日本の生活様式

日本語には、「水に流す」という言葉があるが、禊という意味でも手を洗ったり、水で清めたりする文化的習慣が多いように思う。滝行にしても水で悪いものを流すという意味合いもあるだろうし、転じて、よく手を洗う文化と言える。

感染症の日本史 (文春新書)

イスラムの世界も、とにかく水で顔、手、足を洗う。これらは恐らく、始まった当初は疫病対策だったのだろう。手洗いをする事によって、統計学も医学も、免疫学も発展していない時代から、有意に感染が減少する事が分かっていたのである。それに対して、アメリカに住んでいた経験から言うと、アメリカ人は外出から帰っても手を洗わない。家の中も、外もあまり感覚的に違いが無く、例えば家の中でも靴を履くという文化もそういう事だろう。これは疫病よりも恐らく大事な文化的な背景がありそうなっているのだろうが、外と中という概念があまりない。結果としてそれが今回の新型コロナウイルスの蔓延にもつながっている可能性がある。東アジア人は遺伝子的になのか免疫的になのか、欧米人に比べて今回のウイルスに感染しづらいのか、重症化しづらいのか分からないが、明らかに感染拡大の速度が違う。遺伝的な影響もあるのかもしれないが、そこまで大きな議論が展開されていないが恐らくは生活習慣が大きく影響していると思う。これは先にも述べたが、そういった疫病を退散させるための習慣が数多く残っている事からも分かる通り、生活習慣が疫病の拡大に影響を与えてきたのは明らかであり、日本のように文化的に単一に近い文化が2000年近く継承されている地域では、そのような習慣や祭祀を確認できるのである。

日本では床の上に、皿にのっけた食べ物を置く事も避けるし、例えば帽子を床に置く事すらよくない事とされる。筆者などは床と食べ物の間に皿があれば関係ないだろうから、無視していた習慣であったが、親からよく言われたのを最近思い出す。これは細菌学的に正しいのか分からないが、やはり習慣として「外」という概念に近い「足」に常に接している「床」と、食べ物をなるべく遠いところに置こうという、習慣があり、食べ物の清浄度に直接影響しないのかもしれないがそういった意識を持つ事、すなわち、「外」は徹底して汚いもの、不浄なもの、という意識を持っていたことがこんにちの文化に繋がっているのかもしれない。

そういう意味では穢れの思想のように過剰に血を避ける文化が日本にはあるが、これも既に現代的な意味では本質的ではないが、やはり感染症のように、獣から人への病の伝播を出来るだけ避けるために、文化として成立していったのかもしれない。例えばそういう本質的な意味でも文化の形成が4世紀に起きたとしても、日本は言語の面、民族の面、統治の面、それらで見ても少なくとも1700年前から同じものが支配しており、そういった歴史的な慣習が継続しやすい。感染症というのは世界各地で発生しているだろうが、それを避けるための習慣が残りやすかったのは、日本のように継続的な文化がある国なのかもしれない。もちろん、そういった文化があるから感染症を押さえられるわけではないが、どこかに文化的な面や、民族の記憶的な部分で、感染拡大の速度を少し抑える事に繋がっているのかもしれない。 新規のウイルスというのは、恐らく人口の過剰や、都市への過剰集中、移民の急増、そういったもので引き起こされるのだと思う。地球というエコシステムで言う所の人口を自動調整する機能であろう。居住可能面積が比較的小さく、島国であるという特徴を持つ我が国は、歴史的にそういった場面に出くわすことが比較的多かったことが考えられ、そういった意味で感染症との対峙の回数は歴史を見ても多かったのかもしれない。

