決定力不足という怪しい言葉

昨日、日本代表対オリンピックのU-24代表というサッカーの珍しい試合が行われていた。練習試合という位置づけでありながらテレビ中継も行われ、オリンピックに対する注目度が上がっていると感じる。

結果、内容についてどうこう言う話ではなく、それを見ながら決定力不足という従来から日本サッカーの課題と言われている言葉について考えてみた。

サッカーの専門家でもない筆者が感じることではあるが、サッカーにおける点を決めるシュートと、比較的日本人がうまいとされるパスについては、ゴルフでいうとドライバーとパターくらい違うというのが印象だ。シュートというのは多くのケースにおいて、パスよりも、時間的余裕がなく、万全ではない体勢で、強い力をボールに与えなければならない。サッカーゲームのようにボタンを押すだけだと同じメカニズムに考えがちだが、シュートとパスはそれくらい違う。パスがうまければシュートがうまいように感じがちであるが、そうではなく、シュートを上手に行うには、さらに技術や体力が必要であり、決定力不足というのはそこが足りていない、要は技術や体力が足りていない、そういう事になるのだろう。

時間的な余裕はともかく、万全ではない体勢で、強い力をボールに与えるには、筋力が必要になる。特に体幹の筋力の重要性は言うまでもないだろう。そういう意味でも、海外でプレーしている選手はその重要性に気付いているのか、それとも海外のチームがそういう方針なのかわからないが、海外に行くと選手は体が大きくなっているように感じる。これは野球選手にも言えることで、大谷翔平選手にしても筋力の増加が著しく感じる。

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日本国内で筋トレ、パンプアップ重視に何故ならないのだろうか。技術とか文化ではなく、筋力を鍛えることは時間をかければできるはずである。ラグビー選手は相当筋肉をつけている。日本の指導者とか解説者の話をテレビとかで聞く限りでは、野球とサッカーにおいては、筋力と柔軟性、筋力と速筋のキレ、これがバランスしないという声を頻繁に聞く。おそらくこれが色々な部分を阻害してるのだろう。野球にしてもサッカーにしても、世界の潮流は体力勝負であり、筋力無くして成長なし、そんな感じになっている。身体能力の高い黒人選手が各方面で活躍しているのはその表れである。

日本にはびこる筋力は悪という文化がどこからきているのだろうかというのが、今回のポイントなのだが、これは人類進化の歴史とも関係しているのでは、というのが筆者の考えである。人類は数万年前に出アフリカをして、恐らく3万年前くらいには日本列島にも到達したと言われているが、その過程で中東、インド、東南アジア、東アジアと海沿いに進出してきた一団が源流だろうと言われている。これらの移住は数万年かけて行われたわけであるが、この集団は人口密度の高まりを受けて、争いを避けることができる人間が生き残るように淘汰されていったと考えている。

ちょっと論理が飛躍しているようだが、人口密度が高いと些細なことで隣人とのトラブルになりやすい。そこで戦争や暴力に走るのか、和解の道を選ぶのか、という選択肢があるが、和解の道を選べる人間の方がとくに国家や法制度がない時代においては生存率が高かったであろう。その傾向が何になって東アジア人、日本人に残っているのかというと、「大人にならない」という傾向である。精神的には大人になるのだが、外見の印象が東アジア人はどこに行っても子供っぽい。これは今でも言われる話であるが、何故かと紐解くと、一見すると争いを避ける子供のように見えるように適応していった結果ではないだろうか。これは一応学説的にも示されている見解のようで、東アジア人は肉体的に子供らしさを残して成長していく傾向が高い。

これが現代でも傾向として残っており、日本でも韓国でも男性アイドルは子供のような存在が重宝されているように感じる。ガリガリの体を細マッチョと褒め囃すのもそういう歴史があるからかもしれない。細マッチョという言葉ほど意味が分からない言葉はないが、そういうのを見て彼らより年上の女性が喜ぶわけである。そういった未成年のアイドルが男女ともにもてはやされるのは、理想的な「こどもおとな」をそこに見出しているからではないだろうか。

そういう背景があるからかわからないが、攻撃的に見える筋力の増強というのはスポーツ界においてもあまり支持を得られていないのが日本の現状ではないだろうか。特に古い考えをする人に多い感じもするが、それにしても特にサッカーの世界で未だに筋力をつけることが好ましくないと思う専門家がいることには驚きを禁じ得ない。ラグビーを見ても、大谷翔平選手を見ても、筋力は適切に付けることでスピードも殺さないし、一瞬のキレも犠牲にしない。その事を競技を超えて確認して、筋力向上を目指していかないと、サッカーにおいては一番重要であるシュートという場面で差が出てしまうのである。これを決定力不足というなんかよくわからない言葉で納得してしまっているような気がしてならない、そういう気持ちである。

