民主主義とは

2020年8月5日の日記より

民主主義とは

そもそも民主主義とは民というのは民衆の意味であり、民衆が物事の中心となり意思決定をしていくという仕組みである。日本で言うと、議会の選挙があり、民衆の中から代議員という代表者が選出され、彼ら民衆の代表者である代議員が行政の長である総理大臣を選出する。行政の長は組閣権を持ち、行政府の長を選出するという仕組みになっており、立法、行政においては確実に民主主義と言う仕組みで実行されているのは間違いない。

民主主義とは何なのか (文春新書)

長谷川氏の著書によると、民主主義と言うのは、寡頭制政治のような形態、独裁制のような形態、これらがシステム不良を起こして循環していく中での統治の一形態である、という位置付けであった。寡頭制政治というのは少数ながら複数の識者や賢者と呼ばれる人間が、現状把握、将来の見通しを考えて意思決定を行っていくシステムである。日本で言うと江戸時代の老中のシステムは近いところがあるかもしれない。しかしながら、例えば飢饉、天災等の国家経営に関わる重大事故が発生した時には、しばしば少人数の老中の間でも意見の対立が起こる。これは現代の政治でも言える事だが対立における根本的な問題は、優先順位と時系列の見方の問題であり、これが対立軸になるのだが、双方の立場においては論理的に正しい主張となるので、結論が出ないと言う事がしばしばおこる。優先順位と言うのは、例えば財政規律と、困窮者の支援、どちらを優先するかという問題で、基本的にはどちらも正しいが、相対する方向性である。また、時間軸で言うと、20,30年後の巨大地震のために税金を投入してインフラ整備を行うか、2,3年後の需要急増のために物流インフラを充実させるのか、これらも予算配分において対立に陥りやすい。そういった対立状況に陥った時に決定を行うのは、先の江戸時代の話で言うと、大老か将軍と言う事になる。

こういった危機における政治では、問題点が続発する事になる事もあり、対立軸が多くでき、意思決定のために、政治が専制化しやすい。意思決定がなければ生活困窮によって死んでしまう人間が出てくるからである。そういう過程を経て独裁的な政治に移行していく。これは独裁者が「独裁をしたい」という意思を持って始まる政治と言うよりは、恐らく先に述べたように独裁的な意思決定が必要となるから生まれる統治機構なのだと思われる。独裁政治においては、迅速な意思決定により目先の問題を解決しやすくなり、短期的には非常に良好な政治運営を行える可能性がある。しかしながら、中長期的には権力の固定化により、富の固定化や、ねじ曲がった意思決定を監視する機構の弱体化、という問題が発生してくる。特に後者について、政治における問題と言うのは前述の通り相反する対立軸のどちらかを選択するという意思決定が必要であるが、独裁者の志向により偏った意思決定の数が増えていく可能性があり、統治されている国民すべてもしくは過半数が納得する意思決定を常に行えるわけではなく、国民側から独裁者に対する批判の目が増えてくる。特に、独裁政治に移行した直ぐ後は迅速な意思決定によって、目の前の問題を迅速に解決していた姿を目の当たりにするので、こういった国民からの批判が出てくるのはある意味では避けがたく、さらに時間的にも比較的早く不満は充満していくのであろう。フランスの市民革命なども良い例である。

そういう状況が起こると、国民の多くもしくは過半数が「自分たちで意思決定したほうが良いだろう」という考えを持ち出す。これがまさに市民革命であり近代的な民主主義の始まりである。我々現代を生きる人間にとっては、民主主義と言うのはごく当然の「正しい」価値観として捉えられているが、こういった流れの中での統治の一つのシステムである。一見すると、みんなの意思を確認して多数派の意思決定を受け入れるという平等な制度に見えるが、政治と言うものの本質を考えた時には非常に怪しいシステムでもある。

