歴史は勝者が書くとはよく言ったもんで、例えば明智光秀は筆者が子供の時は、君主に叱られて謀反を起こした小さな人物として書かれていたと思う。ここ数年の本能寺の変ブームで色々な解釈の本が出てきたり、昨年の大河ドラマの麒麟が来るで描かれるようになり、明智光秀の優秀さや、理念が描かれるようになって大きく印象が変わった。
明智光秀は周知の事実ではあるが、織田信長を討ち取り、豊臣秀吉に討ち取られたとされる。その後、豊臣秀吉が天下を取り、秀吉の死後、徳川家康が天下を治めるようになったのは歴史で書かれている王道ストーリーである。その中で、豊臣家が書いた歴史、徳川家が書いた歴史、その後、明治維新政府が書いた歴史が混在する中で、謀反人であること、豊臣家の敵であったこと、一方で朝廷を重視する姿勢を示してもいたこと、こういった明智光秀の根本のところがあるからこそ、時代時代で描かれ方が違ってきてしまうのであろう。
織田信長が粗野でうつけだったというのも、のちの歴史に描かれたイメージであるかもしれないし、それほど歴史というのは不確かなのであろうと考えさせられる。そもそも、出典の歴史書の数が限られており、そういったエピソードも調べてみると、一つの二次資料に書かれているだけ、というようなケースも往々にしてありそうである。
そんな中、麒麟が来るを見てて、もちろん制作側の意図もそうだったのであろうが、豊臣秀吉に関して考えさせられるわけである。彼が農家の出であることすら疑わしく感じる。もちろん、父親は表向きは小作農だったのかもしれないが、それすら住民に対して貧しい出自であることをアピールした可能性がある。当時の戦国の歴史では考えづらいかもしれないが、結果としてその逆転の発想が民衆の支持につながり、統治の安定、迅速な出世を則したのかもしれない。それらを戦略的にやっていたとみる向きもあるかもしれないが、当方が感じるのは、彼は稀代のペテン師であったのではないかということだ。
その場その場で、どういう言い逃れをすれば最適な逃れ方ができるのか、その事に長けた人間というのはどの社会にも、どの組織にも一定程度いるというのが実感だ。その中でも、組織の中でも見られるが、とびっきりのペテン師として名を馳せているというか、結果として上り詰めている人も少なくない。人材育成の教科書とかには、実行力のないペテン師は好ましくないと書かれていると思うが、実社会においては、実行力のない強力なペテン師が生き残ることがあり、それだけで成功している人間もいる。
このペテン師という言葉は定義が難しいものではあるが、その場その場での言い逃れが天才的に上手な人である。言い逃れだけで天下が取れるわけはないと思うかもしれないが、これが天才的なレベルまで磨かれると、それこそ天才的なのである。もちろん、秀吉には他にも、優秀な参謀がいて政策的なことは任せておけばよかったことや、間者を多く使って情報戦に勝ったこと、そういう要素もあったと思うが、そもそものところで天才的な言い逃れができる男だったのかもしれないと、思う。
美化された歴史というのが歴史書では書かれがちであるが、戦国時代を治めて、天下を取った男たちも所詮人間であり、結果を分けることになる要因は些細なことだと思う。そういうことを現代に重ね合わせて例えば、会社の中と比べてみると、天下を取ってるわけではないが、何もしないのに言い逃れだけは天才的な上司がいたりする。そんな人間と豊臣秀吉を重ねたくはないが、所詮人間、という観点から言うと、似たり寄ったりなのかとも思う次第である。