オスマントルコ

オスマントルコと聞くと歴史の授業で聞いたことがあるくらいの方もいるかもしれないが、20世紀まで600年ほど続いていた大帝国であり、現在のトルコ辺りを中心に東はイラン、西は地中海沿岸部をバルカン半島やチュニジア方面、北はウィーンの手前まで支配下に入れた国である。ちなみに、英語ではOttomanと呼ばれており、ソファーの前の足置きの語源でもある。オットマンとはオスマントルコ風のスツールという意味である。

チンギスハンのモンゴル帝国と同様に騎馬民族というか遊牧民が主体であり、先頭に優れていたというのが一義的には勢力拡大のキーであったと考えられるが、その統治の方法が独特であったので、印象深い。

一番驚きを得て、かつ現実的なルールだと思ったのが、スルタンと呼ばれる統治者、皇帝と呼んでもよいが、これが世襲されていくのだが、世襲は現在の王が死んだら、まず息子たちはできるだけ早く首都に戻る必要がある。そこでの争いがあり、早く帰った息子が後継者争いで優位な立場に立つ。必ずしも一番早く帰った息子が後継できるわけではないらしいが、まず早い帰省が求められる。その上で次の王が選ばれるのだが、選ばれた王の男兄弟は基本的には全員殺される。これは謀略で陰で毒殺されるとかではなく、国のルールとして当たり前に殺されるのである。

初期のころは、目を潰すというものだったようである。目を潰してしまえば、スルタンとしてふさわしくないので、殺してしまうのと同様の効果があったようだが、それからエスカレートというか、より予防的に殺すようになったようである。これはどんなに幼くても適応されるルールである。

オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史 (中公新書)

後継者争いというのは、国にとって余分な体力を使うことになるし、歴史を見てみると国家の分裂につながるのは、なんらかの後継者争いなり、権力争いが絡むわけである。そこには人間の欲望が源泉となった争いがあるわけで、まさに骨肉の争いとなり、これは人間の本能から言っても避けようがない。二人の歳が近い兄弟がおり、弟が兄より優れていると信じているが後継者になれなかった、こういう状態は王位継承の争いだけではなく、どこの社会にも発生するジレンマであろう。会社の跡継ぎ、もっと細かい社会でいうと、会社の出世争い、スポーツのレギュラー争い、そんなところでも、選出されると本人が信じていて、選出されない場合は恨みを呼ぶわけであり、選出される可能性が高ければ高いほど、選出されなかった時の恨みは大きくなるのだろう。

そこで選出されなかった人間を殺してしまう。非常に合理的なシステムではある。後継者争いが起きないほど仲が良いとしても、1%でも可能性があれば、潰してしまう、有無を言わせないルールである。

後継ぎというのは世襲が良いのか、実力主義が良いのか、色々議論があるが、恨みを無くして次の政治を行いやすくするという状態にするには、これくらい厳格なルールがあったほうが、スムーズに代替わりができるのかもしれない。実力主義なんかでやると摩擦が大きくなる可能性がある。現代社会では第二子以降を殺したり、目を潰したりということはないので、せめて後継者争いを避けようという意味で世襲、それも長子が継ぐ、というのをルール化してしまっている、そういうケースが世の中にも残っているのかもしれない。実力主義が善で、世襲は悪みたいな風潮があり、それは経営者や統治者の能力という観点では正しい側面もあるが、総合的に見て、後々の後継者争いや、恨みによる反作用なんかを考えると、世襲による代替わりも安易な方法ではなく、色々考えられてそこに至っているんだろうな、と思うに至るわけである。

民主主義の成立条件

アフガニスタンが再びタリバンによって掌握されたというニュースが多く報道されており、一部の市民は撤退する米軍の軍用機にしがみついて脱出を図り、無くなってしまったというニュースが報道されている。空港には無数の市民が集まり、民主主義社会から、以前の宗教的に厳しいどちらかと言えば伝統的な政府に戻る状態から、命を懸けて逃げようとしている。

映像としては衝撃的なものであり、それを見ながら思ったのは自分があの立場であったら同じ行動をしたのだろうか、ということだ。例えば今の知識、経験、判断力をもってすれば、軍用機にしがみついて逃げようとはしないが、「例えば自分があの立場だったら」という言葉のとらえ方次第、つまり例えば、自分がアフガニスタン人だったら、例えば自分がアフガニスタンの一般的な家庭に生まれた若者だったら、そういう仮定であれば、同じ行動をとっていなかったとは断言できず、同じ行動をとっていた可能性もゼロではないだろうな、と思うに至った次第だ。

そう考えてみると、自分とあの軍用機にしがみついた人々を分けたものは何なのかという思いに至る。一つは逃げようと思う国家体制であるかそうではないか。日本は一応米国に押し付けられたものではあるが、民主主義国家であり、それなりの自由を得られているという違いがある。もう一つは先ほどの「自分があの立場だったら」と考えたときに生まれた違いの根本であると思われる教育水準の違いがあるのかと思う。

