脳の容量と知能

以前にここでも書いたがネアンデルタール人の脳容量は1500㏄を超えていたといわれる。現代のホモサピエンスの脳容量が1300-1350㏄程度と言われるので、それよりも大きい。脳の容量が大きいから、認知能力が高いとか、知能が高いとか、今の我々ホモサピエンスの基準でいう尺度では一言でいう事ができないが、思考する力なのか、領域なのか、脳を使う領域は広かったのであろう。

ただ、それが例えば文化創造能力が異常に高いとか、記憶力だけは異常に高かったとか、我々の今の基準でいえば、生活のために必要な能力として活用されていたのかどうかは分かっていない。ただ、ネアンデルタール人はその脳の容量の多さにより、多くのエネルギーが必要であり、狩りをしなければいけない時間が長くなったこと、食糧が少なくなる時期にはまっさきに飢餓が襲ってくること、脳が大きいことによって不利な面があったように見られている。

ホモサピエンスにしても10000万年ほど前のホモサピエンスは、現代のホモサピエンスよりも脳容量が大きかったことが言われているらしい。1400-1450㏄と言われているようである。言語能力は10000年程度前だとあまり変わらないだろうが、10000年前と言えば当方が好きな農耕が始まったころと合致してくる。

この頃から集団で生きていくという色合いが強まったとみられている。労働を集約することで収穫量を2倍にも3倍にもできるようになったからであり、その先には国家のような大規模組織が徴税、治水をすることで飛躍的に収穫量を増やす仕組みができていったという現代につながる話になってくるのである。

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その農耕が始まったタイミングから脳の容量が小さくなっていったというのは非常に興味深い発見であり、一つには国家のような大きな単位で生産、収穫、再分配を行うようになったことにより人々の間に分業制が定着していったことと無関係ではないだろう。例えば、治水の人、例えば、耕作の人、例えば、防衛の人、こういうようにルールを決めて分業ができるようになった時代であり、権力者と言われる人間が統治を始めた時期である。例えば、一市民であるAさんは、以前は集落の安全を守ること、食糧を確保すること、子孫を残していくこと、これらすべてに気を使う必要があったし、これらすべてに長けていないと、自分と近縁の人々が反映することができない社会であった。

しかしながら、国家というものの登場により、それが分業されるようになったわけである。防衛能力が高い人は防衛を、耕作能力が高い人は耕作を、それぞれ自分の力を専門的に発揮できるようになっていったわけである。

現代の我々ホモサピエンスはどうであろうか。分業制、専業性はさらに進展しているのではないだろうか。食料生産について響きにすることもなくなっているし、安全を担保するのも対外的には国家の軍隊が、対内的にはこれも国家の警察権力が担ってくれている。税金を払えば、自分とその家族が食べていくための生産活動に力を注ぐことができるのが、一般的な先進国の状況になっているのは間違いないだろう。

そう考えると、今後も脳容量は小さくなっていくのだろうか。例えば10万年とかのスパンで見た場合に、下手したら今の半分くらいの脳容量となり、省エネが進むのかもしれない。ある研究によるとインドネシアのフローレンス島にいたといわれるホモフロレンシスは、ジャワ原人という100万年前にいた人類から進化して脳容量が小さくなったと言われている。もちろん、何に適応するために小さくなったのかというのが問題であるが、必要な食糧を少なくすることができ、生きるための食料確保がしやすくなったからというのは、大きな理由の一つであると思われる。

そう考えてみると10万年とかのスパンであれば、現生人類も食料も今の7割程度しか食べず、思考も同じく7割程度、脳の容量も7割程度、そういう社会になっているのかもしれない。これは別に不幸な未来を話しているわけではなく、ただただホモサピエンスの基準がそうなるかもしれないという話だけであり、その時の人類には最適な脳の容量になるだけの話である。ただ、もしかすると余白の活動というか、必須ではない活動である文化的な創造性の高い活動は低下していくのかもしれない。そこには少し悲しさを感じる次第である。

