糖尿病になりやすい遺伝子

糖尿病になりやすい遺伝子

現在読んでいる書籍によると、糖尿病になりやすい家系というか遺伝子というのはある環境下では生存に有利になるから残っているという学説があると書かれている。具体的には極低温環境下において凍傷で死亡してしまうリスクを血糖値が上昇することで防ぐというメカニズムがあるらしい。シベリアの方から来たデミタス系と言ったら語弊があるが北方系のルートで渡ってきた日本人の祖先はそういった遺伝子の効力により厳寒のシベリアを超えて日本列島まで来たのかもしれない。

世界は「ゆらぎ」でできている~宇宙、素粒子、人体の本質~ (光文社新書)

鬱になりやすい遺伝子というのもあり、これもある環境下では生存に有利であったという説がある。具体的には鬱症状になると気力がなくなり、まず狩猟などのリスクテイク的な行動をしなくなるという。また、鬱症状の時には人との接触を避ける傾向があり、現在のような感染症の蔓延から逃れることもできたのではないか、そういう考え方もあるようだ。

ホモサピエンスの誕生から20万年の歴史を経て現在の人類は存在している。そこには現在の人類から見ると生活には不便と思われるような遺伝的な特徴も人類が生き延びてくるために必要だったということが言え、多様な遺伝子を持つに至ったことが人類を反映に導いたのだろうということを感じさせてくれる。

そんな中以前にも書いたがPolitical correctnessではないが、人はこうあるべきだ、という考え方が強まっている。個人の意見を尊重しすぎる風潮があるが故の反動であり、リベラルが進みすぎた社会に発生してしまうことなのかもしれないが、結果として多様性を失う方向に行ってしまう。個人に簡単なレッテルを張ってしまい、例えば日本国民を二つの種類に分けて、反戦派と好戦派、富裕層と貧困層、正規雇用と非正規、こうやって二項対立を煽ることも常套手段となりつつあるが、ある意味ではリベラル化が極まっている民主主義のなれの果てなのかもしれない。

なぜ、成熟した民主主義は分断を生み出すのか アメリカから世界に拡散する格差と分断の構図

思想やアイデンティティの面だけであったら、例えば政治体制が民主主義というものから違う体制に移行していけば、未来の世の中では多様性の復活というものがみられていくのかもしれないが、リベラルな考えは、出生前診断等で生態系の方にまで影響を与えつつある。現在の人類の価値観だけで、利益判断を行い、例えば鬱の遺伝子を撲滅したり、糖尿病になりやすい遺伝子を撲滅したり、そういった設計が可能な世の中になるかもしれない。そうなると20万年の積み上げというかもっと言えば38億年間地球環境に向き合って積み上げてきた生命の遺伝的な多様性が失われていくのかもしれない。ひどく簡略化した物言いでいうと、現代人のワガママが将来の多様性を奪っている、そういう言い方もできるのかもしれない。

ケーキの切れない非行少年たち

ケーキの切れない非行少年たち

ちょっと前に話題になった「ケーキの切れない非行少年たち」を改めて読んでいる。

ケーキの切れない非行少年たち (新潮新書)

内容は色々と衝撃的で新鮮なものであるが、なんと言っても前にも書いたことであるが、目の前に起こっていることに対するとらえ方が、人によってあまりにも大きく差があることが実例を持って語られていて興味深い書籍になっている。もちろん、発達障害の少年の話で合ったり、一般の例から言うと一部特殊なケースが含まれているという面があるが、これはある意味では一般社会の縮図であり、一般社会においても、職場で隣で仕事をしている人であっても、目の前に起きていること、同じ文章、同じ言葉を聞いても、まず価値観の違いからとらえ方が違うという面もあるが、認知の能力の差異というのはどんな個人にも存在するので、認知内容の差が発生している、この事実に改めて気づかされるのである。

とかくビジネスの分野では、特に私のように国際交渉の場に多く出席する立場であると、意見の対立というのは日常茶飯事であり、感情的になることすらある。それはそれでビジネスを展開する上で大事なプロセスであるが、認知能力の差というのは、国々の価値観の差、文化の差に隠れがちであるが、存在しており、これが前提条件の違いで合ったり、ものの見る角度の違いにつながっているのだろうと、感じる次第である。

認知能力という意味では、もちろん個体差というか個人差もあるのだが、興味深いのは人間のバイオリズムであり、今同時並行で読んでいる本によると、「揺らぎ」という物質現象の根本を担うものにより、人間にもいくつかのバイオリズムがあるということだ。もちろん、朝と夜にでは体内の各器官の働きが違い、発揮される認知能力にも影響してくるということもあるだろう。

世界は「ゆらぎ」でできている 宇宙、素粒子、人体の本質 (光文社新書)