問題点は二つあり、一つ目は、意思決定を行う人間の知識、経験、能力の問題である。中国では昔、科挙と言う試験を行い優秀な人材を行政官として活用していたが、行政を行う人間と言うのは、知識、経験、能力が必要であり、誰でもできるわけではない。国の意思決定においても同じであり、国家100年の計を決める人間が、行政の仕組みや、過去の統治機構を知らずに、意思決定を行うことは出来ない。江戸幕府で言えば、老中や官僚となる武士たちは、小さなころから国民とは別のレベルの教育を受けて、意思決定を行う身分となって行った。しかし現代の民主主義と言うのはこれとは違い、日本で言えば年齢が20歳になれば、教育が有ろうとなかろうと意思決定に等しく参加する事が出来、これを集計して民意として、民意で意思決定を行うシステムなのである。多数決をしておけば、正しい意思決定が行えるという前提に立っているのかもしれないが、これがそもそも非常に怪しく、国家として正しい意思決定を出来ているのか、特に21世紀に入ってからの民主義国における意思決定については大いに疑問が出るところだろう。

もう一つの問題は、民衆というマスの人数が意思決定を行うには、投票、選挙と言う仕組みが不可欠であるが、そうなってくると扇動家というのが必ず出てくるという事である。これは現代の職業政治家と意味的にはほぼイコールであるが、知識、経験、能力が乏しい民衆を扇動して、自身の都合が良い意見に導こうとする人間の事である。これを行う人間は非常に巧みに行い、人心を惑わして、都合よく意思決定に導く。さらにこれがエスカレートしていくと扇動家同士の争いになり、ここで大衆迎合的な政治が生まれていく。今まさに米国では大衆迎合的な選挙戦の最中であるが、人気がある扇動家が権力を握る事になり、そういう人間は知識、経験、能力に乏しい人を引き付けるために、短期的な利益につながる政策を中心にこなすことになる。そうなると中期、長期的な政策がないがしろにされる事になり、恐らくは中期的に破たんの道に進まざるを得ないのだろう。

こうして新たな危機が生まれて、民主主義が否定され、また識者、賢者による統治に移行せざるを得ない状況になっていくのだろうが、次回は大衆迎合政治が生み出すジレンマについて、話を進めて行きたい。

日本のお辞儀は合理的

2020年8月6日の日記より

日本のお辞儀は合理的

New York Timesの記事で、米国の大手ホテルチェーンであるHiltonグループが、マスクをしているホテルスタッフが顧客への経緯や謝意を表す手段を模索中という記事があった。口元を隠されると笑顔を見せづらく、Smileが売りだった米国の接待方法が崩れるという事だろう。ホテルではSmileだが、欧米の握手やハグによる挨拶は今回の感染症の感染拡大に一役買ったという言い方もされている。欧州では肘をぶつけ合うあいさつに代えようという動きもある。

そもそも動物である人間と言う意味で、動物の同一種でのコミュニケーションだが、体をこすりつけあったり、言葉を話さないがゆえに、体の接触でのコミュニケーションが中心なのだと思う。これはお互いに敵意がない事の証明にもなるだろうし、においなどで相手を識別するという意味でも有効だったのだろう。その流れから言って、人間が体の接触による挨拶を行っている事も違和感はない。

感染症の日本史 (文春新書)

しかしながら日本を含む東アジア、広く言えば中国文化圏では握手でさえも一般的では無いと言える。中国、台湾、韓国、日本でもそうだが、タイやインドネシアでも積極的に握手をしていた経験は無い。タイでは両手を胸の前で合わせてお辞儀をする挨拶が一般的にみられる。これだけの事実からだと非常に大胆な推測になるが、他人との接触を避ける事で伝染病の拡大を避けていた、そういう歴史がこのような文化を形成したのかもしれない。

日本では平安自体から天然痘などの感染症が広がった事実が文献などから確認されるそうで、そういう意味でも直接的な接触を避けたのかもしれない。

日本では古来、穢れという思想があったというのが井沢元彦氏の著書での主張であり、筆者も大いに同意する主張となっている。穢れの思想は現代でも日本に充満しており、死についての会話を避けたり、死んだ動物を見るのも避けたり、科学的根拠がなくても必要以上に死や汚れ、穢れを避ける場面は現代でもよく見られる。病原菌やウィルスの存在が分かっていなかった古代、日本で言うと平安時代やそれ以前の時代には、例えば天然痘が流行るのは穢れが蔓延する事だと恐れられ、特に感染者やその病による死者を遠ざける事に精力を傾けていた。そんな時にハグをしたり、握手をしたりと言うのは合理的ではなかったのだろう。

