経済支援と副作用

スペインが中小企業対策に数兆円の国家予算を充てることを決めたり、日本でもひとり親世帯への支援が決まったり、コロナによる経済の変調が始まってから一年経つが、引き続き税金の投入による経済の下支えが行われている。

米国は顕著であり200兆円とも言われる予算が議会の承認を得たので、近々一人当たり$1400の現金が支給されることになる。もちろん副作用についても議論はなされているが、この1年間を振り返ってみると、例えば米国でいえば最初の$1200支給、年末の$600支給がなければ、失業率の高止まり、消費のさらなる低下、株式市場の下落というか崩壊、それらが起きていたのではないか、とは思わせる。

以前にも書いたが税金の投入によって経済のショック死的な状態を避けるというのは賢明な策ではあると思う。激変を緩和することで生活を維持できる人や、経営を維持できる人が多く、その人たちの緊急避難には寄与する。これは災害時に税金で困った人を助けるのと似た仕組みであるという意義があり、財政政策としても批判が出ないのだろう。実際、東日本大震災における復興税は莫大なものであり、先ごろ報道されていたが、被災地の原発から30㎞内の被災者は家庭当たり4人家族なら1億円近くの支援金が投入されている。その報道によると、1億円で豪邸やレクサスを購入した人も多数おり、批判を呼んでいるようだが。

難しいのは、政策には機動性がないが、経済は日々変わっているということであろう。また、政策というのはある程度、例えば支援する対象を均一化して見ないと、大人数への政策決定ができないということもあり、この二点のギャップが正しい財政政策を拒む要因となる。

まず時系列の機動性であるが、緊急の危機の時には、緊急的な財政出動が必要になる。20年の春先のトランプ大統領の一人当たり$1200の政策決定は早かった。経済が急激な変調をきたし、議会も早急に承認した。皆の意見が一致していたから、とみることもできる。一方で、今回の200兆円については11月の大統領選挙前後から案が出ていたが、大統領選挙、就任式、官僚の入れ替え、議会選挙、これらの要因があり、ようやく3月に成立した。11月の株価と3月の株価を比べるだけでも顕著だが、状況は変わっている。そこに政策立案者のプライドや、バイデン大統領自身の公約に対する責任、という他の要素が絡んできてしまうので、政策決定が最適なものでなくなってしまう可能性がある。これがインフレを加速させて、金利上昇を招く可能性があるという論調があるが、政策の機動性が欠けたことによる弊害であるだろう。

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もう一つは先ほどの東日本大震災の例ではないが、本当に必要な人に必要な分の復興支援となっているのか、現在のコロナ禍でいうと本当に経済の激変の影響を受けた人は誰なんだろうか、この点は非常に難しい議論であり、オーダーメードで個人向けの救済は現実的ではなく、ある程度、ひとくくりにしてしまう必要がある。そこでのくくり方に政治的なセンスが出てくるわけで、Go to キャンペーンなどは前政権のセンスであろう。これはくくり方としては筆者はセンスはあったと思っているが、ちょっとキャンペーンで政府が払う支援額が多すぎるので、需要が高まりすぎたきらいがある。それくらい旅行業界の惨状がひっ迫していたともいえるが、結果としてはその後のキャンペーンの停止につながってしまったので、そこは議論の余地がある。飲食業界への支援金についても機動性という意味では仕方がなかったのだろうとは思う。

本当はこれらの政策の副作用についてと、税金と国民の利益の関係についてもう少し書きたいところだが、これはまた時間をおいて、書いてみたいと思う。

災害と税金

日経新聞によると2011年の東日本大震災以降、復興のために10年間で約38兆円が税金から使われ、10年間でインフラ整備、防災設備の整備、これらがかなり進んだということだ。もちろん、あの甚大な被害を見ると、この投資は必要なことであり、38兆円が費やされたことに対しても異論はないし、毎年復興税を支払っていることも止むを得ないことではあると認識している。

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38兆円というと計算を簡単にするためににほんのじんこうを1億人と考えると、一人当たり38万円ということになる。4人家族だと152万円ということになり、年間15万円、月にすると1万2千円強の負担になる。これを多いととるか少ないととるかは個人の考え方次第ではあるが、日本という地震を含む自然災害が多い国土に住む以上、どこで起こるかわからないという意味では、皆で平等に負担するのが最適ではある。

翻ってコロナ対策費用である。米国では200兆円の新たな予算に議会の承認が得られたということで一人当たり$1400の支給がなされるようだ。アメリカの人口を4億人とすると$5600億ドルであり約60兆円はすぐに国民に還元されるという計算になる。$1400の相対的な価値は貧困層の方に大きく、機動的な対応で困っている人に助けが行くという観点から、この政策は妥当だと思う。