自分個人が高い教育を受けたかどうかはさておき、日本国民が受けられる教育の平均レベルは非常に高い。識字率は言うまでもないが、高等教育を受ける割合なんかも高いレベルであり、これは先進国に総じて言えることだろう。民主主義の根幹は、国民が政策決定を行うということである。職業政治家に牛耳られている印象を持つ場合も多いが、結局は選挙の結果で政策決定がなされる仕組みであり、国民が政策決定を行うのが民主主義であるというのは大きな視点から言うと正しいはずである。

政策決定を行うには、知識、経験、思考能力、認知能力、倫理観、それらすべてのものが高いレベルで備わっている必要がある。様々な選択肢、多くの優先順位付け、そういったものから正しい選択が必要であり、それには一定程度の知識が必要となる。また、どうしても物事に優先順位をつける必要があり、政策にも優先順位を付けざるを得ないが、付けた優先順位によっては特定の人間が不当に利益を得やすくなる可能性があり、それの一線を越えないような倫理観も必要になる。これらを律するものは教育であり、国民すべてが一定の教育を受けていないと民主主義は成り立たない、こういうことが言えるのではないだろうか。

米国は占領した土地において民主主義を根付かせて、米国と同じ価値観の国を増やすということを大義名分に混乱地域の占領を行う。第二次大戦後の日本では成功した。同じことを韓国でも行い成功した。近年でいうとイラクやアフガニスタンはどうだろうか。米国内部では日本でうまくいったものが、他でも上手く行くはずなのになんでだろう、という疑問を持つ人もいると聞く。これはひとえに教育レベルの差ではないだろうか。もちろん、文化的に、宗教的に教育インフラを整えていなかったという事は言えるので、根本は文化的な背景の違いともいえるのだが、その中でも教育レベルの違いが民主主義の定着の違いとなって表れてくる可能性はあり、上述のように考察するとどうやら正しいのではないだろうか。

民主主義とは何なのか (文春新書)

アンモニアや水素について

ESGだSDGsだと言われるようになって久しく、各国、各企業においては特に二酸化炭素排出量について対応を迫られるようになってきている。国境炭素税の議論も活発になってきており、近い将来に現実的になるかもしれない。ただ、この流れは「不都合な真実」が公開されたころにもあって、リーマンショックであやふやになった気がするが

いづれにせよ、グリーン水素、グリーンアンモニアを使って、発電しても二酸化炭素を排出しないエネルギー源を確立すべきだ、そんなトレンドができつつある。

もちろん水素やアンモニアは発電しても二酸化炭素を排出しないのは事実であり、水もしくは窒素酸化物がでてくるだけであり、温暖化という議論においてはこの部分は正しい。しかしながら、現在の技術では水素もアンモニアもそれ自体を大量生産しようとすると、コスト的な問題もあり、生産するときには二酸化炭素を排出しないとは言えず、グレー水素とかブルー水素と呼ばれる所以である。

そんな中グリーン水素、グリーンアンモニアと呼ばれる再生可能エネルギーで製造する水素やアンモニアを活用しようという取り組みがあり、これは素晴らしいものだと思うが、現時点ではコストがかかってしまう。

問題はコストなのである。技術によるブレークスルーも期待できるが、現状の問題はコストである。はっきり言えば、コストをかければ大方のことはできるわけで、コストを度外視するのであれば、核融合の発電を世界中に建設して、クリーンで環境負荷のない世界を作ることはできるかもしれない。問題はコストなわけで、特に新興国では石炭を使った火力発電はなくならないわけである。

コストを乗り越えるためには各国の誘導政策に頼るしかないのであるが、石炭、ガソリンエンジン、鉄鋼、これら業界は利権の塊であり、なかなか国の中で調整するのはかなわないというのが現実的であろう。以前から言ってるが、一番問題なのはガソリン供給している会社と、ガソリンエンジン車を作っている車メーカーだと思う。これらがコスト増につながる政策には猛烈に反対姿勢を示す。水素燃料電池車をオリンピックに提供したり、EVの開発を宣伝してグリーンな企業イメージを創出しているが、本質はガソリンエンジンへの規制を強力に反対しているわけである。

この事実はESGというものの危うさを大いに示している。要は印象操作でどうにでもなってしまう世界であるともいえるわけで、今第三者機関による認証をと言っているが、結局大企業にとって都合のいい形になっていき、実質的なSustainableな取り組みではなく、Sustainableっぽい会社がESG債とかで優位に立ってしまうという世界になるのであろう。結局は自分たちに有利にルールを作れる大企業の飯のタネになってしまう、というのが昨今言われているESG債とか、そういったものであり、発信力のない中小の会社はまた取り残されるのであろう。

ESGという聞き心地のいい言葉は、誰も否定ができない。だからこそたちが悪く、印象操作に使われがちである。何を言いたいかというとESG債、ESG投資というのは怪しい言葉であり、実効性を担保するためには、しっかりとした第三者機関の客観的な評価が必要ということである。