岡本太郎が言う芸術の本質は今日の芸術という著書にあり、当方は非常に共感しているという話を以前に書いた。これは哲学的なところがあるのだが、彼曰く、芸術は美しくあってはならない。これは芸術というのを哲学的にとらえて人間活動の精神の発露として芸術を追求していった結果、小手先の技術ではなく、物事の本質を表現することこそ芸術だ、という感覚であり、かなり抽象的にはなってしまうが、そういう面で見たときにパブロピカソの芸術作品に当方は非常に惹かれるのは事実である。
ゲルニカやアヴィニヨンの娘たち、これらは衝撃的であった。岡本太郎の作品でいうと太陽の塔や明日の神話、これらも見てると感動してくるのは事実である。
一方で、色彩や構図、被写体自身、これらの美しさを切り取る、という面での芸術活動というのももちろんあると思う。この活動を含めて岡本太郎は言っているのかもしれないが、当方の視点ではやや別物である。
日常の美しさを切り取る、これは写真家にも通じるものがあるかもしれないが、根源的に美しく感じるものは存在してるわけで、これはそれぞれの文化的な背景もあるかもしれないが、例えば夕日に染まる海岸線を見ると、これも美しさで感動を覚えることがある。この一瞬のとらえ方に秀でた人間というのも存在しており、アンリマティスを題材にしたフィクション小説を読んでて、彼はそうであったのか、と認識するに至った。
切り取った場面を独特の色彩や構図にとらえなおして、芸術作品に落とし込む。これについても特に技法を競うわけではなく、真に美しい、誰から見ても美しいものを作り上げる、そういった気概でいる芸術家も存在しており、それが達成されると感動を生み出す。
ここにも認知能力の差というものが影響しており、ケーキを切れない非行少年という本ではないが、個人による認知能力の差というのは、我々が普段認識しているよりも、人間の中での個体差が大きい。一言で乱暴に言うと繊細さということで表現されるのかもしれないが、芸術家というのはナイーブな反面、認知能力が高く、色々なものに敏感であり、美しい瞬間を見つけ出すことに秀でている人がいるのである。ナイーブだからこそヴァンゴッホのように自殺にまで行ってしまうこともあり、話は飛ぶようであるが、三島由紀夫なんかもそういう世界の人間のように思う。ナイーブだからこそ、美しい瞬間を切り取りそれを表現することに長けていた。
現代でいうと色んなものに過剰に反応しすぎる人は、一応病名がつくらしいが、それくらいこれは恐らく遺伝的に細かいものに反応する特性が生き残っている。集団の中にそういう人間がいると、外敵から逃れるのに役に立ったのだと思う。そういう遺伝的な傾向が極限まで触れるとヴァンゴッホや三島由紀夫のように美しい瞬間を切り取る行為に長けた人間になっていくのかもしれない。芸術家というのはそういう意味では大変な職業であるし、この観点から言った場合の芸術家は選ばれし人間であり、だからこそ岡本太郎の論点とはちょっと別のところから考えるべきだろう、と思う次第である。