差別の構造

緊急事態宣言が発出されており、休日の映画鑑賞が増えているが、昨日I am not your negroというJames Baldwinのドキュメンタリー映画を見た。アメリカ社会において如何に黒人が差別されてきており、どういう声を上げてきたのか、マルコムXやMartin Luther King牧師の意見を通してみていった映画になるが、興味深いものであった。

題名にもにじみ出ているように、何せ白人社会が黒人のステレオタイプを積極的に設定していった、これが軸になっている。例えば1900年代前半に作成された映画などでの黒人の描かれ方、これは先住民と呼ばれるNative Americanの人たちにも言えることであるが、白人の映画社会が例えば、黒人はコミカルでされど人が好い、先住民は人を食べるほど残忍で話が通じない、こういったイメージを植え付けるのに一役買っている。

James Baldwinによると、これらのイメージ植え付け映画が最悪であった。映画に出ているような黒人男性は実際には存在してないし、しているとしても稀であり、本質的なところでは揶揄しているようにしか見えない。これは確かにそうであろう。あえて映画や書籍でそれらのイメージを作り出して、レッテルというか国民の間にステレオタイプ的なイメージを植え付けた。

これが何故行われたのか。ひとえに白人の強迫観念からきている、というのが映画の趣旨である。これが差別というものの構造的な問題というか、本質であるが、差別する側は、被差別側が恐怖なのである。被差別側が教育を受けて、経済的に豊かになり、差別する側と同じような境遇になり経済的にも変わらない力を持つことが恐怖なのである。これが基本的な差別の構造だと筆者も思うし、映画の主張もそこにあったと思う。

それが何故恐怖につながるかというと、必然的にパイが減るからである。100あるものの99を独占していた白人が、黒人が広く教育を受けることによって同じような学力になり、大学進学や企業への就職、起業において平等になる事で、当時の人口比である例えば12%は黒人の物となるとすると、99が88とか87に減るわけであり、これが恐怖を呼び込むのである。もちろん、経済は年々大きくなり100が110にも120にもなるから、白人が得られる絶対量は99から増加するはずであるという反論がありそうだが、そういう絶対値ではなく、ここでは相対値が問題であり、自分たちの相対的な既得権益が棄損される、これが恐怖なのである。

これはどこの差別に適応しても比較的すんなりと受け入れられる理論だと思われる。例えば、日本国内に在日韓国人、在日朝鮮人の人に対する差別があるとされるが、これも比較的所得が低い水準である在日社会の人たちが、権利を拡大していくことにより、自分たちの既得権益が棄損されることが怖いのである。ここでいう権利というのは相対的なものであり、絶対的な基準では非常に低い水準の権利であっても、例えば、差別側が100の権利を持っており、被差別側が10の権利であり、これが15になるというだけでも抵抗を示したくなる。絶対値が低くても相対的に上がることが、恐怖を生む。恐怖というのはそれほどに計測するのが難しく、ひとたび燃え上がると小さなことでも大きくなる。こうやって制御が難しくなり、結果差別につながっていく。差別の構造というのは、結局は差別側の恐怖に支えられている。そして、既得権益が棄損される場合に発動されるので、差別というのはどこまで行ってもなくならない。これは富が存在する限り、避けることはできないであろう。

都市間移動とラストワンマイル

ESGやSDGs、環境を意識した企業活動が重要視されるようになってきて、特に脱炭素の潮流というのはもはや激流と言えるくらい、大きな注目を集めている。各国が2030年、2040年の二酸化炭素排出量の目標値を発表する中で、EVやFCVが注目を集めるようになっている。

これは既に15年位前から論点になっているが、その中でEVが最適だ、FCVのほうが良いのでは、いやハイブリッドに勝るものはない、いやいや意外とガソリンエンジンが残る、さまざまな主張がある。これはそれぞれ議論している人々の立ち位置で正解が変わることの典型例であろう。

例えば筆者が住んでいた米国における自動車の位置づけと、日本の自動車の位置づけは必ずしも同じではない。以前も書いたが、米国の方が生活の足という位置づけは強いのではないかと思う。ヘンリフォードが大量生産を始めた国だけあって、自動車と生活の一体感は日本に比べると強い。もちろん、NYやLAのダウンタウンに住んでいる層は日本でいうと東京や大阪の大都市と同じで、通勤に自動車を使わない人々も一定数はいるが、割合として車依存が強い。しかも日常の足としてである。ちょっと郊外に行くと一家に最低二台は車があり、子供が大きいと3台、4台となる。これらの人々にとって、ガソリンスタンドというのは日本でいうコンビニと一体であり、これはもはや生活に欠かせないインフラの一部になっている。

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米国では文字通りコンビニがガソリンと一体で経営されているケースが特に郊外では圧倒的に多く、ガソリンスタンドに立ち寄ってコンビニに行くか、コンビニに立ち寄ってガソリンスタンドに行くか、両方のケースがあるが、ここの結びつきが非常に強い。これが何を示しているかというと、エネルギー補充、このケースだとガソリンということになるが、これに対する利便性を究極的なまでに要求するのである。

ここに従来EVの普及が進まなかった理由があるように思う。グリッドの不安定さもあるし、何よりコンビニに行く頻度が少なくなるというか、EVにしたとしてもコンビニに行くわけで、コンビニで買い物している間の時間に給油していた時と比べて、EVの充電が非常に煩わしくなるのである。それくらい、米国人にとってガソリンスタンドは生活に欠かせないインフラなのである。

