マンハッタン計画

現在ジョン・フォン・ノイマンの伝記的書籍を読んでおり、彼が如何に天才であったかという点を興味深く感じている。ゲーム理論等、彼が物理学、数学等の分野で成し遂げた業績はいくつかあるが、有名なところではマンハッタン計画で原子爆弾を開発することに尽力したという事だろう。ウランが原子崩壊というか分裂する際に強力な中性子線が出されて、巨大なエネルギーが解放されることが分かり、マンハッタン計画を進めていった。

世界で日本の広島と長崎にだけ原子爆弾は落とされたわけであるが、書籍によると1940年前後まではナチスドイツの方が原子爆弾の開発は先行していた模様である。しかも2年分ほど先行していたということだ。

そこでの予算配分が米国のそれと比べて、ナチスドイツは大胆にはいかず、結局開発は達成されず、原子爆弾を活用することもなかったようだ。しかしながら、歴史のIfにはなってしまうが、先行して開発が完了していた場合は、歴史は大いに変わっていただろう。

ナチスドイツ、ムッソリーニイタリアが戦局を優位に進めた可能性が出てくるのである。1943年までにロンドンやパリに原子爆弾を投下していたら、アメリカは太平洋戦争だけではなく、欧州戦線でのフォローもしなければならなかった可能性があり、日本の歴史も変わっていた可能性がある。例えば、ハワイが日本の領土であったり、フィリピンの一部、韓国、サハリン、千島列島、これらも日本の領土のままで終戦を迎えていたかもしれない。

これらは単なる想像のなかでの遊びでしかないが、こういった事を考えられるくらい、原子爆弾の開発は戦局を左右する事実であり、ナチスドイツを中心とする枢軸側が負けた一つの要因なのかもしれない。

ここで何故ドイツは予算を割かず、米国は当時大規模な予算を割り当てる方向にかじを切ったのかという疑問がわくが、当時の文化というか政治にもなるが、アカデミズムを重視しているかどうか、この差が一つの要因でもあったように感じる。

ドイツは折からのユダヤ人迫害により、学者であっても公職から追放する方向に舵を切っていった。優秀なハンガリー人の学者であるフォンノイマンも然りであるが、アインシュタインなどもアメリカへ移住することになった。米国はアカデミズムの権威が戦時中も保たれており、ナチスドイツは全体主義的に天才なども排除してしまう方向に行ったわけである。

これはアカデミズムという戦争や経済とは縁遠い分野の話のように聞こえるかもしれないが、プリンストン研究所を中心に優秀な学者を世界中から集めて原子爆弾の開発に成功した米国と、国民結束のために国内にユダヤ人という敵対勢力を作り、全体主義的な発想で天才的な個人であっても排除していったナチスドイツ、この差が原子爆弾開発速度の逆転を招いたことは事実なのであろう。第二次大戦の勝敗を分けた要因はいくつもあるだろうが、この点も一つと言えるのではないだろうか。

フォン・ノイマンの哲学 人間のフリをした悪魔 (講談社現代新書)

多様な個性、天才の頭脳、こういったものを積極的に生かそうというのは現代のアメリカ社会にも通じるところがある。日本はどうかというと、天才を伸ばすのではなく、劣等生を何とか平均にもっていく教育を重視し、天才や優等生を社会の歪みとすらみなす風潮はありはしないだろうか。天才的な変わった人間を排除してしまう社会は偏屈で視野の狭い社会で望ましくないが、日本社会にはそういった面があるような気がしてならない。特に戦後の人権、平等、意識の過剰な高まりにより、以前にも書いたような過度な平等がポリティカルコレクトネスを持つような雰囲気があり、とがった人材が伸びずらくなってる社会であると感じる。

断食とその効用

インドネシアに5年ほど住んでいたが、インドネシアに住んでいると日に5回、コーランの歌声が聞こえてくる。朝は6時から、夜の6時が最後のもので、そのたびにイスラム教徒の人々は手足、顔を水で洗い、どこにいてもメッカの方角を向いてお祈りをする。例えば、運転手なんかは運転中だったらしないが、目的地に到着後自分のカーペットを引いてお祈りをする。

我々日本人からすると独特な風習であるが、信心深さには感銘を受ける。イスラム教の大きな行事に断食を行う期間があり、インドネシアではラマダンという。朝から何も食べず、夕方の最後の礼拝の後にまず簡単なものを食べて、水を飲む。だいたい24時間弱の断食を行う、というのを1か月間行う。断食期間が終わると、断食明け大祭ということで、皆で祝い、故郷に帰る、こういった習慣になっている。

イスラム教だけではなく、ユダヤ教にも断食の習慣はある。仏教においても修行に断食を織り交ぜる修行もあったり、広く行われている習慣ではある。我々日本人のようなほとんど断食を経験した人間がいない感覚から言うと、ただ苦行であり、苦しむことで悟りに近づくとか、そういった目的で行われているのだろうという印象を持つ人が多数であろう。

食の歴史――人類はこれまで何を食べてきたのか

しかしながら、この年に一定の期間の断食を行うという行為は、むしろ健康にいいであろうことが言われている。日本でも最近はデトックス合宿や、断食合宿が行われるようになってきているが、断食を行うことで不要な老廃物を排出する機能が強まるということは言われている。また、16時間以上断食を行うと体内のマイクロファージという機能が活性化して、腸の活動が活発になったり、免疫系が活性化されるという話も聞くようになった。

宗教行為というのは今よりも歴史時代において、生活習慣に密接な存在であり、より実益的な行為が習慣として残っている面があるのだと思う。その中で、宗教が立ち上がった当時の人たちにとって、断食が健康を呼び込むというのは恐らく常識的なことだったのだと思う。

