人の成長

人間の成長と自己評価というのは一致しないもので、例えば英会話やダイエットが継続しないプロセスと似ていると感じる。大きな要因は自己評価というのはいつも高いということだ。例えば自分を野球選手とみなした場合、そして高校球児と考えた場合、自己評価というのはどうしても高校野球という世界だけでの評価になってしまう。高校野球レベルでトップだと感じている人間は、自己評価がマックスになってしまう。しかしながら、世界にはもちろん日本のプロ野球もあるしメジャーリーグもある、中南米の野球リーグもあるし、アメリカの大学野球もある。そういった世界中の野球の中での自分の立ち位置を、高校球児に自己評価してもらおうとしてもなかなか難しい。これが自己評価の難しさというか、自分の知ってる範囲での評価しか、人はなかなか出来ないということなのだと思う。

明治維新とは何だったのか――世界史から考える

そんな事は当然ではないかと思われるかもしれないが、高校球児の例ではそうなのだが、一般社会、例えばサラリーマンとして考えた場合、どうなるのだろうか。昭和的な大量生産、効率経営、だけでキャリアを歩んできた人間が例えば、昨今のDXやSDGsという流れの中で、正しく評価をされているのだろうか。もちろんどの様な戦略にも適応できる人もいるのだけど、昭和的な経営の中でこそ評価されてきた人間は自己評価が曖昧になってしまっているケースがあり、要は現代の経営の中でのその人の価値が低いことに気付けていないことが多いということである。昭和的経営という中では、9時に会社に来て、周りや先輩と同じことをする事が尊ばれる時代であった。効率的に大量生産をこなすのが日本企業の使命だったからである。そういう高校野球のようなガラパゴス化している産業の中での自己評価であったり、キャリアの評価というのがまずあったのだろうが、そこでの自己満足を引きずり、現代の経営軸でも自分は生かされうる人材だ、そんな勘違いがはびこっているのが日本社会の現状である。

ここであえて日本社会という言い方をするのは、欧米はとっくにそういう社会を変革しているからである。日本は80年代までの昭和経営の成功があり、90年代の失われた10年、00年代以降も新陳代謝が起こりづらい市場環境、これらが複合的に合わさっているのは、現代では日本だけである。今後中国がその状況に陥る可能性があるが、高度経済成長が80年代に終了するまでに企業文化の醸成とか、長期的な経営という視点での評価制度の構築というのを疎かにし、さらにはその後の平成の時代においても、昭和的経営の成功例が足を引っ張り、企業の変革を拒む層が日本型大企業の中心にいたのが我々の置かれている立場なのである。

これはある意味では仕方のない歪みである。80年代まではどの企業も成功していたわけで、その頃に入社した人間が現在の日本企業のトップに君臨しているので当然ではある。

今後日本企業は、失われた10年に入社した世代が企業トップに来る時代となり、その下の層は氷河期就職世代となってくる。このシフトが本格化するのは、94,95年入社の人間が55歳になる頃である2025,2026年頃となるだろう。その頃に日本企業は大きなパラダイムシフトを迎えることになると思われる。理念がごっそり変わることになる事が一つと、大手企業においてはそこから採用されている人間がぐっと減るので、人材不足の時代にもなっていくだろう。

その後の予想される日本企業の世界としては、経営者の人材不足による企業の合併等が増えていくだろうし、歴史や伝統をある程度ぶち破るような、積極的な経営、不採算部門の切り離しや撤退、事業構造の転換のような思い切った策、そういった事が大いに出てくるのではないだろうか。失われた30年というのは60年代から始まった高度経済成長の裏返しであり、負の歪を解消する時間であったというとらえ方ができる。過剰な成長のひずみである。それは結果的には日本経済全体には60年というスパンで見たときには、良い結果の方が多かったのであるが、ことここ30年で見た場合には、負の面が強調されてしまう。これは仕方がない。

ただ、この失われた30年の後の世界は、ようやく高度経済成長のトラウマから解放されて、世界基準の経営ができる世界になっていくだろう。裏を返せば、激しい生き残り競争が起こるのかもしれないが、新陳代謝が上がり、自己評価をする基盤となる世界の広がり、個々人のビジネス的な能力も全体として上昇していくのではないだろうか。バブル入社世代が退場していくことで、高度経済成長のトラウマが消えていくと予想している。