そう考えてみるとよっぽどインフラ整備が進まないとアメリカ人のマインドはEVやFCVに向かいそうもない。よっぽどの補助金なので実質負担が少なくならないと、購入に向かうインセンティブにはならないだろう。

そうなってくると、家庭への普及ではなく、商用利用が重要になってくる。ここでようやくラストワンマイルになるのであるが、これは小回りが利くEVの出番になるし、例えば貨物の配送であれば、配送とともに、貨物の積み込みの時間と集荷ステーションという地理的な制約があり、これがEVの充電に有利となる。ガソリンスタンドとコンビニの関係と一緒であり、余っている時間を特定の場所で過ごす場合、そこで充電することができれば、便利と判断できるのである。

一方、FCVの場合、水素ステーションが必要になる。これのインフラ整備はもう少しお金がかかる。ラストワンマイル拠点に細かく整備するにはかなりの時間がかかってしまう。こちらはどちらかというと都市間移動や、長距離移動が中心となるだろう。例えば港に水素ステーションを作ったりして、そこからの物流で500KM離れた場所に貨物を運ぶ際、そういったところでFCVは活躍しやすい。EVは航続距離の問題があり、FCVが港で水素充填ができれば有利になるだろう。しかしながら、電気料金は再生可能エネルギーを使う前から競争が繰り広げられて比較的安い価格になっているが、水素はこれから価格が下がるものであり、現時点では非常に高い。太陽光発電や、風力発電、またLIBにしてもそうであったが、徐々に需要が拡大していき、徐々に価格が下がるというプロセスが必要になる。水素を含むそれらの価格は、流通量との逆相関になるからである。いきなり劇的に価格が下がることは考えづらく、例えばLIBの原単位当たりの価格が徐々に下がっていったように、これから10年とかをかけてようやく実用ができるレベルに落ち着いていくのだろうと思う。

LIBのケースで言っても、例えば10年前は価格が一定程度下がらないとEVの普及に繋がらないという論調が多くあった。これはかなり正確な予想であったのだが、今LIBが下がった世の中で暮らしている人々は、今のLIBの価格が常識的な価格と思っており、現在のEVブームはLIBの価格の低減で達成されている面が多分にあるのだが、その点はあまり強調されない。ボトルネックの要素技術というのは、乗り越えてしまうと、忘れられがちなのかもしれない。これはなかなか面白い視点なのではないかと思う。

不安をあおる構造

お金を稼ぐには不安をあおるのが鉄則である。古くからある典型的な手法は保険であり、「こんなことがあったら困りますよね?」という手法で保険会社はお金を稼ぐ。もちろん、例えば船旅で事故に遭った時に保険があると保証されるのでお金の出し手にとっても悪い話ではないのであるが、膨大な統計によって保険会社が損をしないように設計されており、既に互助会社という存在ではなく、不安を煽ってお金を稼ぐ会社になっているのが、保険会社であろう。

不動産投資、昨今の投資信託と株ブーム、これらも不安を煽って、市場を膨らませている構図に見える。不動産でいうと、低金利、税制優遇があるうちに購入しないと損をしますよ、将来インフレが起きたら損をしますよ、こういう不安を煽るうたい文句で売り込みを図る。そこには論理性や、統計に基づいた実証性がない、空虚な言葉遊びで不安を煽る構造が透けて見えている。

低金利なのはインフレーションをしていないからであり、不動産価格が将来にわたって上昇しないことを予見して金利が上がらないのである。これは見えざる手ではないが、水が高いところから低いところに流れるような自然の摂理であり、世の中これだけ投資手法や資産運用方法が多様化している中で、今だけ、ここだけ、そういった旨い話はないわけであり、自分に必要だったら買えばいいし、必要でなければ焦る必要はない。非常に単純な話である。

麻生財務大臣というか財務省が発表したレポートで老後は2000万円が必要だ、というのがあった。これに2000万円を持たない老後になりかけ世代は、感情的になって批判を始めて、「いきなり2000万円と言われても」と怒り出した。マスコミの中心になっているのはその世代なので、マスコミでも批判の嵐であったが、目安として財務省は言っただけであり、ダメならダメでそれは個々人の家庭の問題であり、財務省に怒っても何の意味もない。この時のマスコミによるダメ出しは目に余るものがあったが、マスコミが醜態をさらしたというべきか。

いづれにせよ、この財務省レポートはその後時間が経って、現在の株式市場に好影響を与えていると思う。なんにせよ投資信託、株式投資を行う人が増えた。特に若い世代で顕著であり、株式投資ブームと言えるような状況が到来した。これは財務省の思惑通りであろう。蚊帳の外にはじき出された50-70歳くらいの世代は、今何を思うのであろうか。

勿論、こうやって不安に煽られて作られたブームというのはバブル的な要素をはらんでおり、短期的には失敗する人も多く出てくるのだろう。しかしながら、不安を煽ったことで若い世代が投資に向かうことには財務省は一役買っていることになる。

株式市場というのはピンからキリまで市場参加者がいる。その中で、プロと呼べる人がいて、そうでない人がいる。これはパチプロとかプロ雀士にも言えることだが、プロの知識、プロの技術というのは、素人と比べて恐るべき違いがある。このことが悲劇を呼び起こすのであるが、まずは素人からお金を呼び込むことができたので、株式市場的には財務省の不安煽り作戦は成功であろう。