持って行きどころのない宣言延長

緊急事態宣言が東京都では延長された。他の宣言地域も同様に延長されたわけであるが、例によって延長の根拠はよくわからない。よくわからないというか、延長の根拠はないのだろう、延長を則したのは空気感だからだ。

宛てにならないとは思いながらであるが、世論調査の結果などを見ても半数以上が宣言の延長を支持している状況であったので、どんなに科学的根拠があったとしても、宣言の終結を言うことはできないのだろう。菅総理にしても各都道府県の知事にしても、3月の大阪で解除を早まったというトラウマがあり、誰も解除を言い出せる状況にはない。

マスコミはマスコミで、誰かが解除を口走って、解除に至り、少しでも感染者数が増えようもんなら、その誰かを徹底的に攻撃するのだろう。昨日、テレビ朝日の報道番組のキャスターは、緊急事態宣言が延長されても収束する気配がないことに憤りを示していたが、誰に対する憤りなのだろうか。彼らはそれがさも政府が悪いように報道するが、政府にしたって緊急事態宣言以外に手がない、それに尽きるわけである。

緊急事態宣言については巷の空気感がかなりの割合で緊急事態宣言は不要だね、そうならないと解除するきっかけを失ってしまっている。3月の大阪の検証もなされないまま、空気だけで語ってしまう。その空気を作っているのはマスコミであることを十分に認識すべきだろう。

3月の大阪の検証というのはどうなのだろうか。変異株に置き換わった、ということが言われているが本当に変異株は1.7倍とか2倍の感染力なのだろうか。確か英国で出た論文にそう書かれていた、というのが始まりでそこから壮大な独り歩きというか、便利な枕詞として不安を煽りたいマスコミに徹底的に活用されている。視聴率を稼ぎたいだろうから、不安を煽るマスコミにはうってつけの論文だったのだろう。ただ、コロナウイルス自体世間は一年程度の経験しかなく、変異株に至っては、その論文にしても圧倒的に初期調査の結果のみで、統計学的に精査されているのかもわからないような初期報告をしているだけである。

統計学というか、科学の検証というのは通常観測されるノイズを除去していってこそ、効果や結果を測定できるというのは常識であり、それがなされないと本当のことは分からない。もちろん、その検証ができなかったから初期報告をBBCなりが報道したのであろうが、その後検証は聞こえてこないわけである。

コロナウイルスの新規感染者数の推移を見てると、もちろん国にもよるのであるが、ロックダウンのような規制の影響もあるが、その他の感染対策の影響もあるし、季節要因もあるように思われる。特に昨年年末の感染拡大は世界各国で見られており、これは人々が外出する季節であったことが要因として圧倒的に大きい感じがする。そういう意味では日本の3,4月は人が動く季節であり、このあたりに感染者数が増えるのは当然であり、インドの感染爆発も3月はインドのお祭りの期間であったから、というのが大きい。

民主主義とは何なのか (文春新書)

ウイルス自体の感染力というのは何を基準にどういったケースを想定して言っているのかまったくもって理解ができないが、そんな事より社会要因の方が圧倒的に効いてくるのである。何をもって1.7倍と言ってるのかよくわからないが、この言葉に踊らされているのは、まずマスコミ、そして科学リテラシーのない大多数の日本国民なのであろう。変異株とオリンピックを結びつけるような謎の報道すらある。選手が大挙として来るとどんな変異株が日本に持ち込まれるか分からないというもので、一見その通りのように思うが、そんなことは日本国内でも起こりうるわけであるし、いまでも海外からの渡航者はいるわけであり、そうであれば完全に国境を閉鎖すべきであるし、オリンピックだけ悪者にするのは違う。

米国では一年も前にフロリダでNBAのPlay offをバブル開催していた。豪州や米国ではテニスの4大大会をバブル開催していた。それを行って感染者数の大幅な増加は見られたのだろうか。日本でもテスト大会の国際大会は開催しているし、野球やサッカーで数千人の観客を入れてのイベントも行っている。こういうイベントの検証は済んでいるのだろうか。マスコミはそういう事を報道すべきではないだろうか。恐らく、「じゃー問題ないじゃん」という結論になってしまって、空気感と相いれない内容になってしまうのだろう。そうすると国民が色んな意味で冷めてしまうので、報道する側が面白くなくなってしまう。そんなどうでもいい価値判断で空気を決めていっているのである。

