も20年以上が経過して、20世紀の記憶は歴史というか過去になりつつある。それくらい21世紀にどっぷりつかっている時期に差し掛かっている。ご多分に漏れず、21世紀も最初の20年間は色々あったが、産業構造の返還点であることは言えるだろう。

まずインターネット上での取引割合が、コロナウイルスの感染拡大もあり、急速に進んだ。Amazonなんかもそうであるが、そういったオンラインで販売する業者の売り上げが急速に増えた。これは不可逆的なトレンドと言えるだろう。特に日本では、オンライン販売というのは需給の問題よりもセキュリティーの問題で敬遠する人が多かったが、止むに止まれずにオンライン取引に個人が大量に入っていったことで、利便性が認識されることとなり、これが元の状態に戻ることはないだろう。

物事を進めるというか、旧来型のシステムなりやり方を変える時というのは、多かれ少なかれリスクとリターンがあるわけで、オンライン取引においては、リスクはセキュリティーの問題で、リターンは利便性であった。もちろん、店舗に行くことで触覚的な体験ができることなどの利益もあるが、メインはセキュリティー対利便性であった。

世界を変えた14の密約

この図式というのは企業経営であっても、家庭の細かな設備投資や意思決定でも適応できる簡単な図式である。何かを変える時には必ずメリットデメリットが発生する。デメリットを許容できるかどうか、これが革新につながると言っても過言ではないだろう。コロナウイルスの拡大はデメリットを打ち消す効果があった、オンライン取引においてはそのことが言えるのだと思う。

話を戻すと21世紀になっても空飛ぶ車はそれほど普及していない。これはまず技術的な問題があり、リスクとリターンの話以前の話であることはある。技術的に燃費特性につながる軽量化、騒音を制御する技術、これらが普及に至るほどのレベルに至っていない。例えば数億円を支払えば実用に耐えられるような物は作れるだろうが、価格の問題が出てくる。これは初期の計算機と同様で、どこかの研究所で国家予算を使うようなコスト度外視のところでのみ使われる、そういった環境であろう。

しかしながら一つのブレークスルーがあり、これはオンライン取引と密接にかかわっており、まずは小口配送の増加が輸送業界では顕著でありトラック運転手の不足、不足によるコストアップ、これらが出てきている。それらを改善する手段としてドローンによるラストワンマイル輸送がクローズアップされることになった。これも従来は安全面とコストの問題で進んでいなかったが、輸送業界の方の事情が変わり、コストを許容できるようになってきた。そこで議論が進むようになったわけである。それに伴い短距離の航空管制の議論が進むようになってきたのと、ドローンのデザインの効率性、適応部材やモーターの最適化も研究されるようになってきて、空飛ぶ車の基礎的研究が多くなされるように時代が変わってきている。

航空管制の問題と安全面を担保する国際的なルール作りが進むと、物を作る方は設備投資、研究開発が進むわけであり、それが今の空飛ぶ車の研究、実証試験ブームに繋がっていく。

ここで思うのは未来というのは連続性の上に成り立っているものではないということで、非連続な出来事、例えば今回でいえばコロナウイルスのパンデミックということになるが、そういった非連続の突発的な事象により大きな飛躍が起きる、これの積み重ねが未来なのだろうという点である。先日テレビ番組であさま山荘事件がカップヌードルの知名度の拡大に寄与したということをやっていたが、通じるものがある。未来の変化と言うのは振り返ってみると、徐々にトレンドとして変わったという面よりも、例えばスペイン風邪、例えばブラックマンデー、例えば二度の世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、プラザ合意、リーマンショック、こういったビッグイベントが大きな影響を与えるのだろう。もちろん、世界大戦なんかは、それまでの歴史の積み重ねで発生したという考え方もでき、徐々にたまったマグマが噴火したのが世界大戦に繋がっている側面もあるのであるが、第一次大戦でいえばオーストリアで公使が殺害されたのがきっかけで戦争に至ったわけで、実は世界規模の変革に与える非連続な突発事象の影響が、思っているよりも大きいのだと、そういう認識に至るわけである。

持って行きどころのない宣言延長

緊急事態宣言が東京都では延長された。他の宣言地域も同様に延長されたわけであるが、例によって延長の根拠はよくわからない。よくわからないというか、延長の根拠はないのだろう、延長を則したのは空気感だからだ。