しかしながら、残りの140兆円はインフラ整備や環境関連投資、いわゆるグリーンニューディールに向かっていくことになり、ある程度一定の産業や企業に恩恵が行くことになる。これは自由主義を国是とするアメリカにとって恐るべき変化と言えるだろう。民間の活力を失わせるリスクと、アメリカの最大の強みで合った企業の新陳代謝を鈍らせることにも繋がる。

これはイノベーションと国家管理という関係性で考えると見えてくるが、経済の成長期においては官僚主導で方向性を決めて、ある意味国家が管理して成長を則す、これは日本の高度経済成長でもそうだったし、中国の成長期も、東南アジア諸国の成長期でも見られたことである。一方で資本主義が成熟している特に米国では国家の経済、民間セクターへの関与は最小限にしてきたのが歴史だととらえているし、それがアメリカ人のある意味誇りであり、だからこそイノベーションが次々と生まれる社会が生み出されたのだと思う。西部開拓時代のイノベーティブな発想は、国家の管理ではなくゴールドラッシュを求めた人々の夢が生み出していたのである。

だからこそ、ゴールドラッシュ以来の文化の大転換とまではいわないし、もちろん大恐慌の後のニューディール政策のような局面もあったわけで、アメリカが国家関与の経済を持った経験がないわけではないが、この予算規模は非常に大きい。国家の関与というのは一見公平なようで、小さなひずみが大きな不公平感の実感につながる危険がある。国家が関与していないときは小さなひずみはある意味仕方がないととらえられるが、国家が関与してもひずみが残る場合国民の不満につながる。その不満が限度を超えた社会が共産主義だったはずであり、アメリカが一番嫌っていた政治体制である。平等を煽れば煽るほど、国家権力は綱渡りでの経済への関与をせざるを得ず、失業率が下がりきっていないアメリカ社会では、今後の火種は燻ぶったままとなるだろう。

痛みや疲れ

痛みや疲れというのは個人差があるとよく言われる。客観指標があるのかどうか詳しくは分からないし、例えば疲れでいうと、乳酸のたまりやすさや、筋力の個人差、そういったものに左右されるだろうから一概には言えないが、これらは感じ方の個人差の存在を感じさせるものの一つでもある。

例えば10㎞を徒歩で歩いた場合、筆者の家族でいうと妻は疲れやすいが、私は疲れないし、娘たちはその中間くらいという感覚がある。娘たちは「疲れてない」と言いたい年ごろなのかもしれないが、筋力の違い等を考えても私と妻では疲れる感覚が違う。また、例えば痛みに対する感覚も個人差があり、注射をしても痛い人痛くない人がいたりもする。

そもそも痛みや疲れというのは人間として生物学的に何の反応なのかということを考えると、人間として警戒する表現の表れのはずであり、痛みが出るようなことを継続的に行わないように体が発する警告が痛みであり、体力の限界まで行動して死に至ることを避けるように発する警告が疲れのはずである。例えばこれらを失った状態を考えると、どんなに痛い事をしても気にかけないという状態になる。切り立った崖の上に食料がたくさんあるときに自分の体が傷つくリスクを考えて、落下するリスクが高いときはその食料を取りにいかないが、傷つくことを厭わない人は食料を取りに行くだろう。その結果として体に深刻な損傷を与える可能性が高まってしまう。そのための傷みという警告なのだろう。

疲れというのも同様であり、基本的にはどこまでも獲物を追いかけ続けないようにするためのリミッターであると思われる。苦みを感じることや、毒素を接種してしまった時の嘔吐や下痢という症状もちょっと毛色は違うが人間が体を守るために行う行動の一つである。

ではこのリミッターは徐々に解除したりすることができるのだろうか。例えばものすごい量の運動をした後に、疲れを感じれば休憩をするが、本当に体が動かなくなるという状態でなくても休憩しているケースはあり、その程度のリミッターであれば徐々に外していけるのではないか、それを突き詰めていった姿がトライアスリートであり、鉄人レースに出るような人たちの姿なのだろうか。現代人にとっては疲れのリミッターはあまり必要ではないかもしれない。

ただ疲れと違って痛みの方は病気のサインの警告であるケースもあるので上手に付き合っていく必要がある。膝の痛みは将来の深刻な歩行困難リスクを教えてくれているのかもしれないし、内臓の痛みについてもあまり感じることはないだろうが、感じた時には何らかのサインである可能性が高い。そんな事をふらっと思った次第で、年齢も年齢なので痛みとはうまく付き合っていきたい。