イノベーションの歴史

詳しく何かを調べながら書いているわけではないので、まさに徒然なるままに考えるわけではあるが、歴史上の大きなイノベーションについて考えてみた。大航海時代、羅針盤と大型帆船によって世界の距離が縮まった。貿易が拡大されていった。活版印刷、これによって書籍や出版というものが産業になった。ダイナマイトや航空機の発明、これらによって軍需産業という巨大産業が生まれるに至った。前後するが電灯というか電気の流通によって人の生活は変わった。蒸気機関については色々なものを変えることに至ったが、産業の工業化の進展に影響した。

これらのことは産業の創出という意味で大きな変革を与えた。貿易商が生まれ、印刷会社が興ることになり、軍需産業、電気にかかわる産業、機械工業、これらが生み出されて、労働というものの質が変わっていった。国民に影響したのは、労働生産性の向上であり、金銭的に豊かになる時代へと移っていったわけである。

一方、産業という意味ではなく、大衆化に繋がったイノベーションもいくつかある。民主主義社会という王政を打ち破って作られたものであり、民主的な選挙による政治運営という概念を生み出した。ヘンリーフォードによる自動車の大量生産は産業的な意味もあるが、移動というものの民主化を引き起こした。そこから時代はかなり現代に近づいてくるが、インターネットの普及というのは、今度は個人が世界各国の情報へのアクセスをとれるようになり、情報の大衆化を生み出した。

世界を変えた14の密約

これら、政治の大衆化、移動の大衆化、情報の大衆化は、もちろん豊かさも生み出してはいるのであるが、個人主義というか、個人の権利や個人の能力の尊重を助長するようになった。文字通りの大衆化ということではあるが、20世紀特に後半から加速的にリベラルな社会が広まっていった。

では21世紀は何が起きているだろうか。産業化、大衆化、その次は何なのだろうか。コロナウイルスの感染拡大はその転機となったのだろうか。コロンブスやマゼランによる大航海時代は貿易による世界の距離を縮めるのに役立ったわけっであるが、個人の功績もそこにはある。民主化に繋がったのは王政の怠慢や制度疲労があるが、王族自体の問題が引き起こした面もあろう。二度の大戦は航空機や自動車の発展に大きく寄与している。そう考えるとコロナウイルスが一つの触媒になっているということは考えられる。

今後の20,30年を考えると、今のイノベーションを見てても圧倒的に進むのは仮想現実化、これがキーワードであるだろう。20世紀の目から見たときに、21世紀の現代はすでにかなりの部分でこのことが進んでいる。AMAZONの店舗はまさに仮想現実上の店舗と言えるわけであるし、ゲームや映画のエンターテインメントでは仮想現実が進んでいる。フィンテックにより、株式投資、資産運用、預貯金の存在についても既に現実空間で行っておらず、携帯電話やPC上で完結するわけである。仕事にしても一気にリモートワークが拡大しており、職場の仮想現実というとたいそうな表現ではあるが、ある種そういう状況ではあるわけであり、これは不可逆的な変化であることは間違いないと思う。

コロナ禍が終わり、以前の日常に戻るという人もいるが、少しでも楽な方に変化した時代は逆戻りしないと思われる。そういう観点から仮想現実化という流れは不可逆的であると言え、筆者の予想では戻ることはない。どんどん物理的な移動をしない社会というのが広がっていくだろう。もちろん、例えば音楽ライブを見に行くように、例えばたまには映画館で映画が見たくなるように、例えば海水浴に行きたくなるように、一定の余暇の部分での物理的な移動は残るのだが、これはあくまで余暇だからやるわけであり、効率性が最重要視される産業とか仕事とかいう観点でいうと、仮想現実化の流れには逆行できないのだろうと思う次第である。