空飛ぶ車

我々が子供のころ、1980年代の話だが、21世紀は遠い未来のように感じられていた。1999年にノストラダムスの大予言で世界がめちゃくちゃになると言われても、どこか現実感はなく、未来の話であった。当時の漫画、映画、これらでも21世紀には電車は空中のパイプのようなものの中を走行して、ビルは雲に浮かぶような高さで、車は勿論空を走っていた。

21世紀も20年以上が経過して、20世紀の記憶は歴史というか過去になりつつある。それくらい21世紀にどっぷりつかっている時期に差し掛かっている。ご多分に漏れず、21世紀も最初の20年間は色々あったが、産業構造の返還点であることは言えるだろう。

まずインターネット上での取引割合が、コロナウイルスの感染拡大もあり、急速に進んだ。Amazonなんかもそうであるが、そういったオンラインで販売する業者の売り上げが急速に増えた。これは不可逆的なトレンドと言えるだろう。特に日本では、オンライン販売というのは需給の問題よりもセキュリティーの問題で敬遠する人が多かったが、止むに止まれずにオンライン取引に個人が大量に入っていったことで、利便性が認識されることとなり、これが元の状態に戻ることはないだろう。

物事を進めるというか、旧来型のシステムなりやり方を変える時というのは、多かれ少なかれリスクとリターンがあるわけで、オンライン取引においては、リスクはセキュリティーの問題で、リターンは利便性であった。もちろん、店舗に行くことで触覚的な体験ができることなどの利益もあるが、メインはセキュリティー対利便性であった。

世界を変えた14の密約

この図式というのは企業経営であっても、家庭の細かな設備投資や意思決定でも適応できる簡単な図式である。何かを変える時には必ずメリットデメリットが発生する。デメリットを許容できるかどうか、これが革新につながると言っても過言ではないだろう。コロナウイルスの拡大はデメリットを打ち消す効果があった、オンライン取引においてはそのことが言えるのだと思う。

話を戻すと21世紀になっても空飛ぶ車はそれほど普及していない。これはまず技術的な問題があり、リスクとリターンの話以前の話であることはある。技術的に燃費特性につながる軽量化、騒音を制御する技術、これらが普及に至るほどのレベルに至っていない。例えば数億円を支払えば実用に耐えられるような物は作れるだろうが、価格の問題が出てくる。これは初期の計算機と同様で、どこかの研究所で国家予算を使うようなコスト度外視のところでのみ使われる、そういった環境であろう。

しかしながら一つのブレークスルーがあり、これはオンライン取引と密接にかかわっており、まずは小口配送の増加が輸送業界では顕著でありトラック運転手の不足、不足によるコストアップ、これらが出てきている。それらを改善する手段としてドローンによるラストワンマイル輸送がクローズアップされることになった。これも従来は安全面とコストの問題で進んでいなかったが、輸送業界の方の事情が変わり、コストを許容できるようになってきた。そこで議論が進むようになったわけである。それに伴い短距離の航空管制の議論が進むようになってきたのと、ドローンのデザインの効率性、適応部材やモーターの最適化も研究されるようになってきて、空飛ぶ車の基礎的研究が多くなされるように時代が変わってきている。

航空管制の問題と安全面を担保する国際的なルール作りが進むと、物を作る方は設備投資、研究開発が進むわけであり、それが今の空飛ぶ車の研究、実証試験ブームに繋がっていく。

ここで思うのは未来というのは連続性の上に成り立っているものではないということで、非連続な出来事、例えば今回でいえばコロナウイルスのパンデミックということになるが、そういった非連続の突発的な事象により大きな飛躍が起きる、これの積み重ねが未来なのだろうという点である。先日テレビ番組であさま山荘事件がカップヌードルの知名度の拡大に寄与したということをやっていたが、通じるものがある。未来の変化と言うのは振り返ってみると、徐々にトレンドとして変わったという面よりも、例えばスペイン風邪、例えばブラックマンデー、例えば二度の世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、プラザ合意、リーマンショック、こういったビッグイベントが大きな影響を与えるのだろう。もちろん、世界大戦なんかは、それまでの歴史の積み重ねで発生したという考え方もでき、徐々にたまったマグマが噴火したのが世界大戦に繋がっている側面もあるのであるが、第一次大戦でいえばオーストリアで公使が殺害されたのがきっかけで戦争に至ったわけで、実は世界規模の変革に与える非連続な突発事象の影響が、思っているよりも大きいのだと、そういう認識に至るわけである。