管理職と子育て

女性の社会進出が特にこの10年間で進み、人々のライフスタイルについても多様性を認めようという社会的風潮がある。もちろん、それは良いことであり、筆者としても支持したい傾向ではある。多様なライフスタイルをとる人がいることで、長期的には例えば日本とか、地域とかで見たときのそのコミュニティーの柔軟性が増す結果になるし、環境変化に耐えやすくなる効果があるだろう。これは会社という組織にも言えることで、多様な人材を求めるというダイバーシティーの考え方はそこからきている。

ダイバーシティーを進めるというのは、多様な価値観を持つ人を会社の中に抱えることで、会社の柔軟性や革新性を高めようという試みである。これは人材面で性の多様性、人種の多様性、宗教の多様性、国籍の多様性という意味合いが強いが、ライフスタイルの多様性というのも一つの要素になってくるだろう。

一方で昔の人の格言もある。例えば、韓国であるコンサルタントと会食をしたときに、そのコンサルタントが「韓国では、結婚して係長、子供ができて課長、子供が中学に入って部長、子供が大学に入ったら役員、子供が就職できれば社長になれる」というような感じの格言があるということを話していた。

見ようによっては、早く子供を作って、子供をエスカレーターに乗せて、独立をさせるというメジャーではあるが一つの考え方を皆に押し付けるような考え方にも見える。ただ、これにはある意味での真理も含まれているのではとも思う次第である。この言葉をどこかで矛盾とか後進的だと感じてしまうところが、現在のダイバーシティー議論の正解からのずれを表しているのかもしれない。多様な考えは必要だが、普遍的なものもあるということだ。

世界を変えた14の密約

子育てをしているとこの言葉の意味するところが分かるような気がする。まず子供に対して、曲がりなりにも親は規範になろうとする。この時点で子供がいなかった時点と比べると意識が変わる。もちろん完璧な人間になるわけではないが、この意識の変化が人を変えるもので、規範意識が高まる。子供が大きくなってくると、子供の持つコミュニティーと親が持つコミュニティーの重なりの部分が徐々に減ってくる。話題や価値観が徐々にずれていくのである。もちろん共通の話題もあるが、日常的に顔を合わせる相手との価値観が徐々にずれていくことによって、ぶつかることが多くなってくる。これは思春期と呼ばれる時期の反抗期にも重なってくるのかもしれないが、そういう子供に対して根気強く、また相手との価値観の違いを認識しながら話をしていく必要に気づかされるわけである。

子供が高校、大学になってくると今度は金銭的な規範意識やマネージメントが重要になってくる。しかも、規範意識を高めて、価値観のずれとも戦いながらということになる。さらには、子供のキャリアというか将来についてともにビジョンを描くという中長期的な展望を持つことも重要になってくる。目先の学費だけではなく、将来にわたって幸福を得るために何が正しいチョイスなのかを、社会情勢や今後のトレンドを予測して決定を下していくわけである。

これはすべて子育ての話を書いているわけであるが、かなりの部分で管理職の仕事に通じてくる。管理職には規範意識が重要であり、内外問わず価値観がずれている相手との折衝が必要になる。さらに上級の管理職になってくると中長期のビジョンや、社会情勢や今後のトレンドに対する読みも重要になってくる。もちろん、係長にも長期のビジョンは必要であるが、相対的にこういう傾向があるのが所謂企業の管理職ではないだろうか。

バブル世代と言われる世代から子育てをしない人々が増えたのでないかというのは周りを見てて感じるところである。それこそ人権意識の高まり、家族より個人の価値観を優先する傾向、それらが始まった時代と重なり、リベラルな思想がそういう方向を選んだのだろう。また、子供を望んでも持てない人々がいることも事実であり、全ての人が子育てができるわけではないということも認識しなければならないのも認識している。ただ、子育てをしない人が少し増えたことが組織の健全性をもしかしたら弱めているのかもしれない。

