流行とエッジ

昔のミュージックビデオなんかを見ると、よくこんな格好で歌っているな、とか、よくこんなシチュエーションで撮影しているなとか、言う場面がみられる。映画の場面なんかでも見られることであるが、例えば80年代のミュージックビデオを見て、このバブルのころはこれが流行ってたんだろうな、と言って納得する。

こういった創作活動、エンターテインメント、そのような分野において、流行の一歩先を行ってること、先端を走っていることというのは重要であり、それがその瞬間の興味を引き付けることに繋がる。時代の先端を走っている人は魅力的に映るのは間違いない。

ただ、これが普遍的ではないというのは認識しておくべきだ。エッジにいる人間というのは、その時代の平均というか、真ん中からずらしていることが重要であり、ずれているということは振れ幅が大きいことであり、時代が進んで、エッジの人を追い越したときには、時代遅れ感がその分大きくなる。

ファッションの流行というのはこれの繰り返しだといわれる。若者がその時代の平凡、平均と言われる流れから、少しずれたことをやりだして、特に若者の間でずれたことをする事をかっこいいと思い出す。これがエッジを走っている人となり流行となりブームになる。流行となるとこれが今度は徐々にその時代の平均になってくるので、そこからさらにずれた事を生み出すファッションリーダーが活躍しだす。これの繰り返しで、一つの循環を繰り返すものだというのが、ファッションなのだと思う。

例えば、シルエット一つとっても、シャープなシルエットが最先端な時が来て、緩やかなシルエットが最先端な時が来る。それぞれがその時代の平均からちょっとずつづらして、今年はこうやって他人と差別化することがおしゃれ、というトレンドを作りながら、エッジの人、ファッションに敏感な人、一般の人、おしゃれではない人、という順番にそのトレンドが反映されていく。結果、循環していくのである。

筆者は流行に敏感な方ではないかもしれないが、こういう事を思ったのは、これはファッションだけに言えることではないからで、今の時代でいうと投資ブームもこういった循環の一つなのかとも思うからである。これは議論があるし、投資ブームはもしかしたら不可逆的なもので、すそ野がどんどん広がっていった家電製品のように、ただただブームのすそ野が広がるものかもしれない。しかしながら、80年代のバブルのころも上場株ブームというのは少なからずあって、筆者の印象だとバブルが崩壊するいよいよ直前のころに、ほんと素人のおじさん、おばさんが、「こんなに上がる相場に乗らない手はない」と言って参入しだしていた印象だ。

日経平均株価が2倍、3倍に上がっていくのを見てると、誰でも自分も大儲けできると思うわけで、素人とよばれる平均的な人々が参加してくる。しかしながら素人でブームに乗ってるだけなので、ただただ上がってる株や不動産を買うということに繋がる。しかしながら人数規模が大きく一つのトレンドを作ってしまい、まさにバブルを生み出すのである。これら素人は投資余地も限られており、いったん下落しだすと、損切、利益確定売り、これらで相場から逃げ出そうとする、それがさらに売りを呼び、バブルは崩壊するわけで、90年以降はそれらの人が投資に帰ってこなかった、という見方もできる。マスの人々が投資ブームに乗り出した時こそ危ういと思うのはそういう理由であり、現在のブームもこれに近いものがあるのかもしれない。金融緩和による相場形成はこれは理屈と株価上昇が一致しているのでどちらかというとインフレ気味の実態に即した株価上昇とみるが、ブームによるかさ上げはバブルを生み出して、崩壊する危険性をはらんでいるとみる。

日本国憲法の偽善

国民投票法改正法が衆議院を通過したというニュースがあった。感染症予防の対策を打ちやすくするためにという論点から議論が進んだ結果のわけであるが、漸くという実感である。この国の憲法は戦後制定されてから70年以上も改正されていない。

70年以上も憲法を改正していない国はかなり貴重であるという報道を見たことがあるが、そもそもこの国の憲法に関する議論が止まっているのは9条の存在のせいであることは間違いないだろう。

反戦をうたう憲法9条について、議論は様々あるが、世の中に憲法9条原理主義というか、これさえあれば大丈夫と思い込んでいる存在があり、これさえあれば大丈夫で、これがなければかなりダメ、そういう考え方になってしまっている存在である。憲法9条が改正されると日本は先の大戦のように戦争に突き進んでしまう、そういう考え方を持つ勢力がいる。

戦争をしないと宣言することで、本当に戦争を避けられるのであろうか。これはよくある議論であるが、そんなわけはないだろう。例えば善良な市民が、うちは財産はありますが、防犯はしません、家に侵入してきても抵抗はしませんと言うとしても、そんな家にはすぐに泥棒がやってくる。問題は受け入れるというか被害を受ける方の意識ではないのである。

