保護主義の是非

昨日米国のバイデン大統領の施政方針演説が行われた。その中で気になったのは、保護主義の継続というか、アメリカ国民の税金をアメリカ製品の購買に使うようにするという発言である。これをもって、トランプ大統領時代からの米国の保護主義路線が継続されるという判断で報道がなされている。

ここでいう保護主義というのは何であろうか。自国産業を保護するという意味の保護であり、関税障壁を設けて、自国産業が他国からの輸入品に比べて有利になるように誘導することである。そう考えるとこの政策をとっていない国などあるのだろうか、そういう疑問が出てくる。もちろん、EUやTTP、ASEAN、旧NAFTAというブロック経済圏において関税を下げて自由な貿易を推進しようという取り組みはあるが、それぞれ合意に至るまで相当の議論を重ねて、100%関税がない状態と言えるのはEUくらいではないだろうか。

各国経済規模、所得水準、伝統的な産業構造、これらが全く違うわけで、完全な平等主義に基づくと、いろいろなひずみが出てしまう。日本も過去にはGATTの交渉で牛肉とオレンジについて、輸入障壁を設けたいという意向を示していたし、今でもコメの輸入には関税が付きまとう。これは不誠実な政策なのだろうか。

勿論、大きな時代の流れとしてある意味では自由貿易というのが全世界の人々を豊かにしてきた、生産性の向上によってもたらされた多くの商品は、自由貿易があるからこそ販売することができ、生産者の利益になってきたという側面はあるが、これは本当に全世界の人間に寄与しているのだろうか。大企業の販売増加や成長には間違いなく寄与している。そういう観点でいうと自由貿易は正しい道のように見え、特に大企業の従業員には恩恵があり、そこからトリクルダウン的な発想がベースとなり、全国民を豊かにしたという理屈なのだろう。

民主主義とは何なのか (文春新書)

しかしながらここにきて問題は、トリクルダウンというのは正しい理屈なのかということだ。これは富裕層と呼ばれる人間が自分の正当性を担保するために、用いている無理矢理な理論ではないか、昨今では思うわけである。コロナ禍という状況になり貧富の格差は広がっている。富める者はさらに富、貧しいものはそのままだ。ここの根本理論が崩れつつある。

そうなると自由貿易も誰のための自由貿易であったのか、という疑問に行き着く。これは先進諸国の大企業のためであったという可能性がある。中小零細企業の中には自由貿易の進展によって苦境を余儀なくされている人たちも多い。これは現在のバイデン政権の政策を見れば明らかであり、それを支持する層がかなりの数いるわけである。

保護主義と自由貿易、これは対立する概念である。しかしながら、国家主導で金融政策、経済政策を行うという色が強くなっている21世紀において(これはリベラル化が進んだ現代において逆説的に聞こえるが、事実この面は強くなっていると思う)、保護主義というのは当然と言えば当然な政策に見えてくる。国家というものが強く関与して、経済成長を競う、これが常態化しつつある。20世紀のように勝者と敗者を分ける壁が強固ではなくなってきたので、先進諸国と呼ばれるところがなりふり構わずという姿勢になってきたのかもしれない。

これはひとえに中国の台頭の影響ではあると思うが、国家の関与を強めていくと、歯止めがききづらくなる。国民は税金を使ってやれることは何でもやって欲しいと欲望はエスカレートしていく。行き着く先は武力行使もあり得るということで、これが19世紀末からの全体主義を招いたともいえるわけであり、ここにも民主主義の悪い面が垣間見えるわけである。

太陽の塔

先日、太陽の塔の制作の舞台裏を描いたドキュメンタリー映画を見た。岡本太郎の世界観を詳らかにする映画であったが、関係者の証言が興味深い、良い映画であった。

太陽の塔は1970年の大阪万博のために作られたものであり、今でも大阪市内の公園に現存する。当時、高度経済成長をし、合理性や先進性が重要視されていた日本において、全く逆を行く、原始性、生命の摂理を表現するような巨大なモニュメントを制作することは、想像もできないような大きなチャレンジであっただろう。

中でも気になったのは、塔自体の制作である。今でこそ大きなモニュメントがそこにあるので、製作が可能であるというか、可能であったことは理解できるが、当時は岡本太郎の思想を反映したあんなにでかいものを作ることは、相当大変であったようで、製作指揮者の方は戸惑いを今でも浮かべていた。確か100分の一スケールの物だか50分の一スケールの物を岡本太郎が制作して、それをパーツに落とし込んで制作していったのだが、岡本太郎ができるだけ自然な風合いというか、表面のタッチを追求したこともあり、難易度が高かった。

パーツをくみ上げていって、丹下健三が作った屋根を突き破るように製作が完了したときには大きな感動が得られたであろう。しかも内部展示は、生命の起源を感じさせるような展示になっており、そのスケール間には脱帽するばかりである。

