DXを拒む世代

デジタルトランスフォーメーションを拒む世代

デジタル機器に対する理解度、活用度、これらが世代格差を持っている事は明らかであり、恐らく過去に高校生にポケベルが流行ったくらいから、見られていた事だろう。そういったデジタル機器の普及が本格的に進んだのは2000年代以降で、携帯電話やパソコン、これらの個人所有が進んだ。2000年代以降は特にパソコンは仕事においても中心を占めるようになり、2010年代以降は携帯電話、タブレットなども仕事の分野に進出してきた。

コロナウィルスの感染拡大により遠隔での仕事が増えるようになり、一気にデジタル機器の仕事という観点での進化が進んだように感じる。これは一過性ではなく、あるべき未来への進化、というか前進が早く起きるきっかけになったという見方が出来ると思われる。

科学の世界でも物事の発明、発見というのは、一過性ではなく、そこから次のミライへ向けた進化を増幅させる機能を持つ事が多く、ノーベルのダイナマイトにしても、エジソンの白熱電球、なんかもそうであるし、例えばスティーブジョブスのMacにしてもIphoneにしてもそういった意味合いを持つ。コロナでの遠隔の仕事と、偉大な発明は違う意味合いを持つのは間違いないが、何かがブレークスルーする瞬間という感じでは似ており、それは継続的なイノベーションを則す土壌となるのだろう。

勿論、産業というのは各種あり、農業部門、工業部門は生産において人の介在がゼロで行われると言う事は今のところないので地理的な制約があるし、サービス産業や運輸部門なんかも地理的な制約に追われる分野ではある。しかしながらそういう分野であっても、また通常オフィスワークと呼ばれる分野ではなおさら、業務のデジタル化、遠隔化、これらは進展せざるを得ない状況になってきている。

社会がそういう変革を行っている中で、働き方改革と同じ現象が起こっているのが世代間格差であり、俗にいうバブル世代という抵抗勢力が見られる。良く言われる事ではあるが、この世代は幻想に覆われている。高度経済成長で成功した親世代の背中を追っており、このまま右肩上がり幻想が強い。それは社会が実現してくれる右肩上がりであり、自分たちが積極的に当事者になる必要性を感じておらず、今まで通り同調していれば、右肩上がりになっていくという幻想である。

同調圧力が強く、バブル世代という言葉とは逆説的であるが、以降の世代と比べると、当事者意識が弱く、自主性に欠ける。00年頃にSMAPの「世界に一つだけの花」という楽曲がブームとなったが、バブル世代の次のロスジェネ世代は、「世界に一つだけの花」世代とも言え、Only oneを目指しましょう、というのが世の中的にも強調された世代であり、これは同調のバブル時代の反動だと筆者は思っている。同調圧力なんか無視して、自分のやりたい方向に進みなさい、という社会運動に近いものである。これによって変わった文化の代表は、ヤンキー文化だろう。同調性が強く要求される社会環境において反動勢力としてのヤンキー文化があった。80,90年代というのはヤンキー文化が強かった時代であり、色んなヤンキー漫画、映画があった。これは同調を強制すればするほど、はみ出したくなるのが、思春期のサガであるからである。一方で、00年代以降はヤンキーは死語になりつつあるし、社会情勢からも、同調性を強制されず、多様性が認められてしまっているので、未知から外れる存在、というのが何か特別なものではなくなってしまっている事の表れなのだろうと思う。

この文化の揺り戻しというか、大きな偏重というのは戦後行動経済成長を担った官中心の日本社会においては、ある程度仕方のない事であって、そういった歪は出てしまう。軟着陸できないのである。その揺り戻しが世代間ギャップを大きくしてしまっており、昨今の働き方改革でありDXでありを拒んでいる。言い方を変えるとそういった変革を拒む世代の強力さを生み出している。このギャップは意外と協力で、大きな断絶を生んでいるが、世代間ギャップなので、何時終焉するかはもう見えており、5年もすればバブル世代の主力は企業の主力から外れる時期が来るので、そこから社会の変革速度は大きく向上するだろう。

海洋性民族

海洋性民族

日本人は魚をよく食べる。もちろん他の国の人々も魚介類を食べるのだが、例えばアメリカ人、特に中西部のような大陸の真ん中にあるような地域では魚を食べるというのはかなり稀な行為だ。そういった意味で、日本人は平均以上に魚介類というか、海洋性の食物を多く消費する方の民族であることは間違いなさそうだ。