パラダイムシフト

コロナウイルスは働き方であったり、人生観であったり、色々なものにパラダイムシフトを起こしたと言われている。スペイン風邪以来の全世界での感染症の蔓延と言われるので100年に一回の出来事と言ってもいいだろう。これを機に世界は変わる、そういう事なのかもしれない。スペイン風邪の後にはブラックマンデー、世界恐慌が続き、第一次世界大戦、第二次世界大戦と二度の対戦が起きた。100年に一度の出来ことが起きるとそういう歴史的な大転換がなされるのは歴史の常なのであろう。

リーマンショックも大恐慌以来の100年に一度の出来事と言われた。実際に株価の動きとかを見てもそうであったのだろう。バブルの崩壊と似たようなところがあり、一流企業であっても一夜にして破綻するような恐怖を市民に植え付けた。

東日本大震災は1000年に一度と言われている。9世紀だったか10世紀に起きた地震以来の規模の地震であったようで、そういう意味で1000年に一度の出来事であった。これは基本的には日本への影響がほとんどすべてであるが、ここにおいても多くの人々の人生観を変えることに繋がったと言えるだろう。

2008年のリーマンショック、2011年の東日本大震災という形で、100年に一度、1000年に一度という事象がこの時は頻発というか立て続けに起きたことになる。これはリーマンショックが先に起きたので、両者の関連性はなく、偶発的なものであることは間違いないが、特に日本においては生活において意識が変わったと思われる。

勿論90年代から続いていた失われた20年とか30年とかの経済成長が得られない時代背景もあり、当時は既にパラダイムシフトを自律的に起こそうという流れがあった。99年、00年前後にはウーマノミクスという言葉が生まれてきて、社会的に大きく変わったのは、女性の社会進出を則す動きであった。00年代後半くらいまでは寿退社という言葉があったが、10年代に入るとなくなってしまったと言っても過言ではない。

これら三つの事象、リーマンショック、東日本大震災、ウーマノミクス、は繋がっていると感じる。特に2010年頃から共働き世帯が急増しているのである。これは男性の収入だけでは安心して暮らせないという圧力が限界まで達したこと、そしてそれが東日本大震災やリーマンショックで明るみになったことが引き金となり、女性は生涯社会で働く必要があるという意識に変わっていったのである。

対立の世紀 グローバリズムの破綻 (日本経済新聞出版)

もともと若い世代はそういう意識だったとみる向きもあるかもしれないが、この100年に一度、1000年に一度のイベントは国民の意識に大きく影響したと見える。2010年以降は女性の社会進出というか、結婚しても出産しても仕事を辞めない人がかなり増えている。これは厚生労働省の共働き世帯の比率のグラフを見ても明らかである。

これらが何を生み出したかというと、実は貧富の差というか、格差を増大させる方向に進んでいるのだと思う。シングルマザー、シングルファザーの増加と、共働き世帯の増加、これらが世帯当たりの収入の格差を呼ぶわけである。世帯というくくりは忘れられがちであるが、住居費、光熱費、そういった観点から共働き世帯は優位になるが、そうでない世帯は不利になる。一人当たりの食費は変わらないが、住居費などの負担の軽減が可処分所得の増大を生む。世帯というか家族の多様性が増したことは良いことなのであるが、しかしながら、これが世帯間格差を増大させる方向に繋がっている。

結果としてリーマンショック以降、2010年以降と言ってもいいが、住宅の価格は上昇を続けている。これは共働き世帯が購入できる住居の価格レベルが上がっているからである。少し考えてみると当たり前のことであるが、20年前は男性の収入のみをベースに65歳なり、70歳なりまでの収入でローンを計算していたが、現代では共働き世帯は男性、女性の生涯収入をベースとしてローンのプランを考えているのである。これは大きな違いであり、住居の価格は上がるわけである。