宛てにならないとは思いながらであるが、世論調査の結果などを見ても半数以上が宣言の延長を支持している状況であったので、どんなに科学的根拠があったとしても、宣言の終結を言うことはできないのだろう。菅総理にしても各都道府県の知事にしても、3月の大阪で解除を早まったというトラウマがあり、誰も解除を言い出せる状況にはない。

マスコミはマスコミで、誰かが解除を口走って、解除に至り、少しでも感染者数が増えようもんなら、その誰かを徹底的に攻撃するのだろう。昨日、テレビ朝日の報道番組のキャスターは、緊急事態宣言が延長されても収束する気配がないことに憤りを示していたが、誰に対する憤りなのだろうか。彼らはそれがさも政府が悪いように報道するが、政府にしたって緊急事態宣言以外に手がない、それに尽きるわけである。

緊急事態宣言については巷の空気感がかなりの割合で緊急事態宣言は不要だね、そうならないと解除するきっかけを失ってしまっている。3月の大阪の検証もなされないまま、空気だけで語ってしまう。その空気を作っているのはマスコミであることを十分に認識すべきだろう。

3月の大阪の検証というのはどうなのだろうか。変異株に置き換わった、ということが言われているが本当に変異株は1.7倍とか2倍の感染力なのだろうか。確か英国で出た論文にそう書かれていた、というのが始まりでそこから壮大な独り歩きというか、便利な枕詞として不安を煽りたいマスコミに徹底的に活用されている。視聴率を稼ぎたいだろうから、不安を煽るマスコミにはうってつけの論文だったのだろう。ただ、コロナウイルス自体世間は一年程度の経験しかなく、変異株に至っては、その論文にしても圧倒的に初期調査の結果のみで、統計学的に精査されているのかもわからないような初期報告をしているだけである。

統計学というか、科学の検証というのは通常観測されるノイズを除去していってこそ、効果や結果を測定できるというのは常識であり、それがなされないと本当のことは分からない。もちろん、その検証ができなかったから初期報告をBBCなりが報道したのであろうが、その後検証は聞こえてこないわけである。

コロナウイルスの新規感染者数の推移を見てると、もちろん国にもよるのであるが、ロックダウンのような規制の影響もあるが、その他の感染対策の影響もあるし、季節要因もあるように思われる。特に昨年年末の感染拡大は世界各国で見られており、これは人々が外出する季節であったことが要因として圧倒的に大きい感じがする。そういう意味では日本の3,4月は人が動く季節であり、このあたりに感染者数が増えるのは当然であり、インドの感染爆発も3月はインドのお祭りの期間であったから、というのが大きい。

民主主義とは何なのか (文春新書)

ウイルス自体の感染力というのは何を基準にどういったケースを想定して言っているのかまったくもって理解ができないが、そんな事より社会要因の方が圧倒的に効いてくるのである。何をもって1.7倍と言ってるのかよくわからないが、この言葉に踊らされているのは、まずマスコミ、そして科学リテラシーのない大多数の日本国民なのであろう。変異株とオリンピックを結びつけるような謎の報道すらある。選手が大挙として来るとどんな変異株が日本に持ち込まれるか分からないというもので、一見その通りのように思うが、そんなことは日本国内でも起こりうるわけであるし、いまでも海外からの渡航者はいるわけであり、そうであれば完全に国境を閉鎖すべきであるし、オリンピックだけ悪者にするのは違う。

米国では一年も前にフロリダでNBAのPlay offをバブル開催していた。豪州や米国ではテニスの4大大会をバブル開催していた。それを行って感染者数の大幅な増加は見られたのだろうか。日本でもテスト大会の国際大会は開催しているし、野球やサッカーで数千人の観客を入れてのイベントも行っている。こういうイベントの検証は済んでいるのだろうか。マスコミはそういう事を報道すべきではないだろうか。恐らく、「じゃー問題ないじゃん」という結論になってしまって、空気感と相いれない内容になってしまうのだろう。そうすると国民が色んな意味で冷めてしまうので、報道する側が面白くなくなってしまう。そんなどうでもいい価値判断で空気を決めていっているのである。