海の歴史

日本人の祖先は二系統ありそうなことは昨今多く言われており、南、もっと言えば、出アフリカ以来海岸を移住してきた南方系の、海洋性の集団があり、インドからマラッカ、ベトナムと移動して日本列島に至った民族集団であり、この言い方が正しいのかはわからないが以前の言い方では縄文系と言われた、比較的彫が深いタイプの顔つきの人たちが一つ。もう一つは大陸系と言われる、中国、朝鮮半島から移住してきたタイプの民族があると言われている。世界地図を見た時に、大陸経路と海岸経路が出アフリカで分かれてから、日本列島という有る意味では袋小路で会いまみれるというのは、壮大な歴史を感じさせるし、人類の多様性を改めて実感する。ホモサピエンスが地上に現れたのは20万年前と言われ、そこからは諸説あるようだが出アフリカをしたのが10万年前として、日本にホモサピエンスが住み始めたのが3万年前とすると、7万年の別れを経て、日本列島にて再開した、という言い方も出来そうである。もしかすると10万年かもしれないし、5万年かもしれないが、いづれにせよそれくらいの年月を経て、経路による違いは恐らく大きかったと思われる。7万年とかいうオーダーはそれくらい種を大きく変える事が出来る。

さらにいうと恐らく両系統共に、他のヒト種との交雑が行われたのではないかとも言われている。海岸性の民族の方はジャワ原人なのか、フローレンスにいたヒト種なのか詳細は分からないが比較的小型のヒト種との交雑があり、恐らく浅黒い肌、堀の深い顔、比較的多い体毛、これらはそういった種の影響かもしれない。北方から来た大陸系はデミタス原人とか、もしかしたらネアンデルタール人の影響もあるかもしれないが、いづれにせよこちらも他のヒト種との交雑があった可能性が高い。

当時の人々を考える際に、現在との多様性の違いに驚かされる。進化人類学的に物事を捉えて、現代社会と比較するという考え方があるのかどうかわからないが、種の壁を越えて交雑するという多様性は、現生人類にはない。これは大きな違いであり、当時の人々の野心的な気持ちというか種の保存のために出来る事は何でもしていた、という点が意識的、無意識的、考え方はあるが、興味深いし、尊敬に値するともいえる。また、現代に比べて圧倒的に生存する難易度が高いにもかかわらず、何万年もかけて東へ東へ進出していったバイタリティーも現生人類に比べると、非常に大きかったのではないだろうか。もちろん、食糧が無くなって、余剰人口が止むを得ず、移住地を求めるために未開の東へ進んだという面が強く、さらにその中でも何例もの移住が失敗に終わり、何万年という年月をかけて、かなりの失敗を経て、徐々に東に来たので一概には言えないが、現代の感覚から言っても、未開の地へ大した科学技術も持たずに進出していくのは、火星への移住位野心的とも感じる次第で、尊敬に値する。

人類の歴史というのはそういった多様性の維持を積極的に獲得してきたからこそ紡がれてきた歴史であり、これをないがしろにすると中長期的に悲劇を招くだろう。スケール感が異なる話にはなってしまうのだが、多様性というは重要視すべき価値観の一つであり、対義語的な同一性、同調性、閉鎖性、これらが台頭する時は、人類が悪い方向に進む時なのだろうと思う。歴史を紐解いてみても、卵が先か鶏が先か的なところはあるが、大戦争が起きるのは、同調性や排他性の圧力が強まる時であり、人類は殺し合いを行うのである。それに至る過程は、もちろん生活の困窮であったり、富の奪い合いから始まるので、生きるために殺し合いを行うという逆説的な言い方になるのだが、少しでも多様性の尊重という意識を持っていれば、避けられる戦争、対立もあるのかもしれない。それが20万年もかけて人類が繋いできた事であり、繁栄した理由かもしれない。それを否定する事は、人類の繁栄に反旗を翻すことにもつながりかねず、今一度多様性について考え直す時期なのかもしれない。

