過度な平等

コロナウイルスのワクチン接種が徐々に日本でも開始されているが、報道等によると高齢者接種の受付予約がネットとLineだけであり、朝日新聞系なんかは大々的に批判しているようだが、平等ではないというのが根拠のようだ。

ネットやLineを使えない人はどうするんだ、という論調のようだが、では他にどういう手段があるんだ、と聞きたい。電話で対応するのか、そんなことやってたら、接種までの時間がますます時間がかかるだろう。代替手段がないので、若干の不平等は受け入れて、まずはスピード重視でやろう、これが現実的な判断である。

この場合、スピードと平等、どちらも重要な価値観であるが、これの優先順位を天秤にかけてスピードを取るわけであるが、現在のコロナウイルス感染状況を考えるとスピードを重視するのは当然の選択であろう。

政策決定というのは、国のような機関であっても、民間企業の戦略や意思決定においても、善か悪のように二択ではなく、結局いくつかのファクターがあり、どれも重要で良いとこどりをしたいが、二兎を追う者は一兎をも得ずではないが、優先順位を付けざるを得ず、優先順位を決めることが政策決定になっていく。

優先順位という考え方が重要であり、スピードも重要だけど平等も重要、どちらも満たされるまでそこを動かない、これが非現実的な、非建設的な議論であり、とくに野党やバブル世代に目立つ。現実的な解を求めず、理想論ですべてがパーフェクトな状態を目指すので、些末な批判が多く、建設的な議論が進まない。

特に国の政策決定という場においては、平等、反戦、人命、これをもって議論を止めてしまう向きが多いように感じる。これらは三種の神器ではないが、超越した絶対的な価値観として捉えられがちで、例えば軍備増強の議論も、「反戦」の一言で議論が止まる。反戦でない人は暴力的で粗野なレッテルを張られかねない。

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コロナウイルスとの戦いにおいても、オリンピックと人命のどちらを取るのか、そんな非常に低俗な議論に、これはマスコミが誘導している。それに乗っかっている人がいることが不思議でならないが、人命も大事だし、オリンピックも大事である。コロナで亡くなっている人がいるのにオリンピックをやるのか、ということをいう人がいて、なんかそれらしい勇ましい言葉に聞こえるが、オリンピックをやることで死者が増えるのか、増えるのであればどれほど増えるのか、全く科学的な声は聞こえてこない。もちろん、海外からの入国者が増えるので、級数的に感染が増えるという予測めいたことを発表している人もいるが、こんなことは昨年の感染者予測でさんざん煽っていたマスコミが一番、信頼性がないことに気付いているはずである。

人命は大事だけど、オリンピックもやる。もし感染が拡大する兆候があれば、延期、中止をしかるべき時に判断すればいいし、開催後に感染者数が高止まりすれば、緊急事態宣言を出せばいい。そこの因果関係が曖昧なままで、人々の不満のはけ口として、政府やオリンピックを使う一部の人たちの行動は、見てて非常にがっかりする。

平等についても、世の中は決して平等ではない。これは生物の宿命であり、だからこそ進化が行われてきて、今の形状に至っているわけであり、生まれながらにして平等、ということはあり得ない。もちろん、それを是正しなければならないので、憲法に生まれながらに平等であるべき、とういことが歌われているのであり、平等になるように政策で誘導するべき部分はあるが、全てが平等になる事はあり得ないし、過度な平等を追求した結果が、共産主義であり、ソ連という実験国家の失敗であるとも言える。皆が平等なユートピア的な社会は成長を阻害する。スピードと革新が生まれないからである。特に革新は不平等であったり、劣等感があったり、凸凹があるからこそ生まれるわけで、民主社会主義的と言われる日本の文化では過度に平等を求めすぎるから、本質的な革新が生まれないのかもしれない。筆者は一部上場企業で勤務しているが、社内でも異常に平等を重視する傾向は強い。例えば、評価の基準と可に公平性を求めるのは分かるが、文化として平等を重視してしまう。それが年功序列的にもなるし、革新や変革、スピード感を失わせているのだろう。

流行とエッジ

昔のミュージックビデオなんかを見ると、よくこんな格好で歌っているな、とか、よくこんなシチュエーションで撮影しているなとか、言う場面がみられる。映画の場面なんかでも見られることであるが、例えば80年代のミュージックビデオを見て、このバブルのころはこれが流行ってたんだろうな、と言って納得する。

こういった創作活動、エンターテインメント、そのような分野において、流行の一歩先を行ってること、先端を走っていることというのは重要であり、それがその瞬間の興味を引き付けることに繋がる。時代の先端を走っている人は魅力的に映るのは間違いない。

ただ、これが普遍的ではないというのは認識しておくべきだ。エッジにいる人間というのは、その時代の平均というか、真ん中からずらしていることが重要であり、ずれているということは振れ幅が大きいことであり、時代が進んで、エッジの人を追い越したときには、時代遅れ感がその分大きくなる。

ファッションの流行というのはこれの繰り返しだといわれる。若者がその時代の平凡、平均と言われる流れから、少しずれたことをやりだして、特に若者の間でずれたことをする事をかっこいいと思い出す。これがエッジを走っている人となり流行となりブームになる。流行となるとこれが今度は徐々にその時代の平均になってくるので、そこからさらにずれた事を生み出すファッションリーダーが活躍しだす。これの繰り返しで、一つの循環を繰り返すものだというのが、ファッションなのだと思う。

