2020年12月17日の日記より
一般常識とは
一般常識という言葉があり、会話の中でも常識というのはある程度の人数の割合で共通認識であるような感覚がある。人は何かと他人も自分と同じ常識を持っており、自分と同じ知識を持っており、同じ価値観を持っているはずであろう、と期待しているところがある。
昨日電車に乗っていたら、あきらかにおかしな人が乗ってきた。マスクはしているのかしてないのか微妙な状況というか外したり付けたりしていて、あからさまに咳払いをしたり、嗚咽をもらしたり、これらを何かわざとやっているようであった。周囲の人間がざわめき、座席に座っていた乗客がそそくさと車両から消え、そのおかしな人はそこの座席に座る事が出来ていた。その後も明らかに周りに迷惑を掛ける事を目的にしているような行動であったので、筆者も一度車両から出て、他の車両に移動する事になった。その時に、「常識のない奴だ。コロナ禍で皆が飛沫が飛ばないように生活しているのに。」と思ったわけだが、一方で、そのおかしな人の常識というのは何なんだろう、価値観は何なんだろう、とも思った次第。
これは橘玲氏の「言ってはいけない」、の議論になってしまうかもしれないのであまり好ましい話ではないが、人間というか民衆というか、日本で言えば国民というものの知識、知能のレベルは我々が実感したり、想像したりしているよりもはるかに多様であると言えると思う。
多様というのは格差が激しいという意味であり、非常に知能の高い人と、特別支援学級に行くようなレベルのグレーゾーンの人々がおり、恐らくは自分は平均的な人間だと思いつつも、そういう層に所属している人すら多数いるのだと思う。これが世論形成の難しさであり、マスコミではとかく国民は一枚岩的なうえで、多様な価値観を持っているようにふるまいたがるが、右側の隣人と左側に住む隣人では例えばコロナ対策に関する考え方も180度違うケースが往々にしてあるのである。
これが現代のSNS社会によって、全ての意見が取り上げられるようになってしまい、世論とか多数意見が何なのかが複雑になり過ぎてしまっている。例えば、炎上した企業に対する抗議の電話が数十件あっただけで、朝の情報番組と言われる怪しいテレビ番組で報道される。それをリテラシーの低い人たちが視聴して、拡散に協力していく事になり、いつしか大事になる。その数十件の抗議電話はもしかしたら、電車の中でマスクを外してわざと咳払いをするような人たちによるものかもしれないのにもかかわらずである。
左派メディアでよく「一般市民」という報道の仕方をするらしいが、非常に極端なデモを少人数で開催した時も「一般市民」という言葉を使いたがるらしい。この辺りに左派の姑息なやり口が表れていると思っていたが、要は報道全体がそうなりつつあり、国民という対象を画一的に捉えることを前提としているので、数十件の抗議電話があっても、他の国民も同様に不満を抱えているはずであり、見逃せない動きである、そういう発想になるというか、そういう前提で報道をしていると、面白おかしい事象が増えるので、視聴率のアップにつながる事にもなり、報道として収益が上がる構造になっているのだろう。
しかしながら、繰り返しになるが国民の知能には大きな振れ幅があり、画一的では決してない。価値観も千差万別であり、それを多数派が牛耳っていくというのが民主主義社会である。この価値観が千差万別であると言う事を改めて認識する必要があるのと、それを認識してないと、「みな同じ価値観のはずなのに、なぜこの人は分かってくれないのだろう」というストレスが不必要に増えて行ってしまう。
現在のようなコロナの感染が収束しない状況において、国民のストレスは溜まって行っているように思うが、みな自分の価値観があり、その価値観ベースで「みな同じ価値観のはずなのに、なぜ分からない人が多いのだろう」、こういうストレスが激しい意見に繋がっているように見える。Go to トラベルにしても、一方では「収束していない時期に始めたこと自体が理解できない」、一方は「このまま旅行業界は死んでしまうので、天の恵みであった」、こういう180度違う意見が出てくるが、それは立場が違えばそうなるのは当たり前であり、双方の意見を尊重しなければならない。なのに断定的な論調で、誰があってる、誰が間違っている、この議論が永遠と続いているようで、不毛にしか感じない。
これが鎖国が250年続いた島国根性なのだろうか。それとも全世界的に、例えばアメリカでは分断が進んでいるが、世界的な傾向なのだろうか。SNSの発達は人間をむしろ内向きにしてしまったのかもしれない。自分の意見が以前に比べて相対的に力を持っている気になってしまい、自己の肯定を増長する事になり、内向きな発想が増えているのかもしれない。