メディアの横暴

現在、テニスの全仏オープンが開催中であるが、開催直前に話題をさらったのは大坂なおみ選手である。記者会見への参加を拒否したことで、大会主催者からの反発を浴びることになり、大会を棄権することにした。

勿論、大会規定には記者会見への参加が義務付けられているようであり、そんな中拒否したことなので、ルール違反ではあるが、うつ病を抱えており、記者会見に出ることが苦痛であったという大坂選手のコメントを聞き、賛否両論があった。

同じアスリートの人たちからは同情の声が大きいように感じるが、批判の声を拾ってくるのは勿論マスコミである。彼らの横暴が20歳そこそこの大坂選手を傷つけていることは、あたかも忘れているかのようにである。

自由なメディアというか、開かれたメディアというか、以前は密室の記者クラブ的な感じで大手マスコミが管理していた世界なのかもしれないが、今の世の中は、どんな記者でも比較的自由に記者会見に出入りできる雰囲気で、ネットメディアやタブロイド紙の人でも、出入りしている印象だ。これは、マスコミというものの、そもそものイデオロギーからきていると思うが、言論の自由の番人みたいな位置づけが、根本にはあり、自分たちで改革開放を進めていった結果であろう。

しかしながら、このことが質を低めているのは事実であり、自分たちの首を絞めている。大手メディアが独占していた時代の記者会見は質問の質にしても、聞いている記者の人間性についても、その世界でトップの例えば大坂選手のような人が質問を受けても、同じようなレベルの質に住んでいる人が多かったのではないだろうか。しかしながら、現在の記者会見は、本質ではないような質問であったり、何かのWordを引き出したいだけで、引き出したら引き出したで脚色して自分の描いていた通りの記事を書くような、Fake newsに近いような書き方の記者もいる世界である。

マスコミには色々な問題があるとは思うし、ここに書くには今は時間が足りないのだが、この言論の自由の行き過ぎた精神、自らの改革開放による記者のレベルの低下、この点は大きな問題点であり、今後も止まらない問題であろう。マスコミを志して、ジャーナリスト然としている人々にとって、言論の自由と改革開放はイデオロギーの骨格であるからである。ここを否定してしまうと矛盾が突き付けられてしまい、自らが崩壊してしまうのである。

諸外国ではわからないが、日本ではまとめニュースサイトの存在も問題であると筆者は感じている。これは、ニュースを見る読み手のレベルを低下させており、まず一方的なニュース、自分の考えに近いこと、自分の興味に近いことしかニュースを読ませない傾向を植え付け、そのことが問題を批判的に見る目を衰えさせている。さらに、大手一般紙からタブロイド紙、謎の週刊誌まで同列にニュースを表示するようになったので、それぞれの質ややり口の違いについて検証せずにニュースを受け取るようになっている。タブロイドの夕刊フジとかゲンダイとか、ネットがなければ中年のおじさんしか読まなかったような明らかに怪しいメディアの論調や報道を真に受ける若者が出てくるのである。これが拡散されFake newsになっていくのであるが、昭和の時代は夕刊フジの言っていることはかなり怪しいということはみんな分かってみてたのである。

決定力不足という怪しい言葉

昨日、日本代表対オリンピックのU-24代表というサッカーの珍しい試合が行われていた。練習試合という位置づけでありながらテレビ中継も行われ、オリンピックに対する注目度が上がっていると感じる。

結果、内容についてどうこう言う話ではなく、それを見ながら決定力不足という従来から日本サッカーの課題と言われている言葉について考えてみた。

サッカーの専門家でもない筆者が感じることではあるが、サッカーにおける点を決めるシュートと、比較的日本人がうまいとされるパスについては、ゴルフでいうとドライバーとパターくらい違うというのが印象だ。シュートというのは多くのケースにおいて、パスよりも、時間的余裕がなく、万全ではない体勢で、強い力をボールに与えなければならない。サッカーゲームのようにボタンを押すだけだと同じメカニズムに考えがちだが、シュートとパスはそれくらい違う。パスがうまければシュートがうまいように感じがちであるが、そうではなく、シュートを上手に行うには、さらに技術や体力が必要であり、決定力不足というのはそこが足りていない、要は技術や体力が足りていない、そういう事になるのだろう。