リベラルの不可逆性

婚姻については近年晩婚化が進んでいるのは間違いない。厚生労働省の労働白書にも書いてあるし、実感として結婚する人の年齢が上がっている。だからといって結婚できない人が増えているかというと、選択的に結婚をしない人が増えていることもあるが、全体の流れとしては自由な恋愛、自由な結婚ができる幅が広がっているので、結婚自体は望めばしやすい環境になってきているのではないだろうか。

勿論、経済的な面や仕事の面で結婚できない人がいるかもしれないが、例えばここ50年とかのスパンで社会の変化を見たときには、リベラルな方向性というのは確実に進んでおり、自由な恋愛、自由な結婚という幅は広がっているのは明白である。

例えば国際結婚であるが、これは筆者が子供の時は都内の小学校に通っていたがいづれかの親が外国籍である人、俗に言われるハーフの人は非常に珍しかったが、娘が今通っている小学校には複数いる。もちろん、地域性なんかもあるかもしれないが、例えばスポーツの世界を見てみても、外国籍の親を持つ選手の活躍はここ20年とかのスパンで見ても大幅に増えているように感じる。

これらはリベラルな思想の影響というと大げさではあるが、戦後民主主義という米国主導で始まった日本の民主主義はどんどん民主化、リベラル化する方向で進んでいる。これは世界的な傾向でもあるが、ある意味自由主義的な、ある意味個人主義的な、何物にも縛られないで生きることを最重要視するような文化である。

これは個人にスポットを当てると非常に過ごしやすく、居心地が良いので、世の中はリベラルに行く方向性であり、長いスパンで考えると今の政治体制、すなわち民主主義という観点から言うと、不可逆的であろうということが言える。自由を享受した国民は、自由が後退することは許容できないし、さらなる自由を求めるのである。

民主主義とは何なのか (文春新書)

しかしながらここには危険な点も潜んでいる。民主主義のもっと根本原理である、国民の間での助け合いの概念というか、ここの部分をむしばんでしまうという矛盾に行きあたってしまうのである。民主主義を追求すると、個人の権利が拡大される方向に行ってしまい、個人が自由を得るようになり、さらなる自由を要求する。そして一定以上に自由になった国民は他者の事よりも自分のことを追求することに重きを置くようになり、やがて国家という事には思いを馳せなくなる。民主主義というのは国民全員が参加してこそ、最大限の効力を発揮するシステムであり、例えば徴税に応じない国民がいると平等が担保されなくなり破綻に至る。

破綻に至るプロセスは色々あり、徴税を免れるように権力を操作したり、議会を扇動したり、国家の活動に制限を与えたり、効率性を落とすように策略していくことに繋がる。そうすることによって国家としての活動、例えば、防衛、警察、インフラ、が不十分になっていき、破綻をきたすようになる。もしくは破綻をごまかすために戦争に走るのである。

机上の論理のようなことを書いているようであるが、この不可逆的なリベラル思想が進み過ぎてしまった社会はどこか現在の米国社会であるようにも感じる。特にトランプ政権を支持していた層は、まさに法人税率を低減して、テック企業の徴税逃れもそこまで追求せずに、そんな中、特に警察権力の失墜、インフラの致命的な老朽化、これらの問題を抱えており、国民国家としての危機に瀕していた。

バイデン政権になって反動があるので少し民主主義が引き締まったように感じられるが、あくまで反動であり中長期的に見たら、リベラル化は不可逆的である。欧州や英国でもこの民主主義の行き過ぎに指導層では危機感を感じており、GAFAへの課税強化、最低税率の上昇を議論しているが、自由を叫ぶ国民や民間企業に勝てるのだろうか。民主主義という国民主導の政治体制を維持したい体制側と、民主主義の恩恵を最大限に生かしたからこそ破綻に向かっているという事実を認識しているのかしてないのか分からない国民側に、大きな溝ができつつある。そう考えると民主主義というのが古代ギリシャでは「怪しい政治体制」と論じられていたことも納得がいくわけであり、そもそも矛盾をはらんでおり、長期には継続できない政治体制なのかもしれない。フランス革命から200年以上経つわけであるが、強権的な政治体制が優勢になっていくのが大きな流れなのかもしれないし、それをごまかすためにとれる策は戦争でしかないのかもしれない。