国家という組織、また国という存在において、重要な役割は国民の生命を守り、安心して暮らせる状況を維持するというものであることは、近代国家にとって常識と言っても過言ではない。安全保障という言葉がよく報道されるように、これは国家にとって最重要な問題であり、一番優先順位が高い事である。その前提に立ち、どの国でも国家予算の数%とかを軍事費用に使い、軍備を整備するというのは当たり前のことである。日本はGDPが500兆円、国家予算が100兆円で、軍事費用がだいたい5兆円。家計で言うと500万円の収入があり、100万円が税金で取られて、そのうち5万円くらいが警備費用に使われているという感じで、500万円の収入世帯で月々4000円の支払いと言う事で、水道代みたいなものの感覚である。この金額の多寡については評価が難しいが、国民の安全を守る費用という意味では妥当ではないかと思うし、筆者はもう少し払っても良いのではないかと思うくらいであり、そちらの論点についてはもっと書きたいことがあるが、それよりも軍部の暴走という点について、書いてみたい。
日本は江戸幕府の鎖国体制から、幕末にかけて尊王攘夷運動があり、最終的には天皇を中心とした国家で開国を行い、富国強兵を目指すとなったわけだが、やはり明治以降もどこか攘夷的な雰囲気が残り、特に軍人になるような思想の人々にはその雰囲気が強かったのでないだろうか。
大正時代の5.15事件ではないが、軍部は暴走をし始める。自分たちの信念の客観的な正当性の吟味が不十分であっても、自分たちの意に従わない政治家や民間人には武力で従わせようという圧力を強めるのである。日本という国体を護持するためとか、貧富の激しい状況を打破するためとか、聞こえはいいのだが理想論的な思想が先立ってしまう時でさえ、議論を十分に経ずに、精神論で純粋に正論へ傾いてしまう、そういうきらいがある。特に軍というのはヒエラルキーが明確な組織であり、それが武力につながる特異な組織であるが、上位者の思想に従う事が正となりやすい組織でもあり、多面的なものの解釈とか、考え方そのものの多様性が失われやすい。
そういった組織が武力を持ってしまっているわけであり、武力というのは状況によっては暴力になるわけで、最強の暴力組織がそこに存在する事になるわけである。思想が正しい方向に行っている場合は、その武力は外国勢に対する抑止力として機能するわけだが、思想が間違ってしまうと国内での暴力組織にすら変容してしまう。物理的な力を持っているからこそ危険な存在であり、さらに軍隊という統制を取るヒエラルキー型組織の属性上、さらに暴走をしやすいというのは世界共通の課題である。日本の大戦前は、明治維新から、大正デモクラシー、5.15事件を経て、日清、日露戦争、全体主義的な翼賛政治に繋がっていく。全体主義というのがまさに軍隊的な思想ではないかと思われ、一切異論を許さない空気感を醸成していくのだが、これは明治政府が作られた時の急激な方向転換の歪だったのだろう、というのが筆者の見解である。
世界的に見ても軍事クーデターというのは良くある話であり、軍部が独自の思想や独自の政権構想を持ち出すと、その暴走を止める存在が無くなってしまうというジレンマを抱えてしまう。だからこそ民主国家ではシビリアンコントロールを重要視するのであるが、そこには二重,三重の安全弁を掛けておかないと、コントロールが難しいのであろう。例えば、自衛隊にしたって自分たちの立場が不明確であること、報酬が適切でない事、これらを上層部が意思を結集して立ち上がる決意をした場合、物理的に日本国内で誰かが立ち向かう事が出来るのであろうか。武器兵器を動かす権限を持つ人たちに対して、我々一般国民は無力になってしまうだろうと思われる。