成長曲線

ダイエット、英会話、ゴルフのレッスン、一般的には習えども習えども、頑張れども頑張れども、なかなか進まないものの代表例だろう。だからこそ、世の中には数多のダイエット本があり、英会話教室があり、ゴルフのレッスンがある。

最近では結果にコミットするRizapがダイエットとゴルフをどちらも扱っているが、何故かというと本質が同じだからであろう。そろそろどこかの英会話教室を買収して、英会話教室の経営にも乗り出すつもりかもしれない。

これらの代表的な三つの事は、二つの問題というか、イメージと違うことが影響して長続きしない、もしくは成長を実感できなくて途中で挫折してしまうということに繋がりがちだと思う。

一つ目は、実際の成長曲線がまっすぐ一次関数ではないということである。英会話教室に週二回通い、これを3か月続けると毎週毎週、授業毎に成長をしていることを人は想像する。しかしながら、これは海外で合計9年過ごして、インドネシア語と英語を習得した筆者の経験から言っても、間違いである。もちろん、例えばボキャブラリーという意味では、今週は100語、来週は200語というように増やせるかもしれないが、会話という意味においては、相手があること、話題が違うこと、これら変動要素が多すぎることもあり、毎回成長を実感するということはなかなかなく、大体は停滞期を迎えるのである。

これはダイエットという身体的な、意識が及ばないものにおいても現れる特徴である。筆者はここ1年で10キロ減量したが、一年かけてゆっくり減量することができたと自負している。やったことは朝食を無くして毎日16時間の断食時間を作ったことと、週4-5回で一回6キロのジョギングである。これを継続して1年以上行ったわけであるが、体重というのも減量期と停滞期がある。これは体の現状維持機能が働くからだろうと推測しており、痩せ過ぎると痩せないように体が代謝のスピードを変えたり、栄養吸収のスピードを調整しているのだと思う。それもあって階段状に減量というのは進んでいく。

自分の中に毒を持て<新装版>

これが意味することは何かというと、英会話もダイエットもゴルフも、本質的には日本人の日々の生活には必要がないということであり、体であり脳であり、これらが身に付けることを拒むというと言い過ぎかもしれないが、脳なり体なりが一度抵抗を示すのである。そこで必要なのは、最初に始めた時以上の強い意志であり、ここの時点で辞めてしまう人が多いというのが事実なのであろう。しかしながら、これらが達成されている人を見ると輝いて見えるので、また暫くたってから、改めて始めようとなる。これが、ビジネスとして成功している所以である。人間は自分にはないものを求めるというか、憧れるところがあり、これらが英会話、ダイエット、ゴルフのレッスン、には結び付きやすい。しかしながら、その裏返しとして、日常生活で不要であるから一度は脳なり体なりの抵抗にあう。それが長続きしない一つ目の要因となってしまうのである。

二つ目の要因としては、自分がイメージしている成長曲線との乖離であろう。これは一つ目と重なる部分が多く、脳なり体なりが抵抗を示したときに、イメージは成長が続いていることをイメージしており、自分ではもっとできるはずなのに、できていないという事実を突きつけられてしまう。これがモチベーションの低下に作用してしまう。これも途中で投げ出す人が多い原因となっているのだろう。

実はこの日常に不要なものに対して脳や体が拒否反応を示すというのは、ここで上げた代表的な三つの種目だけに限ったことではないと思う。例えば仕事のスキル、例えば文学的知識、例えば優れた話術、こういったものも人それぞれにとって必要性が違っており、仕事をしている環境下においてもスキルを伸ばすことを不要と感じる人もいるだろうし、必要性が感じられないと、脳が受け入れに抵抗を示すことがあるのだと思う。海外生活で言語を習得できるかどうかも、抵抗を示してきた脳に対して、必要性のモチベーションが上回るかどうかで、大きく変わってくる。そこを超えられるかどうかは個人の意思の問題であり、積極的に突破できるかどうか、これが最初のスタートで差を作り出し、後々の成長に大いに影響を与えるものなのだろうな、と感じる次第である。

芸術の本質

岡本太郎が言う芸術の本質は今日の芸術という著書にあり、当方は非常に共感しているという話を以前に書いた。これは哲学的なところがあるのだが、彼曰く、芸術は美しくあってはならない。これは芸術というのを哲学的にとらえて人間活動の精神の発露として芸術を追求していった結果、小手先の技術ではなく、物事の本質を表現することこそ芸術だ、という感覚であり、かなり抽象的にはなってしまうが、そういう面で見たときにパブロピカソの芸術作品に当方は非常に惹かれるのは事実である。

ゲルニカやアヴィニヨンの娘たち、これらは衝撃的であった。岡本太郎の作品でいうと太陽の塔や明日の神話、これらも見てると感動してくるのは事実である。

一方で、色彩や構図、被写体自身、これらの美しさを切り取る、という面での芸術活動というのももちろんあると思う。この活動を含めて岡本太郎は言っているのかもしれないが、当方の視点ではやや別物である。