軍隊の存在

国家という組織、また国という存在において、重要な役割は国民の生命を守り、安心して暮らせる状況を維持するというものであることは、近代国家にとって常識と言っても過言ではない。安全保障という言葉がよく報道されるように、これは国家にとって最重要な問題であり、一番優先順位が高い事である。その前提に立ち、どの国でも国家予算の数%とかを軍事費用に使い、軍備を整備するというのは当たり前のことである。日本はGDPが500兆円、国家予算が100兆円で、軍事費用がだいたい5兆円。家計で言うと500万円の収入があり、100万円が税金で取られて、そのうち5万円くらいが警備費用に使われているという感じで、500万円の収入世帯で月々4000円の支払いと言う事で、水道代みたいなものの感覚である。この金額の多寡については評価が難しいが、国民の安全を守る費用という意味では妥当ではないかと思うし、筆者はもう少し払っても良いのではないかと思うくらいであり、そちらの論点についてはもっと書きたいことがあるが、それよりも軍部の暴走という点について、書いてみたい。

日本は江戸幕府の鎖国体制から、幕末にかけて尊王攘夷運動があり、最終的には天皇を中心とした国家で開国を行い、富国強兵を目指すとなったわけだが、やはり明治以降もどこか攘夷的な雰囲気が残り、特に軍人になるような思想の人々にはその雰囲気が強かったのでないだろうか。

大正時代の5.15事件ではないが、軍部は暴走をし始める。自分たちの信念の客観的な正当性の吟味が不十分であっても、自分たちの意に従わない政治家や民間人には武力で従わせようという圧力を強めるのである。日本という国体を護持するためとか、貧富の激しい状況を打破するためとか、聞こえはいいのだが理想論的な思想が先立ってしまう時でさえ、議論を十分に経ずに、精神論で純粋に正論へ傾いてしまう、そういうきらいがある。特に軍というのはヒエラルキーが明確な組織であり、それが武力につながる特異な組織であるが、上位者の思想に従う事が正となりやすい組織でもあり、多面的なものの解釈とか、考え方そのものの多様性が失われやすい。

そういった組織が武力を持ってしまっているわけであり、武力というのは状況によっては暴力になるわけで、最強の暴力組織がそこに存在する事になるわけである。思想が正しい方向に行っている場合は、その武力は外国勢に対する抑止力として機能するわけだが、思想が間違ってしまうと国内での暴力組織にすら変容してしまう。物理的な力を持っているからこそ危険な存在であり、さらに軍隊という統制を取るヒエラルキー型組織の属性上、さらに暴走をしやすいというのは世界共通の課題である。日本の大戦前は、明治維新から、大正デモクラシー、5.15事件を経て、日清、日露戦争、全体主義的な翼賛政治に繋がっていく。全体主義というのがまさに軍隊的な思想ではないかと思われ、一切異論を許さない空気感を醸成していくのだが、これは明治政府が作られた時の急激な方向転換の歪だったのだろう、というのが筆者の見解である。

世界的に見ても軍事クーデターというのは良くある話であり、軍部が独自の思想や独自の政権構想を持ち出すと、その暴走を止める存在が無くなってしまうというジレンマを抱えてしまう。だからこそ民主国家ではシビリアンコントロールを重要視するのであるが、そこには二重,三重の安全弁を掛けておかないと、コントロールが難しいのであろう。例えば、自衛隊にしたって自分たちの立場が不明確であること、報酬が適切でない事、これらを上層部が意思を結集して立ち上がる決意をした場合、物理的に日本国内で誰かが立ち向かう事が出来るのであろうか。武器兵器を動かす権限を持つ人たちに対して、我々一般国民は無力になってしまうだろうと思われる。

国家債務

2021年1月29日の日記より

GDP比で国家の債務が戦後並みに膨れ上がっているという報道があり、一方で20年10-12月のGDPは財政出動によって米国ではプラスが維持されているという報道がある。財政出動をけん制するようで、財政出動の恩恵を有難がる報道にも見える。積極財政が国家にとってプラスなのかマイナスなのか、もちろん規模や状況、評価をどのスパンで行うか、これらの要素によって変わってくるものであり、一概に答えは言えない。

借金を将来世代に残すことになるという人もいるし、経済がシュリンクしたほうが将来世代が悲惨になると言う事も言えるし、これは難しい論点になっている。金額ベースで言ってしまうと、今まで数十年間そうだったように(日本はそうでもないが)健全な水準のインフレが起きている状況であれば積極財政で総需要を増やしていくという政策は支持されるべきであり、今日の100万円が50年後には10万円くらいの価値になるという事であれば財政出動はすべきだろう。