私は犯罪を犯しません、泥棒も詐欺も暴力もしません。これは結構なことであるが、そうすることで犯罪に合わなくなるかどうか、これは別議論であることはまともな市民であれば理解ができると思う。犯罪に合わなくする、被害を小さくするためには防犯が大事であるし、場合によっては自身の鍛錬も必要で、正当防衛であれば、かなりの抵抗ができることを示している必要がある。

勿論侵略的に戦争をすることについての是非はあるし、それについては国連という国際的な枠組みがいまのところは是非を問うことになっている。国連に反対されるような侵略的な戦争を起こすことは、一応、現在の世の中では犯罪的というか、間違った行為として認定されるわけで、これはやらない。

しかしながら、貧すれば鈍するではないが、国家間の戦争も結局は富の奪い合いであり、景気が悪くなれば犯罪が増えるように、景気が悪くなれば戦争を仕掛けざるを得なくなる国も出てくるわけであり、それに対して防犯体制は整えるべき、これは当たり前の議論である。

自分たちが犯罪を起こさないと宣言することと、自国が犯罪を受ける可能性については、全く別の議論であり、平和憲法と呼ばれる憲法9条さえあれば、戦争には至らないと考えるのは議論のすり替えというか、かなり偽善的なものの考え方だと思う。戦前の軍部の暴走とか、戦争被害者の立場とか、議論をすり替える人たちがいるようだが、それはそれで反省すべきであるが、憲法としての9条の存在は改正されるべきである、というのが筆者の持論で、それとこれとは別であり、9条の改正による軍隊の整備というのは、国の防犯体制を整えましょう、そういう事を議論したいということなのである。

差別の構造

緊急事態宣言が発出されており、休日の映画鑑賞が増えているが、昨日I am not your negroというJames Baldwinのドキュメンタリー映画を見た。アメリカ社会において如何に黒人が差別されてきており、どういう声を上げてきたのか、マルコムXやMartin Luther King牧師の意見を通してみていった映画になるが、興味深いものであった。

題名にもにじみ出ているように、何せ白人社会が黒人のステレオタイプを積極的に設定していった、これが軸になっている。例えば1900年代前半に作成された映画などでの黒人の描かれ方、これは先住民と呼ばれるNative Americanの人たちにも言えることであるが、白人の映画社会が例えば、黒人はコミカルでされど人が好い、先住民は人を食べるほど残忍で話が通じない、こういったイメージを植え付けるのに一役買っている。

James Baldwinによると、これらのイメージ植え付け映画が最悪であった。映画に出ているような黒人男性は実際には存在してないし、しているとしても稀であり、本質的なところでは揶揄しているようにしか見えない。これは確かにそうであろう。あえて映画や書籍でそれらのイメージを作り出して、レッテルというか国民の間にステレオタイプ的なイメージを植え付けた。

これが何故行われたのか。ひとえに白人の強迫観念からきている、というのが映画の趣旨である。これが差別というものの構造的な問題というか、本質であるが、差別する側は、被差別側が恐怖なのである。被差別側が教育を受けて、経済的に豊かになり、差別する側と同じような境遇になり経済的にも変わらない力を持つことが恐怖なのである。これが基本的な差別の構造だと筆者も思うし、映画の主張もそこにあったと思う。

それが何故恐怖につながるかというと、必然的にパイが減るからである。100あるものの99を独占していた白人が、黒人が広く教育を受けることによって同じような学力になり、大学進学や企業への就職、起業において平等になる事で、当時の人口比である例えば12%は黒人の物となるとすると、99が88とか87に減るわけであり、これが恐怖を呼び込むのである。もちろん、経済は年々大きくなり100が110にも120にもなるから、白人が得られる絶対量は99から増加するはずであるという反論がありそうだが、そういう絶対値ではなく、ここでは相対値が問題であり、自分たちの相対的な既得権益が棄損される、これが恐怖なのである。

これはどこの差別に適応しても比較的すんなりと受け入れられる理論だと思われる。例えば、日本国内に在日韓国人、在日朝鮮人の人に対する差別があるとされるが、これも比較的所得が低い水準である在日社会の人たちが、権利を拡大していくことにより、自分たちの既得権益が棄損されることが怖いのである。ここでいう権利というのは相対的なものであり、絶対的な基準では非常に低い水準の権利であっても、例えば、差別側が100の権利を持っており、被差別側が10の権利であり、これが15になるというだけでも抵抗を示したくなる。絶対値が低くても相対的に上がることが、恐怖を生む。恐怖というのはそれほどに計測するのが難しく、ひとたび燃え上がると小さなことでも大きくなる。こうやって制御が難しくなり、結果差別につながっていく。差別の構造というのは、結局は差別側の恐怖に支えられている。そして、既得権益が棄損される場合に発動されるので、差別というのはどこまで行ってもなくならない。これは富が存在する限り、避けることはできないであろう。