一神教と多神教

一神教と多神教

ローマカトリック教会というかヴァチカン市国には、全世界のキリスト教徒の頂点に立つ教皇という存在があり、コンクラーベと呼ばれる枢機卿による選挙によって選出されていると聞く。世界にキリスト教徒が何人いるのか分からないが、何億人といる中の頂点を小数人による選挙で決めているのである。もちろん、仏教にも偉いお坊さんなるものはいるが、このカトリックの教皇という存在、権力というのは独特な仕組みであると言えるだろう。そもそもその宗教が出来た時からの癖のようなものかもしれないが、キリスト教はヒエラルキーを築きたがる傾向があるのではないか、というのが筆者の印象であり、一般市民には等しく隣人を愛せよ、という割には権力者とそれ以外という構図が明確な方ではないか。

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だからという訳ではないが、これはよく言われる事ではあるが、一神教は硬直的で、多神教はもう少し大らかというか柔軟性がある様に思われる。多神教というのは、前歴史時代の人類が持っていた自然崇拝的なところから来ており、万物に宿る神様に感謝、畏敬の念を持ちなさいというのがどちらかというと考え方で、絶対的な神を持たず、自然全般に生かされている事を感謝しつつ、例えば豊作を祈ろうという、日本の神道的な考え方がある。

それに革命を与えたのが一神教と呼ばれる世界で、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、それぞれ派生形がたくさんあるものの、どれも基本的には一般的には一神教と言われる。一神教の何が革命的かというと、まず熱狂的な信者を作りやすい事がある。一人の神が全てを見ているとなると、その神にのみ祈りをささげればいいし、例えば奇跡と呼ばれる事柄が起きても、その一人の神が起こしたことだといえば、分かりやすいのである。

実在の人物にしてしまえば、イメージもしやすいし、何より分かりやすく、布教活動において効力を発揮したと言えるのだろう。そこから派生した影響として、領土的に侵略した時に布教活動がやりやすいという利点があるのだろう。特に歴史においてみられるのは、キリスト教とイスラム教の国々が戦争で領土を拡張して、その土地の宗教も染めていくという歴史である。もちろん、意に反して改宗していった人も多くいるとは思うが、侵略した土地を自分の宗教で染めていく。これも一つの信仰対象に限定されるからこそできる技であり、侵略にも適していると言える。

そもそも侵略に適した宗教だからこそ世界中に布教する事が出来たという側面もあるわけで、日本にも戦国時代に宣教師が来日しているが、一部の藩では熱狂的な信者を生み出し、その後の鎖国につながったというのが定説ではある。徳川家もこのキリスト教という宗教の先進性というか、強力な浸透性に危機感を抱いたのだろう。それほど一神教というものは、とくに困窮している人間や、悩みを抱えている人間には容易に浸透しやすいと言えるだろう。

一方で、その権力はピラミッド構造となっており、頂点のヴァチカンには絶大な権力と、資金が集中する。それが大航海時代を切り開くことになり、ますます全世界的な布教につながったのだが、一方で、その世界から一歩距離を開けようとしたのが、マルティンルターによる宗教改革であり、ヴァチカンに反発するという意味でプロテスタントと呼ばれるようになったのである。プロテスタントも勿論キリスト教ではあるが、免罪符による利益に溺れたりした、当時堕落に走っていたカトリックと距離を開け、真面目に素朴に生きましょう、これがプロテスタントを生んだと言っても良いのかもしれない。その延長線上に産業革命が起き、資本主義、資本家というのが宗教家に変わって、世の中の中心になって行ったというのが、資本主義の19,20世紀なのかもしれない。

しかしながら、宗教戦争というものは継続しており、中東を中心としてイスラム教内部抗争、イスラムとキリストの対決、これらは20世紀にも大いにみられていた。一神教信者は、自分の神以外を信ずるものの事が恐らく理解しづらいのだろうと思う。

ただ21世紀になり、情報革命というか、人間が日々入手できる情報の量が飛躍的に増加して、今までの人類が体験したことが無い量の情報量に溺れる時代がやってきた。宗教改革が活版印刷技術の登場で達成されたように、情報量が飛躍的に増える時代には新たな権力であったり、宗教であったりが進化するチャンスではある。情報が増えて色々な化学情報にも触れられるような世の中になると、例えば、イスラム教徒は、何故豚肉を食べないのだろうと、自問した場合に、容易に過去の経緯や、宗教的に禁止されるようになった背景を検索して知る事が出来るようになるかもしれない。

キリスト教徒であっても、例えば地動説なんて有名な理論も勿論だが、宗教による非科学的な教えに対して、子供のころから自分で調べて、反証する事が出来るようになってしまう。科学の急速な進歩もあるが、それ以上に情報量の増大、アクセスのしやすさにより、宗教対科学という論争においては、科学が優位になってくるだろう。熱心な信者というのは薄まってくるのかもしれない。

ただ、科学の倫理というのをどうやって保つのかという問いに対して、宗教以外の物が答えを与えてくれないのも事実であり、科学が発展すればするほど宗教的な支えが必要なのも事実であり、このジレンマの中で、今後30,50年では、恐らく科学に対する倫理を与えるという宗教が勃興していくのではないだろうか。それは一人の神を想定するものではなく、人類の道徳、倫理を規定するものとなるだろうが、どのように一般市民の理解を得るのか、これはかなり難しい問題となるのだろう。思考がぐるぐる回ってしまうが、そういう意味でも、一神教の分かりやすさというのは強烈であり、それこそが、世界中に伝播させることができた理由なのだろう、と思うに至るのである。