痛みや疲れというのは個人差があるとよく言われる。客観指標があるのかどうか詳しくは分からないし、例えば疲れでいうと、乳酸のたまりやすさや、筋力の個人差、そういったものに左右されるだろうから一概には言えないが、これらは感じ方の個人差の存在を感じさせるものの一つでもある。
例えば10㎞を徒歩で歩いた場合、筆者の家族でいうと妻は疲れやすいが、私は疲れないし、娘たちはその中間くらいという感覚がある。娘たちは「疲れてない」と言いたい年ごろなのかもしれないが、筋力の違い等を考えても私と妻では疲れる感覚が違う。また、例えば痛みに対する感覚も個人差があり、注射をしても痛い人痛くない人がいたりもする。
そもそも痛みや疲れというのは人間として生物学的に何の反応なのかということを考えると、人間として警戒する表現の表れのはずであり、痛みが出るようなことを継続的に行わないように体が発する警告が痛みであり、体力の限界まで行動して死に至ることを避けるように発する警告が疲れのはずである。例えばこれらを失った状態を考えると、どんなに痛い事をしても気にかけないという状態になる。切り立った崖の上に食料がたくさんあるときに自分の体が傷つくリスクを考えて、落下するリスクが高いときはその食料を取りにいかないが、傷つくことを厭わない人は食料を取りに行くだろう。その結果として体に深刻な損傷を与える可能性が高まってしまう。そのための傷みという警告なのだろう。
疲れというのも同様であり、基本的にはどこまでも獲物を追いかけ続けないようにするためのリミッターであると思われる。苦みを感じることや、毒素を接種してしまった時の嘔吐や下痢という症状もちょっと毛色は違うが人間が体を守るために行う行動の一つである。
ではこのリミッターは徐々に解除したりすることができるのだろうか。例えばものすごい量の運動をした後に、疲れを感じれば休憩をするが、本当に体が動かなくなるという状態でなくても休憩しているケースはあり、その程度のリミッターであれば徐々に外していけるのではないか、それを突き詰めていった姿がトライアスリートであり、鉄人レースに出るような人たちの姿なのだろうか。現代人にとっては疲れのリミッターはあまり必要ではないかもしれない。
ただ疲れと違って痛みの方は病気のサインの警告であるケースもあるので上手に付き合っていく必要がある。膝の痛みは将来の深刻な歩行困難リスクを教えてくれているのかもしれないし、内臓の痛みについてもあまり感じることはないだろうが、感じた時には何らかのサインである可能性が高い。そんな事をふらっと思った次第で、年齢も年齢なので痛みとはうまく付き合っていきたい。