日常の美しさを切り取る、これは写真家にも通じるものがあるかもしれないが、根源的に美しく感じるものは存在してるわけで、これはそれぞれの文化的な背景もあるかもしれないが、例えば夕日に染まる海岸線を見ると、これも美しさで感動を覚えることがある。この一瞬のとらえ方に秀でた人間というのも存在しており、アンリマティスを題材にしたフィクション小説を読んでて、彼はそうであったのか、と認識するに至った。

切り取った場面を独特の色彩や構図にとらえなおして、芸術作品に落とし込む。これについても特に技法を競うわけではなく、真に美しい、誰から見ても美しいものを作り上げる、そういった気概でいる芸術家も存在しており、それが達成されると感動を生み出す。

ここにも認知能力の差というものが影響しており、ケーキを切れない非行少年という本ではないが、個人による認知能力の差というのは、我々が普段認識しているよりも、人間の中での個体差が大きい。一言で乱暴に言うと繊細さということで表現されるのかもしれないが、芸術家というのはナイーブな反面、認知能力が高く、色々なものに敏感であり、美しい瞬間を見つけ出すことに秀でている人がいるのである。ナイーブだからこそヴァンゴッホのように自殺にまで行ってしまうこともあり、話は飛ぶようであるが、三島由紀夫なんかもそういう世界の人間のように思う。ナイーブだからこそ、美しい瞬間を切り取りそれを表現することに長けていた。

現代でいうと色んなものに過剰に反応しすぎる人は、一応病名がつくらしいが、それくらいこれは恐らく遺伝的に細かいものに反応する特性が生き残っている。集団の中にそういう人間がいると、外敵から逃れるのに役に立ったのだと思う。そういう遺伝的な傾向が極限まで触れるとヴァンゴッホや三島由紀夫のように美しい瞬間を切り取る行為に長けた人間になっていくのかもしれない。芸術家というのはそういう意味では大変な職業であるし、この観点から言った場合の芸術家は選ばれし人間であり、だからこそ岡本太郎の論点とはちょっと別のところから考えるべきだろう、と思う次第である。

アメリカンアイドル

先日、マイケルコリンズ元宇宙飛行士が亡くなったニュースがあったが、アメリカ人にとって、アームストロング船長、バズアルドリン、マイケルコリンズの月面着陸を達成した人間への敬意は、我々日本人が感じるそれよりもかなり大きい。筆者の娘が通っていた学校の名前はバズアルドリン小学校であったし、実際在学中にバズアルドリンがやってきて、アイドルのようなもてなしをされていた。

日本でももちろん月面着陸は大きなニュースであるが、自力で成し遂げたアメリカ人にとってのそのニュースとはとらえ方が全然違う。冷戦時代にソ連に後れを取っていた宇宙開発の起死回生だったわけであり、重みが違うのである。

考えてみると50年以上前の1969年に月面着陸を成功させたのは奇跡といっても過言ではないだろう。現在の技術ですら定期的に行けているわけではなく、ISSに行くのがやっとな状況なのに、計算機の能力も格段に劣っていた50年前に達成しているわけである。小学校の時に倣ったが月までの距離は確か38万キロほど。飛行機はせいぜい10キロ程度の高度で、ISSですら月までの距離の1000分の一ということなので、途方もない距離である。

世界を変えた14の密約

また、重力という要素で考えると月からの重力と地球からの重力ということで、これは本当に軌道計算は大変であったろうと想像できる。一つの重力を考えるのと、二つの重力を考えるのでは計算内容、計算の煩雑さは想像を絶するほど違ってくる。そんな中、行って、帰ってくる、これは本当に偉業だと思う。しかも1969年である。

大西洋を横断したコロンブスとかそのレベルではないと思う。月に行ったというレベルは異次元の偉業であることを我々はもう少し実感すべきであろう。だからこそ、月面着陸は本当は無かったというような陰謀論すら出るわけであり、普通に考えると理解しづらいくらいの偉業ではある。

現在人類は火星に挑んでいるが、これもかなりのチャレンジではある。火星との距離は最接近時で7500万キロメートルらしい。月のざっと200倍ほど。しかも公転軌道を考えると、火星と地球の距離は最接近時は7500万キロメートルであるが、太陽の反対側に行くときはかなりの距離になり、公転軌道の計算も必要になってくる。常にある程度の距離にいる月とは違うのである。

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ただ、計算という意味では計算機のレベルは想像を絶するほどに進化しているので、それほど問題ないであろう。軌道計算については計算機が月面着陸時代よりも正確にできると思う。もっと問題は、物理的なロケットの方で、材料、設計、これらをくみ上げていかなければならず、さらにテストによってイレギュラーを体験して安全装置を練り上げていかなければならない。そのイレギュラーの数がISSに行くことや、月面着陸と比べると恐らく天文学的に多くのことを考えなければならず、機体自体について設計が一番のハードルであろう。これは帰還時の機体についても考えなければならず、理論上の計算だけで実行するわけにはいかない面もあるので、ある程度の時間と金が必要になるのであろう。