この辺は岡本太郎の世界観もあるのだが、当時の日本の勢いも表しているのだと思う。少し前の中国のように、結局できないことは何もない、と開き直る感じというか、そこに岡本太郎の世界観があるなら、きれいに表現してやろうではないか、そういう気概があったのだと思う。いまだと予算がとか、コンプライアンスがとか、安全性がとか、色々言う人がいるが、そういうのを無視して進められる勢いがあったのだろう。

その勢いは経済成長と戦後復興があればこそであり、それが日本に自信を取り戻す中で、勢いを生み出していったのだが、太陽の塔と同時期の制作で、一体で世界観を表現したとも言われる明日の神話が表現するところが、アンチ経済発展、アンチ文明、的なニュアンスであるところが、岡本太郎が秀逸なところであろう。芸術表現もさることながらその哲学と、哲学を表現しきるところが、岡本太郎なのである。

純粋な芸術表現という意味での、人間の精神の発露という観点はピカソの表現力には岡本太郎は及ばないと思うのだが、世界観というか自身の哲学をその時代の社会性に対する攻撃として表現するという意味では、そこの思考力は秀逸であり、これは若い時代にパリに行っていたこと、その時代の哲学者や文学者を含むような当時最先端であった欧州の芸術家との交流があったことが大きいのであろう。

先進地域で、先進的なアイデア、思考にもまれることは重要であり、それがあるからこそ社会に対する論評や分析ができるようになる。内に籠って、評論家になる事の危うさが、総合的に示されていると思う。外に出て、多様な感性に触れることでこそ、国内というか内部の批判ができてくるものであり、岡本太郎の精神性、日本文化、世界文明へのアンチテーゼと言えるような作品のドキュメンタリーを見て、この点を再認識するのである。

アメリカのブランド

南北戦争といわれる内戦が終わった後、アメリカは疲弊していた。しかしながら産業革命がなされ工業化がなされたこともあり、その後急速に都市化が広まった。大都市にある工場で市民は働くようになり、農業や畜産業で牧歌的に暮らしている時代は終わった。

大都市に市民が集まるようになると、食糧問題が発生した。農家が作った野菜や、牧場から出てきた食肉を、都市まで運んで市民に売るという流通の問題が発生した。19世紀中盤から後半にかけてのフォードが車を大量生産する前で、さらに鉄道整備もこれからという時代において、物流が整っていなかったのである。

昨晩見たアメリカの巨大食品企業、というドラマによると、当時販売されてた食品ははっきり言ってどんなものか得体のしれないもので、腐っていたり、危険な化学物質に浸透されていたり、今日の基準でいうと毒のようなものを食べさせられていたようだ。アメリカ人にとって胃痛というのが国民病だったらしい。

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当時はFDAもなく、食品安全基本法のようなものもなく、賞味期限や、禁止化学物質、こういったものを取り締まる法律もないわけで、今の基準で議論するのはよろしくないが、今の基準でいうと想像できないくらい質の悪い食品が流通していたのだと思われる。

そんな中生まれてきたのが、Heinzのケチャップであったり、Cocacolaであったり、ケロッグのコーンフレーク、Hersey`sのミルクバーであったり、というのが生み出されてきた、そしてその発明には色々なドラマがあり、困難があった、というのがこのドラマの本質のところであり、なかなか興味深いものであった。

コカ・コーラは、モルヒネの代用として、コカの葉とコーラの実、カフェイン、ハーブ、いろいろなものを調合して、最終的には薬用炭酸水を混ぜてみたら、美味しかったし、当時はコカインの成分を取り除いていなかったから、興奮作用もあったようで、かなり怪しい飲料だったようだ。ただ、禁酒法的な流れが発生したときに、このSoft drinkという概念が時代にもマッチしたようで、アルコールがないが、爽やかになれ、高揚感が得られるこういった飲み物が売れていったようだ。

また、コーンフレークも、最初は医療用に消化のいいものを提供するために、細かく砕いたグラノーラを提供していたところ、院内で相当の人気になり、さらに潰してフレーク状にすると触感もよく、その後市販するためには砂糖を大量に投入するといいだろうということで、現在の形に近いものになりケロッグさんが販売したものである。砂糖を大量投入する時点で医療用の物から遠ざかるのだが、味が良いので売れたようだ。

当時のアメリカ人は金もうけのためなら何でも許される状況だったようで、コカ・コーラにしてもケロッグにしてもエピソードはドロドロである。産業スパイがいたり、人の弱みに付け込んで金を駆使して権利を買ったり、ロビー活動で自分に有利なように法律を制定したり、たった100-150年前の出来事であるが、隔世の感を感じる。

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ゴールドラッシュ時代、南北戦争、二度の大戦、冷戦、その後の一極支配、とアメリカ人は基本的には強欲ではある。常に争いながら、トップに君臨すべく生きている。これはイギリスから移住してきた時から変わっておらず、強欲で夢見がち、この本質は数百年経っても変わらないのだ、と思った次第である。