時間的な余裕はともかく、万全ではない体勢で、強い力をボールに与えるには、筋力が必要になる。特に体幹の筋力の重要性は言うまでもないだろう。そういう意味でも、海外でプレーしている選手はその重要性に気付いているのか、それとも海外のチームがそういう方針なのかわからないが、海外に行くと選手は体が大きくなっているように感じる。これは野球選手にも言えることで、大谷翔平選手にしても筋力の増加が著しく感じる。

新版 日本人になった祖先たち―DNAが解明する多元的構造 (NHKブックス No.1255)

日本国内で筋トレ、パンプアップ重視に何故ならないのだろうか。技術とか文化ではなく、筋力を鍛えることは時間をかければできるはずである。ラグビー選手は相当筋肉をつけている。日本の指導者とか解説者の話をテレビとかで聞く限りでは、野球とサッカーにおいては、筋力と柔軟性、筋力と速筋のキレ、これがバランスしないという声を頻繁に聞く。おそらくこれが色々な部分を阻害してるのだろう。野球にしてもサッカーにしても、世界の潮流は体力勝負であり、筋力無くして成長なし、そんな感じになっている。身体能力の高い黒人選手が各方面で活躍しているのはその表れである。

日本にはびこる筋力は悪という文化がどこからきているのだろうかというのが、今回のポイントなのだが、これは人類進化の歴史とも関係しているのでは、というのが筆者の考えである。人類は数万年前に出アフリカをして、恐らく3万年前くらいには日本列島にも到達したと言われているが、その過程で中東、インド、東南アジア、東アジアと海沿いに進出してきた一団が源流だろうと言われている。これらの移住は数万年かけて行われたわけであるが、この集団は人口密度の高まりを受けて、争いを避けることができる人間が生き残るように淘汰されていったと考えている。

ちょっと論理が飛躍しているようだが、人口密度が高いと些細なことで隣人とのトラブルになりやすい。そこで戦争や暴力に走るのか、和解の道を選ぶのか、という選択肢があるが、和解の道を選べる人間の方がとくに国家や法制度がない時代においては生存率が高かったであろう。その傾向が何になって東アジア人、日本人に残っているのかというと、「大人にならない」という傾向である。精神的には大人になるのだが、外見の印象が東アジア人はどこに行っても子供っぽい。これは今でも言われる話であるが、何故かと紐解くと、一見すると争いを避ける子供のように見えるように適応していった結果ではないだろうか。これは一応学説的にも示されている見解のようで、東アジア人は肉体的に子供らしさを残して成長していく傾向が高い。

これが現代でも傾向として残っており、日本でも韓国でも男性アイドルは子供のような存在が重宝されているように感じる。ガリガリの体を細マッチョと褒め囃すのもそういう歴史があるからかもしれない。細マッチョという言葉ほど意味が分からない言葉はないが、そういうのを見て彼らより年上の女性が喜ぶわけである。そういった未成年のアイドルが男女ともにもてはやされるのは、理想的な「こどもおとな」をそこに見出しているからではないだろうか。

そういう背景があるからかわからないが、攻撃的に見える筋力の増強というのはスポーツ界においてもあまり支持を得られていないのが日本の現状ではないだろうか。特に古い考えをする人に多い感じもするが、それにしても特にサッカーの世界で未だに筋力をつけることが好ましくないと思う専門家がいることには驚きを禁じ得ない。ラグビーを見ても、大谷翔平選手を見ても、筋力は適切に付けることでスピードも殺さないし、一瞬のキレも犠牲にしない。その事を競技を超えて確認して、筋力向上を目指していかないと、サッカーにおいては一番重要であるシュートという場面で差が出てしまうのである。これを決定力不足というなんかよくわからない言葉で納得してしまっているような気がしてならない、そういう気持ちである。