そんな中、女性が管理職で活躍し始めたのは偶然ではないだろう。女性は今も今までも子育ての大部分を担っており、管理職的スキルがもともと高いのかもしれない。

もちろん、子育てをして管理職になるというのがすべてではないし、逆に規範意識を高めて、価値観のずれに対応するような八方美人的になると、起業家というのは生まれずらいのかもしれない。スティーブジョブスのような自分の信念を貫くタイプは企業で管理職としてやっていくのには向いていないかもしれないが、Appleのような企業を創業するのには向いている。どちらを目指すのかは個人の選択であるが、そういう反対の側面を持つことは注意が必要ではある。

しかしながら、管理職の業務と子育ては似ており、どちらが先かは人によるだろうが、子育ては管理職の、管理職は子育ての、良い練習となっているのだろうと思う次第。後輩を見てみても、子育てをすると人は変わっていく。責任感や規範意識が高まっていく。ちょっと古臭い考え方のようだが、昔からの格言に審理が埋まっていることも、これまた事実だろう。

脳の容量と知能

以前にここでも書いたがネアンデルタール人の脳容量は1500㏄を超えていたといわれる。現代のホモサピエンスの脳容量が1300-1350㏄程度と言われるので、それよりも大きい。脳の容量が大きいから、認知能力が高いとか、知能が高いとか、今の我々ホモサピエンスの基準でいう尺度では一言でいう事ができないが、思考する力なのか、領域なのか、脳を使う領域は広かったのであろう。

ただ、それが例えば文化創造能力が異常に高いとか、記憶力だけは異常に高かったとか、我々の今の基準でいえば、生活のために必要な能力として活用されていたのかどうかは分かっていない。ただ、ネアンデルタール人はその脳の容量の多さにより、多くのエネルギーが必要であり、狩りをしなければいけない時間が長くなったこと、食糧が少なくなる時期にはまっさきに飢餓が襲ってくること、脳が大きいことによって不利な面があったように見られている。

ホモサピエンスにしても10000万年ほど前のホモサピエンスは、現代のホモサピエンスよりも脳容量が大きかったことが言われているらしい。1400-1450㏄と言われているようである。言語能力は10000年程度前だとあまり変わらないだろうが、10000年前と言えば当方が好きな農耕が始まったころと合致してくる。

この頃から集団で生きていくという色合いが強まったとみられている。労働を集約することで収穫量を2倍にも3倍にもできるようになったからであり、その先には国家のような大規模組織が徴税、治水をすることで飛躍的に収穫量を増やす仕組みができていったという現代につながる話になってくるのである。

残酷な進化論 なぜ私たちは「不完全」なのか (NHK出版新書)

その農耕が始まったタイミングから脳の容量が小さくなっていったというのは非常に興味深い発見であり、一つには国家のような大きな単位で生産、収穫、再分配を行うようになったことにより人々の間に分業制が定着していったことと無関係ではないだろう。例えば、治水の人、例えば、耕作の人、例えば、防衛の人、こういうようにルールを決めて分業ができるようになった時代であり、権力者と言われる人間が統治を始めた時期である。例えば、一市民であるAさんは、以前は集落の安全を守ること、食糧を確保すること、子孫を残していくこと、これらすべてに気を使う必要があったし、これらすべてに長けていないと、自分と近縁の人々が反映することができない社会であった。

しかしながら、国家というものの登場により、それが分業されるようになったわけである。防衛能力が高い人は防衛を、耕作能力が高い人は耕作を、それぞれ自分の力を専門的に発揮できるようになっていったわけである。

現代の我々ホモサピエンスはどうであろうか。分業制、専業性はさらに進展しているのではないだろうか。食料生産について響きにすることもなくなっているし、安全を担保するのも対外的には国家の軍隊が、対内的にはこれも国家の警察権力が担ってくれている。税金を払えば、自分とその家族が食べていくための生産活動に力を注ぐことができるのが、一般的な先進国の状況になっているのは間違いないだろう。