木を見る森を見るか

2020年9月10日の日記より

木を見るか森を見るか

多数派の意見を採用しようとするのが俗に言われる民主主義のメカニズムである。一方で、多数派の意見が正しいという確証はなく、少数派の意見を聞きながら、例えば政治であれば政策を決定していく事も、多様性という観点からも重要ではある。全体主義的な意見だけでは、将来の方向性を見誤る可能性もあるし、少数意見だから間違っているというレッテルを張ってしまう事で、人権がないがしろにされてしまう事もあるだろう。そういう意味で多数派、少数派、それぞれの意見が大事なのは言うまでもないのだが、多数派の意見なのか少数派の意見なのか、これを意識しながら意見を聞くことが大事である。

最近特に立ち位置を曖昧にしたままの報道が目立つ感じがある。Yahoo Newsとか複数の報道機関のニュースを纏めて並列で閲覧できる媒体であったり、ワイドショーというか情報バラエティというこれも似たような性質を持つ報道形態が増えているからだと思われる。これらの報道形態は、例えば、新聞で言うと、読売、産経、毎日、朝日、日経の記事をつまみ食いして、独自の取材は無しで、大媒体として展開してしまう。以前は、例えば家庭には一紙の新聞購読があり、例えば読売なら読売、朝日なら朝日という情報ソースが限られがちだったところに、Yahoo newsなり情報バラエティーがつまみ食いした情報を山盛りにして送ってくれる、という意味で、個人が得られる情報の量は増えたと言う事は言えるのだろう。

しかしながら、報道各社の立ち位置というか、例えば少数派の意見を意識して報道しているタブロイド的な新聞社の意見と、中立的に報道しようとしている某大手新聞社、リベラルを自任しているような大手新聞社、そういった各社の立ち位置が見えないままに、報道を受け入れてしまっている現状があるのではないだろうか。情報量が増える事は読者である個人にとっての安心感にはつながったのだろう、そしてそれが原因でこういった纏め的なメディアが存在感を高めたと言う事は言えるのだが、イデオロギーにしても数の論理にしても、統制が無くなっている。

この状態は民主主義というものへの大きな壁として立ちはだかる事になる。民主主義というのは冒頭で述べた通り、最後は多数決で決めよう、というルールである。多数派を形成できる意見が勝つというものである。利害が対決する陣営同士が決着を付けようとした場合に、民主主義のよりどころは数の論理になってしまうのである。しかしながら、少数派の意見が従来以上に取り上げられるようになり、マスコミは激しくとんがった意見や運動を面白おかしく取り上げる事で注目を浴びやすい面もあるので、少数派の意見が簡単に市民権を持つようになり、これがあたかも大多数の意見であるかのようになりやすくなっている。

例えば、日本の報道ではトランプ大統領を支持しない勢力でアメリカは満たされているような印象があるが、FOXニュースを見ればわかる通り保守層、トランプ支持層は確実に存在しており、むしろ支持率が40%前後以下にならない、所を見るとかなり強力な固定支持層がかなりの数いる事になる。報道されている事柄が、どれくらいの指示を受けている事柄なのか、注意をしている必要がある。 少数派の意見が市民権を持ちすぎる事になると、その主張者は、例えば選挙や政策決定投票で負けた時に、この負けを受け入れづらくなる。

本人は市民権を得た事によって、賛同者が多く感じ、自分の主張の正当性も裏書されているという思い込みが働きやすくなるからである。今度の米国大統領選挙についても言われる事であるが、もしトランプ大統領が敗北したとしても、トランプ陣営はそれを認めないのではないか、という予測もある。これはこの大統領選挙に限った事ではなく、今後ますます数の論理で決まる事を受け入れない勢力は増えていくだろう。少数意見をブログやSNSで発信しやすくなっている事もこの動きに拍車をかける訳であり、少数意見の数の増大、市民権の獲得の速さ、少数意見当事者の思い込みと正当性に関する過信、これらの傾向が進んでいくと、政策決定における多数決が機能しなくなっていく事に繋がり、民主主義は崩壊していく事になる。そのあとの世界は、武力なのか財力なのか、知力なのか分からないが、どれかに秀でた集団が統治するような、寡頭制政治的な、スターウォーズの元老院的な政治形態に移行していくのかもしれない。独裁的な政治は嫌うが、民主主義では政策決定が出来ない、となると何か客観指標で政治参加者を限定して政策決定をしていかざるを得なくなるのではないだろうか。