パラダイムシフト

コロナウイルスは働き方であったり、人生観であったり、色々なものにパラダイムシフトを起こしたと言われている。スペイン風邪以来の全世界での感染症の蔓延と言われるので100年に一回の出来事と言ってもいいだろう。これを機に世界は変わる、そういう事なのかもしれない。スペイン風邪の後にはブラックマンデー、世界恐慌が続き、第一次世界大戦、第二次世界大戦と二度の対戦が起きた。100年に一度の出来ことが起きるとそういう歴史的な大転換がなされるのは歴史の常なのであろう。

リーマンショックも大恐慌以来の100年に一度の出来事と言われた。実際に株価の動きとかを見てもそうであったのだろう。バブルの崩壊と似たようなところがあり、一流企業であっても一夜にして破綻するような恐怖を市民に植え付けた。

東日本大震災は1000年に一度と言われている。9世紀だったか10世紀に起きた地震以来の規模の地震であったようで、そういう意味で1000年に一度の出来事であった。これは基本的には日本への影響がほとんどすべてであるが、ここにおいても多くの人々の人生観を変えることに繋がったと言えるだろう。

2008年のリーマンショック、2011年の東日本大震災という形で、100年に一度、1000年に一度という事象がこの時は頻発というか立て続けに起きたことになる。これはリーマンショックが先に起きたので、両者の関連性はなく、偶発的なものであることは間違いないが、特に日本においては生活において意識が変わったと思われる。

勿論90年代から続いていた失われた20年とか30年とかの経済成長が得られない時代背景もあり、当時は既にパラダイムシフトを自律的に起こそうという流れがあった。99年、00年前後にはウーマノミクスという言葉が生まれてきて、社会的に大きく変わったのは、女性の社会進出を則す動きであった。00年代後半くらいまでは寿退社という言葉があったが、10年代に入るとなくなってしまったと言っても過言ではない。

これら三つの事象、リーマンショック、東日本大震災、ウーマノミクス、は繋がっていると感じる。特に2010年頃から共働き世帯が急増しているのである。これは男性の収入だけでは安心して暮らせないという圧力が限界まで達したこと、そしてそれが東日本大震災やリーマンショックで明るみになったことが引き金となり、女性は生涯社会で働く必要があるという意識に変わっていったのである。

対立の世紀 グローバリズムの破綻 (日本経済新聞出版)

もともと若い世代はそういう意識だったとみる向きもあるかもしれないが、この100年に一度、1000年に一度のイベントは国民の意識に大きく影響したと見える。2010年以降は女性の社会進出というか、結婚しても出産しても仕事を辞めない人がかなり増えている。これは厚生労働省の共働き世帯の比率のグラフを見ても明らかである。

これらが何を生み出したかというと、実は貧富の差というか、格差を増大させる方向に進んでいるのだと思う。シングルマザー、シングルファザーの増加と、共働き世帯の増加、これらが世帯当たりの収入の格差を呼ぶわけである。世帯というくくりは忘れられがちであるが、住居費、光熱費、そういった観点から共働き世帯は優位になるが、そうでない世帯は不利になる。一人当たりの食費は変わらないが、住居費などの負担の軽減が可処分所得の増大を生む。世帯というか家族の多様性が増したことは良いことなのであるが、しかしながら、これが世帯間格差を増大させる方向に繋がっている。

結果としてリーマンショック以降、2010年以降と言ってもいいが、住宅の価格は上昇を続けている。これは共働き世帯が購入できる住居の価格レベルが上がっているからである。少し考えてみると当たり前のことであるが、20年前は男性の収入のみをベースに65歳なり、70歳なりまでの収入でローンを計算していたが、現代では共働き世帯は男性、女性の生涯収入をベースとしてローンのプランを考えているのである。これは大きな違いであり、住居の価格は上がるわけである。

一方でシングルマザーの貧困と巷では記事もよく出ているが、これも自明の理であるが、シングルマザーはその相対比較にいおいては収入面で一番不利になってしまう。この人たちは共働き世帯が相対的に収入が増えたことによって、賃金動向、GDP動向からは隠れがちになってしまうのだが、相対的に貧困が進んでいるということになる。格差の助長はリーマンショックと東日本大震災が起こした。皮肉なようであるが、これは意識の問題が生み出したものであり、誰にも止められないのだろう。そういう状況においては、税制等を早急に変える必要があるのだと思う。専業主婦がいる世帯を前提とした昭和の税制では、現代の家族には対応できていないのではないだろうか。