欧米との違いがどこにあるのか、この点が重要だが、恐らくは集団の形成方式の違いが大きいのかと思われる。俗に言われる狩猟採集民と、農耕民との違いではないか。農耕民族は比較的人数の多い集団による組織を大事にする傾向があり、日本はムラ社会だと言われる事が多い。一方欧米は個人主義とよく言われる。狩猟採集も集団で行う必要があるので、個人主義と狩猟採集民がどこまで結びつくのか微妙ではあるが、相対的に見た場合には、農耕民の方が集団生活で生きる必要性は高かったと思われる。そんな中、伝染病と言うのは集団を殺してしまうものであり、伝染病により社会が死んでしまうリスクが農耕民社会においては高くなる。そういう危機意識が直接的な身体接触を避ける方向に働いたのかもしれない。

さらに言うと、日本は世界でも有数の自然災害大国であることも、ムラ社会を作り、その社会生活の基盤を守ろうとした原因かもしれない。日本は、まず火山が多く、地震が多い。これはプレートの位置から見ても止むを得ず、同じような境遇なのはインドネシア、ニュージーランド、アイスランドが主なところではあげられる。2011年の大地震のような地震や、大津波、こういったリスクに常にさらされている土地である。また、日本の場合は大陸との距離が近い事、赤道との距離感、これらが影響して雨が多く、火山でできた急峻な土地が多い国土において、洪水が発生しやすいというのもプラスされる。火山、地震、洪水、これだけでも世界有数の災害大国だと言えるだろう。10年に一度、50年に一度、100年に一度、2011年の大地震は1000年に一度とも言われる。こういった災害の記憶と言うのはどうしても薄れてしまう。ただ、例えば古くて現在も残っている神社が災害の被害を受けづらいように、何らかの痕跡は残っているもので、例えば集落が昔からの土地に存在する場合、そこから離れたところに家屋を構える事は、日本では自然災害のリスクにさらされる行為になるのである。2011年の津波の被害を見ても分かる通り、これは生死にかかわるリスクであり、日本では集団を維持する方向、またはみ出し者と言われる人間が出ずらい環境、こういったものが形成されていったのではないか、と自然災害の面からも推測が出来る。 これらを踏まえても集団で生きる事の重要性と言うか、集団を形成しないことのリスクが高い国であり、そういった面からも身体接触を挨拶において避ける方向に日本が進んでいたことが、欧米との比較において考えられるのである。

アメリカの現実

2020年8月13日の日記より

アメリカの現実

アメリカにも貧困層は勿論いて、ホームレスが多いのも日本人一般の知識として持たれているものだと思う。ただ、アメリカに長年住んだ経験から言える現実は恐らく、日本人が一般的にイメージしているものよりも劣悪である。

ファンタジーランド 【合本版】―狂気と幻想のアメリカ500年史

西海岸のホームレスの多さは尋常ではない。穏やかな気候なので寒さで死ぬことは無いのだろうし、西海岸と言うGold rush時から続く一獲千金を夢見がちな気質から言ってもホームレスが多いのは仕方がないのかもしれない。ただ、うんざりするほどいる。LAと並んでSan Diegoにもよく行ったが、San Diegoは都市の規模、気候、治安、色々考えても米国内で老後を過ごす安寧の地としては非常に高い人気を持つ都市だと思う。しかしながら、あまりにもホームレスが多い。

また、中西部に住み、全米各地を飛行機で飛び回るという生活を行っていたが、人種による、クラス分けは嫌になるほど見てきた。空港やホテルなどの清掃、レジ打ち、引っ越し等の物流の運転手以外(運転手は白人が多い印象)、これらの仕事における、黒人、ヒスパニックの割合は、もはや人種差別と言えるくらいのレベルにしか感じられない。人種によるクラス分けが目に見えてわかるのである。一方、当方の仕事の関係で会う人は98%が白人。これは俗にいうホワイトカラーの人々だけど、白い襟と言う意味を持つホワイトカラーと言う言葉が、白人と言う言葉をそのままさしているようで気味が悪いほどだ。