一方でシングルマザーの貧困と巷では記事もよく出ているが、これも自明の理であるが、シングルマザーはその相対比較にいおいては収入面で一番不利になってしまう。この人たちは共働き世帯が相対的に収入が増えたことによって、賃金動向、GDP動向からは隠れがちになってしまうのだが、相対的に貧困が進んでいるということになる。格差の助長はリーマンショックと東日本大震災が起こした。皮肉なようであるが、これは意識の問題が生み出したものであり、誰にも止められないのだろう。そういう状況においては、税制等を早急に変える必要があるのだと思う。専業主婦がいる世帯を前提とした昭和の税制では、現代の家族には対応できていないのではないだろうか。

視野の広さ

先日も国会議員だったか地方議員だったか覚えていないが、LGBTは子孫を残さないから生産性がないというような発言があったと、残念なニュースがあった。この昭和の感覚には目を覆いたくなるが、短絡的な発想と言えるだろう。

まずこういう発言をする人は科学を知らないし、非常に狭い固定観念しかもっていない。まず科学の論点から言うと、遺伝子学ではLGBTになりやすい遺伝子というのがほぼ見つかっていると言っても過言ではない。二卵性双生児に比べて、遺伝子情報が全く同じである一卵性双生児の方が兄弟(もしくは姉妹)そろってLGBTである確率が統計的に有意なレベルで違いがあるという統計結果を示されている。その統計的研究から遺伝子情報を探る研究が行われており、LGBT遺伝子が存在するであろうことが言われている。

生命の長い歴史の中で、脊椎動物であり哺乳類である我々人類は、性が異なるいわゆるオスとメスが遺伝子情報を統合することで、子孫を残し、そして増やしてきた。これは多くの生物に言えることであり、もちろんオスとメスが存在して、異なる性との間でしか子孫ができないのは事実である。

そのために生物界では様々な方法でセックスアピールがなされるし、お互いに性的に興奮する仕組みもできており、人間も生殖適齢期になると異性に強く惹かれるように設計されている。設計されているというと言葉が適切ではないかもしれないが、進化論的には、そのように設計されなかった生物は淘汰されていったということである。生物の一般論としては、異性に強く惹かれなかった種は広く子孫を残すことができず、そのような生物種は淘汰されていくのである。

その観点から言うとLGBTという存在も生命の進化上は相応しくないように感じられるかもしれないが、遺伝の多様性、複雑性を考えるとそうではない。ここに多様な視点を持つことと、長い視野で時間軸を持つことの重要性がある。

以前にも書いたような気がするが、天才的な文化人類学者だったか遺伝子学者が、LGBT遺伝子は子孫繁栄に有意な遺伝子であることを論理的に説明した。LGBT遺伝子というから相応しくないように感じるが、ある遺伝子を持つ例えば女性が、男性に対して魅力的な例えばフェロモンを出すことができ、それを武器に早期の結婚や多産をできるということがあるとする。その息子にも遺伝子が受け継がれる場合、その息子は男性に対して魅力的なフェロモンを出すことになるわけである。この息子は子孫を残さないかもしれないが、最初の女性が多産であれば、全体として種を増やす方向に行く可能性はある。

長い歴史の中で、男性に異常に好かれる遺伝子というのが淘汰されずに生き延びてきたのであれば、上述の仮説が成り立っていることであり、そのLGBT男性の世代では子孫を残さないかもしれないが、前後の世代、親せきを考えると子孫を残した数は他よりも多いということはあり得るのである。だからこそ重要な特徴であるし、そのこと自体が多様性の発露でもある。

民主主義とは何なのか (文春新書)

こういう論理を議論することが本当の意味での正しい政策につながるはずであるが、とにかく短絡的な思考回路の人間が多い。これはその方が楽だからであるが、楽であること以上に、論理的な思考をできない人が世の中には思った以上に多いというのが実感だ。これは高等教育での数学や科学の軽視が招いた日本としての問題点であろう。論理的な思考ができない国民は、正しい選択ができなくなる。そういう国民が選択する国会議員、選択された国会議員が政策を決めていく、このような民主主義はこういうところからも破綻していくのだと思う。