一方で本日(21年1月29日)の日経新聞にも出ていたが、GDP比の債務が膨らんでしまうと格付機関によって国債の格付が下がり、金利の上昇を招いてしまう懸念が書かれていたが、格付機関の怪しい位置づけはさて置き、短期的な国債の売りを招く可能性は無くはない。例えば日本で言えば国債の外国人の保持率はじわじわとは上がっているはずであり、国内消化が多いとはいえ、警戒はされるべきなのかもしれない。

ただ、ハイパーインフレのようなものを持ち出して危機を煽るのはやり過ぎだとは思う。そんな懸念は少なくとも10,20年はあり得ない。いづれにせよ、これらの論点が定まらないのは指標としている項目がそれぞれ相関しあっているからであって、どちらかが上がればどちらかが下がると言う事でバランスが取れてしまうというかトレードオフになってしまうからだろう。

例えば、住宅を買うなら金利が低い今だ、という言い方をする人がいる。金利とローンだけを考えればそうなのかもしれないが、金利が低く誘導されているのは実体経済の成長が無いからであり、商品物価という意味では価値が上がらないからである。すなわち投資利回りが見込めないという事になり、金利が低いのは平均的な家であれば、価格も上がらないからと言う事になる。逆に実体経済というかGDPの成長が続くような社会では金利を一定水準まで上げて過度なインフレを抑える。それがあったのが80年代までの日本であり、当時ローンと金利だけを考えたらもちろん金利は高かったのだが、資産価値も上がるサイクルだったのであり、これらは結局トレードオフされるというのが、ならしてみると結論だろう。財政出動についても、例えば他国並みの財政出動をする事に関しては、相対的な経済においては変動が無く、金利差による為替変動も最小限になるし、格付けについても結局相対的なものでしかないので、この一年間先進諸国はどの国も積極的な財政出動をしているが、どの格付け機関も通常時のように格付けを下げる脅しを使っていない。結局相対的なものでしかなく、絶対的な数字であるGDP比の何倍が戦後以来、というような議論はあまり意味が無く、相対的な変動の大きさでしか見る必要が無いのだろうと思う。

先述した金利と実体経済の観点から家を買うのは今なのか後なのかと言う事に関わる事を書いたが、そうは言っても不動産価格は異常に上昇しているではないか、という面がある。これは今後書いていきたいが、大きなファクターは違うところにあると思っており、世帯年収である。ここ10年で急速に変化した社会環境に女性の社会進出があげられる。厚労省の発表によると共働き世帯が1000万世帯から1400万世帯に増えたという資料を読んだ気がする。

これは飛躍的な上昇であり、2010年前後から圧倒的にトレンドが変わった。個人の給与所得は30年間横ばいが続いているが、世帯年収の増加がこの10年間で顕著に起きているのである。日本の世帯数が4000万世帯として、そのうち500万世帯が専業主婦世帯から共働き世帯に変わったと仮に計算すると、約12%がダブルインカムに変わったわけで、この変化は大きい。個人ではなく世帯で買うものの代表である不動産は勿論のこと、テレビが大きなテレビが売れるようになったり、高機能の冷蔵庫、洗濯機が売れるのも必然なのである。それ故に不動産価格はこの10年で大きく上昇し、このトレンドは落ち着くものの不可逆であり、不動産価格が下がる事はあまり考えづらいとも言える。 共働き世帯の増加は、2008年のリーマンショック、2011年の東日本大震災が転機になっているだろう。とにかく世帯主の収入が安定しないと感じる家庭が増えた事で、女性の働くモチベーションが活発になり、社会運動として女性の働きやすさを求めるトレンドが発生したのではないか、と捉えている。もちろん、ウーマンリブ以来の社会運動の結果ではあるが、大きくトレンドが変わったのがその頃と考えると、日本の不動産価格が継続して上昇貴重なのも読み取れるような気がするのである。