そう考えると、今後も脳容量は小さくなっていくのだろうか。例えば10万年とかのスパンで見た場合に、下手したら今の半分くらいの脳容量となり、省エネが進むのかもしれない。ある研究によるとインドネシアのフローレンス島にいたといわれるホモフロレンシスは、ジャワ原人という100万年前にいた人類から進化して脳容量が小さくなったと言われている。もちろん、何に適応するために小さくなったのかというのが問題であるが、必要な食糧を少なくすることができ、生きるための食料確保がしやすくなったからというのは、大きな理由の一つであると思われる。

そう考えてみると10万年とかのスパンであれば、現生人類も食料も今の7割程度しか食べず、思考も同じく7割程度、脳の容量も7割程度、そういう社会になっているのかもしれない。これは別に不幸な未来を話しているわけではなく、ただただホモサピエンスの基準がそうなるかもしれないという話だけであり、その時の人類には最適な脳の容量になるだけの話である。ただ、もしかすると余白の活動というか、必須ではない活動である文化的な創造性の高い活動は低下していくのかもしれない。そこには少し悲しさを感じる次第である。

メディアの横暴

現在、テニスの全仏オープンが開催中であるが、開催直前に話題をさらったのは大坂なおみ選手である。記者会見への参加を拒否したことで、大会主催者からの反発を浴びることになり、大会を棄権することにした。

勿論、大会規定には記者会見への参加が義務付けられているようであり、そんな中拒否したことなので、ルール違反ではあるが、うつ病を抱えており、記者会見に出ることが苦痛であったという大坂選手のコメントを聞き、賛否両論があった。

同じアスリートの人たちからは同情の声が大きいように感じるが、批判の声を拾ってくるのは勿論マスコミである。彼らの横暴が20歳そこそこの大坂選手を傷つけていることは、あたかも忘れているかのようにである。

自由なメディアというか、開かれたメディアというか、以前は密室の記者クラブ的な感じで大手マスコミが管理していた世界なのかもしれないが、今の世の中は、どんな記者でも比較的自由に記者会見に出入りできる雰囲気で、ネットメディアやタブロイド紙の人でも、出入りしている印象だ。これは、マスコミというものの、そもそものイデオロギーからきていると思うが、言論の自由の番人みたいな位置づけが、根本にはあり、自分たちで改革開放を進めていった結果であろう。

しかしながら、このことが質を低めているのは事実であり、自分たちの首を絞めている。大手メディアが独占していた時代の記者会見は質問の質にしても、聞いている記者の人間性についても、その世界でトップの例えば大坂選手のような人が質問を受けても、同じようなレベルの質に住んでいる人が多かったのではないだろうか。しかしながら、現在の記者会見は、本質ではないような質問であったり、何かのWordを引き出したいだけで、引き出したら引き出したで脚色して自分の描いていた通りの記事を書くような、Fake newsに近いような書き方の記者もいる世界である。

マスコミには色々な問題があるとは思うし、ここに書くには今は時間が足りないのだが、この言論の自由の行き過ぎた精神、自らの改革開放による記者のレベルの低下、この点は大きな問題点であり、今後も止まらない問題であろう。マスコミを志して、ジャーナリスト然としている人々にとって、言論の自由と改革開放はイデオロギーの骨格であるからである。ここを否定してしまうと矛盾が突き付けられてしまい、自らが崩壊してしまうのである。

諸外国ではわからないが、日本ではまとめニュースサイトの存在も問題であると筆者は感じている。これは、ニュースを見る読み手のレベルを低下させており、まず一方的なニュース、自分の考えに近いこと、自分の興味に近いことしかニュースを読ませない傾向を植え付け、そのことが問題を批判的に見る目を衰えさせている。さらに、大手一般紙からタブロイド紙、謎の週刊誌まで同列にニュースを表示するようになったので、それぞれの質ややり口の違いについて検証せずにニュースを受け取るようになっている。タブロイドの夕刊フジとかゲンダイとか、ネットがなければ中年のおじさんしか読まなかったような明らかに怪しいメディアの論調や報道を真に受ける若者が出てくるのである。これが拡散されFake newsになっていくのであるが、昭和の時代は夕刊フジの言っていることはかなり怪しいということはみんな分かってみてたのである。