リベラル側に立ちがちなテレビ等のマスメディアは本来であればこういった貧困、人種差別をもっと強調して、1%のWall streetが富を持っている事を叩くべきなのだが、米国のマスコミはそこには興味がなく、彼らは自分たちの役割と、何が儲かるのかを理解して運営している企業側=資本家側の論理なのである。

アメリカ人のショービジネス好きと、アメリカンドリームと言う言葉が好きなのは日本にいても分かる事だが、これが貧困生成装置なのである。アメリカ人と言うのはピルグリムが英国からやってきた時代から、夢見がち、幻想好き、そういった現行体制に不満を持った人々が一山あててやろう、と言う気持ちで来た人たちだ。彼らは夢見がちで、誰でもどんな境遇でも、身が一つあればアメリカンドリームを掴める、というのが頭の中にこびりついている。これは文化と言うか思想、宗教と言っても良いレベルだろう。顕著な例がスポーツ選手であり、ものすごいパワーとスピードのNFL選手は、年間に何十億円も稼げるようになるのである。また映画スター、歌手にしても出自や人種に関係なく、スーパースターになって、豪邸に住んで、高級車に乗れるようになる。こういうセレブリティ―を紹介する番組がテレビ上にも数多とある。これこそまさに宗教で、「努力であなたにもこういうセレブリティになれますよ。」もしくは「なれましたよ」と言う事を広く周知している装置なのである。また、視聴者側もそれを信じるように洗脳されていき、セレブリティにあこがれて、そういうったテレビや動画を見るようになる。スポーツ選手にしても、特に黒人が中心となって大金を得ていく様子を興奮してみているのである。これは、宝くじの当選者の報道や、カジノで大当たりした人間を報道したりするところにも反映されている。

そういった幻想を持って、本当の貧困者の声を押しとどめることがまず第一の役割であり、第二の役割はアメリカンドリーム教を世に知らしめること、これがアメリカの大手マスコミが仕向けている事の真相だと思う。

これは左派が育たない土壌もはぐくんでいる。共産主義に対する恐怖心も理由の一つであるが、貧困にクローズアップさせないように巧妙に仕向けいている。マスコミを含む企業側の体制派は、左派が育たないようにコントロールしているのである。

ただ以前から言っているように、今後はマスメディアの大衆化が起こってくる、というか既に起きつつある。今までも色々なものが大衆化されてきた。例えば、自動車等の移動手段、特権階級の物だったが、誰でも持てるものに変わってきた。ちょっと次元は変わるかもしれないが、資本(株式市場)、情報と、近年は恐らく30,50年前に比べるとそういったものも圧倒的に大衆化が進んだ。次に来るのはマスメディアの大衆化、市民一人一人が報道を作り上げる世界になってくるだろう。そういう面でFacebookやGoogle等のGAFAが覇権を争う世界には既になっている。

マスメディアの大衆化が進んだ世界がどうなるのか、恐らく意見が極度に対立化していく。左派は極左へ、右派は極右へ。そして分断が進むだろう。下手すると東西冷戦のような状況に戻ってしまうのかもしれない。米国内だけで見た時には、今はその移行期かもしれない。まだマスメディアがコントロールしている世界であり、民主党中道路線と、共和党中道路線と言うのが大統領選でも中心を走っているように見える。それにより極端な思想を持つ人の声が届いていないように見えるが、極端な思想を持つ連中は反発心を強めており、今後は過激な言論が出てくるだろう。非常に恐ろしいのはバーニーサンダースが引退した後に左派に過激な人が出てくることで、チェゲバラとかマルコムXのような武力闘争が展開されるような世の中は見たくない。ただ、そういった人々の言論というか意見の集約、勢力の拡大のためには、マスメディアの大衆化というのは好材料に働いてくる気がしてならないというのが本音のところだ。