例えば、シルエット一つとっても、シャープなシルエットが最先端な時が来て、緩やかなシルエットが最先端な時が来る。それぞれがその時代の平均からちょっとずつづらして、今年はこうやって他人と差別化することがおしゃれ、というトレンドを作りながら、エッジの人、ファッションに敏感な人、一般の人、おしゃれではない人、という順番にそのトレンドが反映されていく。結果、循環していくのである。

筆者は流行に敏感な方ではないかもしれないが、こういう事を思ったのは、これはファッションだけに言えることではないからで、今の時代でいうと投資ブームもこういった循環の一つなのかとも思うからである。これは議論があるし、投資ブームはもしかしたら不可逆的なもので、すそ野がどんどん広がっていった家電製品のように、ただただブームのすそ野が広がるものかもしれない。しかしながら、80年代のバブルのころも上場株ブームというのは少なからずあって、筆者の印象だとバブルが崩壊するいよいよ直前のころに、ほんと素人のおじさん、おばさんが、「こんなに上がる相場に乗らない手はない」と言って参入しだしていた印象だ。

日経平均株価が2倍、3倍に上がっていくのを見てると、誰でも自分も大儲けできると思うわけで、素人とよばれる平均的な人々が参加してくる。しかしながら素人でブームに乗ってるだけなので、ただただ上がってる株や不動産を買うということに繋がる。しかしながら人数規模が大きく一つのトレンドを作ってしまい、まさにバブルを生み出すのである。これら素人は投資余地も限られており、いったん下落しだすと、損切、利益確定売り、これらで相場から逃げ出そうとする、それがさらに売りを呼び、バブルは崩壊するわけで、90年以降はそれらの人が投資に帰ってこなかった、という見方もできる。マスの人々が投資ブームに乗り出した時こそ危ういと思うのはそういう理由であり、現在のブームもこれに近いものがあるのかもしれない。金融緩和による相場形成はこれは理屈と株価上昇が一致しているのでどちらかというとインフレ気味の実態に即した株価上昇とみるが、ブームによるかさ上げはバブルを生み出して、崩壊する危険性をはらんでいるとみる。

日本国憲法の偽善

国民投票法改正法が衆議院を通過したというニュースがあった。感染症予防の対策を打ちやすくするためにという論点から議論が進んだ結果のわけであるが、漸くという実感である。この国の憲法は戦後制定されてから70年以上も改正されていない。

70年以上も憲法を改正していない国はかなり貴重であるという報道を見たことがあるが、そもそもこの国の憲法に関する議論が止まっているのは9条の存在のせいであることは間違いないだろう。

反戦をうたう憲法9条について、議論は様々あるが、世の中に憲法9条原理主義というか、これさえあれば大丈夫と思い込んでいる存在があり、これさえあれば大丈夫で、これがなければかなりダメ、そういう考え方になってしまっている存在である。憲法9条が改正されると日本は先の大戦のように戦争に突き進んでしまう、そういう考え方を持つ勢力がいる。

戦争をしないと宣言することで、本当に戦争を避けられるのであろうか。これはよくある議論であるが、そんなわけはないだろう。例えば善良な市民が、うちは財産はありますが、防犯はしません、家に侵入してきても抵抗はしませんと言うとしても、そんな家にはすぐに泥棒がやってくる。問題は受け入れるというか被害を受ける方の意識ではないのである。

私は犯罪を犯しません、泥棒も詐欺も暴力もしません。これは結構なことであるが、そうすることで犯罪に合わなくなるかどうか、これは別議論であることはまともな市民であれば理解ができると思う。犯罪に合わなくする、被害を小さくするためには防犯が大事であるし、場合によっては自身の鍛錬も必要で、正当防衛であれば、かなりの抵抗ができることを示している必要がある。

勿論侵略的に戦争をすることについての是非はあるし、それについては国連という国際的な枠組みがいまのところは是非を問うことになっている。国連に反対されるような侵略的な戦争を起こすことは、一応、現在の世の中では犯罪的というか、間違った行為として認定されるわけで、これはやらない。

しかしながら、貧すれば鈍するではないが、国家間の戦争も結局は富の奪い合いであり、景気が悪くなれば犯罪が増えるように、景気が悪くなれば戦争を仕掛けざるを得なくなる国も出てくるわけであり、それに対して防犯体制は整えるべき、これは当たり前の議論である。

自分たちが犯罪を起こさないと宣言することと、自国が犯罪を受ける可能性については、全く別の議論であり、平和憲法と呼ばれる憲法9条さえあれば、戦争には至らないと考えるのは議論のすり替えというか、かなり偽善的なものの考え方だと思う。戦前の軍部の暴走とか、戦争被害者の立場とか、議論をすり替える人たちがいるようだが、それはそれで反省すべきであるが、憲法としての9条の存在は改正されるべきである、というのが筆者の持論で、それとこれとは別であり、9条の改正による軍隊の整備というのは、国の防犯体制を整えましょう、そういう事を議論したいということなのである。