公と私

公と私

人間誰しも自由を求める願望はあると思う。社会において自由を求める、というのは公共における私の追求に繋がるところがあり、権利と責任の関係のようなものだ。例えば混雑する電車の中で快適に過ごす権利は誰にもあるが、他人に迷惑をかけない責任があり、それがモラルというものに繋がる。私と公はバランスがとれている必要があり、どちらかに偏り過ぎると、社会が上手く回らないのだろう。電車で言うと、私を強調しすぎる人がたまにおり、自分はここに立つ権利がある、自分は新聞を読む権利がある、そういった権利ばかりを強調する向きに遭遇する。

これは統治体制にも言える事であり、例えば中国の統治体制はかなり私の権利を制限して、公を優先する社会に見える。言い換えると国があって個人があるという順序であり、国の利益を最大化するような統治体制になっている。自由社会と言われる国々である日本や米国ではそのような私を制限するような社会システムは受け入れられないが、中国共産党政権は上手く統治が出来ているという事なのだろう。

感染症の日本史 (文春新書)

コロナ対応に代表されるような、今のような危機の時は、統制できるシステムを持つ中国のような公を優先する国が強いのだろうと、思う次第である。例えば、国営企業による民間企業の買収、公的資金の効率的な投入、補助金などにしても私企業に対して平等に運用しなければいけないという意識が低いので、自由度が高く、効率的な運用が可能となる。コロナウイルスの封じ込めと、その後の経済復興において中国がダントツのスピードを見せたのはそういった統治システムが要因となっている。

このバランスというのは非常に難しいもので、例えば時期によっても違うと思われる。今回のような景気収縮局面と、市場が楽観的な局面でも大きく違う。楽観的な局面では私を優先する社会が受け入れられる。当然のことながら、個人が余裕があるから自由な活動を要求するのである。一方で、景気後退局面では、セーフティーネットであったり、補助金の存在が重要であり公的な力が重要性を増すのである。

今後2-3年は、国間の移動の停滞は解消されないだろうから、観光、運送、宿泊、ひいては貿易に至るまで、国際社会は需要の喪失を体験しなければならない。これは動かしようのない事実となるだろう。翻って、自由主義的な思想が力を強めていったのは、第二次大戦後の世界が豊かになって行った時期であり、これはある意味では当然の結果だったのかもしれない。1960年代からの経済拡大期においては自由主義的な思想が優位性を高めていった結果、東西冷戦で西側が勝利する結果になったが、例えば長期的な歴史という観点で、この2020年が世界経済拡大の終焉というか停滞の時期に入ったのであれば、今後は全体主義的なものや共産主義的なものが、世界の主流とまではいわないが、勢いを盛り返す時代になって行ってしまうのかもしれない。自由を謳歌するというよりは、苦境に陥る経済をみんなで苦しみながら支える、そんな悲観的なシナリオも描けてしまうだろう。