今のような飽食の時代でもなく、やむなく断食をするケースもあっただろうが、それによって体調がよくなるケースや、精神的に安定が得られたりそういうケースもあったのだろう。筆者も朝食抜き生活を始めて一年になる。夕飯を19時までに食べて、翌日の午前11時までは何も食べないようにしている。これで16時間だ。一年の変化としては体重が徐々に減って、6㎏程度減少した。また、午前中の仕事の集中力というか、効率は高まっていると感じる。

人間はどういう状態で能力を発揮しようとするのかと考えると、空腹状態なのではないか、というのが当方の仮説である。これは狩猟時代を想像するとそうなのであるが、例えば、獲物が十分に得られている状態と、得られていない状態があるとする。その場合、どちらが切実に獲物をとる必要があるかというと、得られていない状態の方であり、この場合、獲物が得られないと死んでしまう。空腹は生命の危機に対する危険信号の発露であり、お腹が鳴ったりするのは警告である。その時にこそ人間はいつも以上の能力を発揮して、獲物を得て、生き続けようとする。反対にお腹がいっぱいの時は眠くなる。これは能力を発揮する必要のない時間だと体が判断するからである。

今は狩猟時代ではないが、この本能的な部分というのは大いに残っていると思う。農耕が始まったのが一万年前前後であるが、たかが一万年である。人間だけでなく動物全般に言えることだと思うが、空腹の方がその能力を発揮できる環境になるのだと思う。昼休みに昼食を食べすぎて、午後に眠くなるのもそういった事であり、この面からもビジネスパーソンにはせめて朝食を抜いて、16時間断食を実践することをお勧めする次第である。

過度な平等

コロナウイルスのワクチン接種が徐々に日本でも開始されているが、報道等によると高齢者接種の受付予約がネットとLineだけであり、朝日新聞系なんかは大々的に批判しているようだが、平等ではないというのが根拠のようだ。

ネットやLineを使えない人はどうするんだ、という論調のようだが、では他にどういう手段があるんだ、と聞きたい。電話で対応するのか、そんなことやってたら、接種までの時間がますます時間がかかるだろう。代替手段がないので、若干の不平等は受け入れて、まずはスピード重視でやろう、これが現実的な判断である。

この場合、スピードと平等、どちらも重要な価値観であるが、これの優先順位を天秤にかけてスピードを取るわけであるが、現在のコロナウイルス感染状況を考えるとスピードを重視するのは当然の選択であろう。

政策決定というのは、国のような機関であっても、民間企業の戦略や意思決定においても、善か悪のように二択ではなく、結局いくつかのファクターがあり、どれも重要で良いとこどりをしたいが、二兎を追う者は一兎をも得ずではないが、優先順位を付けざるを得ず、優先順位を決めることが政策決定になっていく。

優先順位という考え方が重要であり、スピードも重要だけど平等も重要、どちらも満たされるまでそこを動かない、これが非現実的な、非建設的な議論であり、とくに野党やバブル世代に目立つ。現実的な解を求めず、理想論ですべてがパーフェクトな状態を目指すので、些末な批判が多く、建設的な議論が進まない。

特に国の政策決定という場においては、平等、反戦、人命、これをもって議論を止めてしまう向きが多いように感じる。これらは三種の神器ではないが、超越した絶対的な価値観として捉えられがちで、例えば軍備増強の議論も、「反戦」の一言で議論が止まる。反戦でない人は暴力的で粗野なレッテルを張られかねない。

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コロナウイルスとの戦いにおいても、オリンピックと人命のどちらを取るのか、そんな非常に低俗な議論に、これはマスコミが誘導している。それに乗っかっている人がいることが不思議でならないが、人命も大事だし、オリンピックも大事である。コロナで亡くなっている人がいるのにオリンピックをやるのか、ということをいう人がいて、なんかそれらしい勇ましい言葉に聞こえるが、オリンピックをやることで死者が増えるのか、増えるのであればどれほど増えるのか、全く科学的な声は聞こえてこない。もちろん、海外からの入国者が増えるので、級数的に感染が増えるという予測めいたことを発表している人もいるが、こんなことは昨年の感染者予測でさんざん煽っていたマスコミが一番、信頼性がないことに気付いているはずである。

人命は大事だけど、オリンピックもやる。もし感染が拡大する兆候があれば、延期、中止をしかるべき時に判断すればいいし、開催後に感染者数が高止まりすれば、緊急事態宣言を出せばいい。そこの因果関係が曖昧なままで、人々の不満のはけ口として、政府やオリンピックを使う一部の人たちの行動は、見てて非常にがっかりする。

平等についても、世の中は決して平等ではない。これは生物の宿命であり、だからこそ進化が行われてきて、今の形状に至っているわけであり、生まれながらにして平等、ということはあり得ない。もちろん、それを是正しなければならないので、憲法に生まれながらに平等であるべき、とういことが歌われているのであり、平等になるように政策で誘導するべき部分はあるが、全てが平等になる事はあり得ないし、過度な平等を追求した結果が、共産主義であり、ソ連という実験国家の失敗であるとも言える。皆が平等なユートピア的な社会は成長を阻害する。スピードと革新が生まれないからである。特に革新は不平等であったり、劣等感があったり、凸凹があるからこそ生まれるわけで、民主社会主義的と言われる日本の文化では過度に平等を求めすぎるから、本質的な革新が生まれないのかもしれない。筆者は一部上場企業で勤務しているが、社内でも異常に平等を重視する傾向は強い。例えば、評価の基準と可に公平性を求めるのは分かるが、文化として平等を重視してしまう。それが年功序列的にもなるし、革新や変革、スピード感を失わせているのだろう。