人間には一番有名な25時間の周期があり、毎朝太陽の光でリセットされるというのは有名な話であるが、それ以外にも体内器官の周期というものが存在しており、人間活動もそれに影響を受けている。それらが認知能力の差を生み出すケースもあるだろう。

序盤から話題がだいぶ変わってきたが、何が言いたかったかというと、認知能力には個体差、個人内差両面で、想像するよりも大きなギャップが存在しているということである。その存在がある上で社会生活を送らないと、いろいろな場面で理解できないことに遭遇し、それがストレスになってしまう。

これは現代社会が抱えている闇であり、平等とか人権という問題を過剰にリスペクトしすぎた結果として、国民は均質な存在であるというイメージがつきすぎてしまったことにも起因していると思う。富める人も貧しい人も、賢い人もそうでない人も多様な人がおり国民を構成しているというのが30,40年前の社会であったと思うが、人権とか差別の意識の高まりもあり、なんとなく多様な人がいることをマスメディアなんかでは伝えられなくなっている感じがある。テレビがつまらなくなったという人がいるが、これが一因だろう。これによって、我々の意識の中に、人はある程度均質なのではないか、こんな幻想が広がってしまっているのかもしれない。それが、認知能力にそもそも差があるということを忘れさせてしまい、現代人の多くのイライラにつながっているのではないだろうか。

政治家と国民

政治家と国民

政治家と国民というのは対立軸として描かれがちであるが、そもそもは民主的な選挙が行われている日本のような国では、選挙が行われ国民の多数の指示を受けて政治家として例えば国会議員、地方議会議員に選出され、行政や立法業務にあたる、そういったものであり、特権階級でもないし、一国民でしかない。

二世議員に対する批判や、緊急事態宣言中にスナックに行ってた議員の批判が出るが、それらの議員も正当な選挙によって選出されており、下手をすると不祥事を起こしても、地元では禊が済んだとか言って、再選されている議員も数多くいる。そこには一般的な国民といわれる全国一般の考え方とは違い、地元の理屈が働くわけであり、例えば大空港を作ってくれた、高速道路を建設してくれた、そういった成果が地方ではことさら強調されることもあるのだろう。

それは間違ったことではなく、もちろん地方の活性化に役立つことは地方の論点、地方の価値観で語ることが大事であり、国政選挙についてもそういった設計になっている。

民主主義とは何なのか (文春新書)

先日アルゼンチンの保険相がコネを使ってワクチンを接種させていた事実が発覚して辞任したが、これは勿論ルールに従っていないケースであり批判されてしかるべきなのだが、これを見てて思うのは、「そういう国民性なんだろうな」、というちょっと乱暴ではあるが、そういう認識である。二世議員であっても、ちょっとコネを使って悪いことをしてしまいそうな人でも、国民がそれを良しとして選出している、これが事実であり、そこに至る投票行動を持つ人がいるのである。二世議員の弊害を語る人がいるが、二世議員の利点を感じている人がいるわけで、コネを使って怪しい行政を行う人がいる弊害もあるが、ぎりぎりの橋を渡ってでも強引に政策実行を行うという意味で、支持されるケースもあるわけである。

物事の二面性を意識することの重要性を再認識させられる。一方にとって良いことが、一方にとって悪いことにすぐ転換されてしまう。絶対的な真理というものは、こういった俗世の中には存在せず、言い過ぎかもしれないが多くのことで常にプラスに受け取る人とマイナスに受け取る人はいるはずであり、一人の論理で正しいと結論付けるのは危険をはらむ。以前にも述べたが、軍備増強、この政策一つとっても判断は非常に難しい。安全保障という観点、隣国との関係性という観点、国家予算という観点、様々な要素が絡むのであるから、なおさら善し悪しの判断が難しい。問題は難しい判断を迫られる問題に簡単な解釈を与えることではなく、難しい問題には様々な論点があり、人のよって優先順位が違うから論争になり、政策決定が難しいのである、という意識というか、認識を多くの人が持つことである。この認識を深めたうえで議論を行えば、意見の違う人を尊重しながら議論を行うことができるし、それによって納得感が得やすくなる。

世界を変えた14の密約 (文春e-book)

選挙というところに戻るが、特に政策論争のところで、一つの問題を簡単な解釈で善悪論にもっていこうとする向きが非常に多い。それが故に議員候補者の本質的な部分はよく見られず、聞こえの良い政策に簡単な解釈を付けて訴える人に票が集まりやすくなっている。これは何の問題なのかと考えると、結局は有権者の教育レベルの問題なのではないか、教育レベルが高ければ、簡単な解釈について疑問を持つことができるわけであり、もっと本質的なことについての優先順位が高まるわけであり、民主主義の根幹を支えるのは、教育である、そう結論付けられるわけである。