宇宙の始まりを探る探究

2020年11月17日の日記より

宇宙の始まりを探る探求

先日、Space Xが開発したクルードラゴンに乗って日本人の野口氏が宇宙に飛び立った。民間の会社がNASAの支援を得て開発した宇宙ロケットであるが、外観、内装いづれを見ても、新時代の到来を感じさせるものだった。発射は成功裏に行われ、現在も飛行中であるが、今後もSpace Xの探求が順調に進み、Documentary映画で見せてたように火星への移住計画を進めてもらいたい。米国西海岸で生まれたTeslaという企業のCEOであるイーロンマスクが火星という開拓地を広げるというのは、アメリカという近代史の人口国家のイデオロギーが存分に表れているようで、興味深いストーリーではある。

文明の歴史は4000年前とも3000年前とも言われるが、人間はそれ以前から空との対話、宇宙との対話を行ってきた。そこで何が行われているかに空想を張り巡らし、実生活と重ねあいながら、神秘性を感じ取っていたのである。地中という未開の世界もあるが、宇宙は広さという意味で桁違いである。

その宇宙に関して、広さや古さは有限なのか、無限なのかという議論がある。もちろん、ビッグバン理論と宇宙が膨張している証拠を宇宙背景放射で証明したことから、宇宙には始まりがあり膨張しているだろう、というのが定説になっている。膨張している事と有限であることはイコールではなく、無限であっても膨張すると言う事は可能であると思われるが、その辺も含めて議論に結論は出ていない。

ただ、現在の宇宙を広く観測してみると、ゆらぎがあるのは間違いなく、我々の見える範囲で見ても、例えば天の川と言われる銀河、星が密集している方角が観測されるし、そこには星が多く、一方で星が少ない領域もある。これは宇宙レベルで見ても、銀河、銀河団が多い領域、少ない領域が観測されており、宇宙にはゆらぎがあるのは観測事実である。

このゆらぎというのは、例えば鉄を熔解する溶鉱炉の中でも原子レベルで見てゆらぎと呼ばれるばらつきは発生するし、例え、温度、圧力、その他条件を均一にしたとしても、電子そのものが持つエネルギーの影響もあり、ゆらぎというものは常に発生するものだと思う。そこから考えられるのは、やはり宇宙に始まりがあってもおかしくないのではないか、と言う事と、そこから考えるとビッグバン理論は恐らく正しく、宇宙の広さについても有限であるのだろうという推測が成り立つという事である。もちろん、我々の住む宇宙という意味だが。

ビッグバンの前のインフレーションの起点になったのは恐らく無限に近い小ささの点であろうと思うが、宇宙が出来る前の空間があり、それを何と呼ぶのか分からないが、そこにあった質量が揺らぐ点がごく小さい範囲で存在したタイミングがあり、そこが爆発的反応の起点になって、ビッグバン、現在に至る宇宙の膨張を支える原動力になったという想像が出来てくるのである。

宇宙が出来る前の空間において、全ての物が均一に存在している、空間の状態が全て平均的な状態であれば、ビッグバンが発生しえないのではないだろうか。そこにゆらぎが発生したことによって、宇宙の種が膨張していった、さらにその時のゆらぎの内部のさらに小さなゆらぎの痕跡が、現在の宇宙空間のゆらぎ、ここで言うゆらぎは星の多さ、少なさだが、この宇宙空間の揺らぎに繋がっているのではないだろうか。

そのように考えると、ビッグバン自体と、神が言ったとされる「初めに光あれ」という言葉の整合性が過去言われたようだが、神は「初めにゆらぎあれ」と宇宙を想像したともいえる。ここでいきなり宗教的な話になってしまうのだが、宇宙が出来る前の空間は何であったのか、そこでゆらぎを起こした理由は何だったのか、これについて科学の研究、探求がまだ全く追い付いていなく、人間として考えうるのは現時点では、「そこに神がいた」と捉えるしか、回答が得られないのである。

宇宙が無限の過去から存在し、無限の広さが広がっているという事実が否定された時から、神の存在に頼るしかなくなっていった。これは科学の探求心ゆえであるが、それが神の存在感を増大させたというのは、何とも面白いものであり、ビッグバン理論が発表された時のカトリックの権威派の人たちの喜びようは想像に難くは無い。

食物連鎖と人間

2020年11月18日の日記より

食物連鎖と人間

ヒトは牛も食べるし、豚も食べる。野菜や果物などの植物も食べる、というのが一般的な理解であり、一方で天敵と呼べる存在は今の世の中にはいないと言えるだろう。もちろんホモサピエンスが出始めた20万年前はヒトはアフリカ大陸で肉食獣に追われる存在であった。その頃は食物連鎖のピラミッドで言うと下位の方にいたと考えられる。その当時と比べて本質的な体力という面では何も変わっていないのがヒトであるが、いつの間にか食物連鎖の最上位に来てしまっている。

食物連鎖というのは自然界のバランスを保つために、まさに今で言う所のサステイナブルな環境を守るために必須な仕組みであり、まさにエコシステムと呼べるものである。植物食の動物を小型中型の動物食動物が食し、その動物食動物を大型の肉食動物が食す、その連鎖があるので、というか結果としてなのかもしれないが、ピラミッドの上位に行くほど個体数が少なく、下位に行くほど個体数が多いというのが一般的だ。

海洋生物においてはこの傾向が顕著であり、生存競争が非常に激しいマンボウやイメージしやすいものだと鮭も産卵数がとてつもなく多いと言われている。これは難しい議論だが、生存競争が激しい食物連鎖下位の生物群の産卵数が多いのは、生存に生き残るためなのか、それとも産卵数が多い生物種が結果として食物連鎖下位に生き残ったのか、どちらも言えそうだが、恐らく正解は後者の方であろう。生存能力が低く、生存競争が激しい食物連鎖のポジション上に残っている生物種は元々産卵数が多く、そうでなければ絶滅していると言える。

その観点から見た場合、ヒトが繁栄するに至ったのは、個体数を増やす能力というか素質があったからと言えるのだろう。当時のヒトの集団は乱婚であったと言われている事、また自分の子でなくてもグループ内では協力し合って子育てをしたこと、他にも個体を増やすうえで有利な能力というか素質があったと思われる。その時代が1万年前くらいまで続き、1万年前から9000年前頃に農耕が始まり、富と権力の集約が起こり、また余剰生産能力により人口の爆発、科学自技術の発達が1万年間で起こった。1万年くらいでは形質や、本質的な能力に変化が無く、現代の人類は、食物連鎖の頂点に君臨しながら、個体増加能力が高いという状況になってしまっている。

イナゴが増え過ぎると稲の栽培に支障が出るように、自然環境の維持にとって大きな脅威になってしまっている。先進国と呼ばれる国では出生率が下がっており、日本は人口減少社会となっている。また、性別の曖昧さが増してきている事も現時点では小さいが、個体数の増加の歯止めになっている可能性がある。少子化については財政の再分配機能の機能不全とみる見方も少なくないが、一方で、食物連鎖の頂点になった生物種の一種の自粛行動なのかもしれない。

もちろんアフリカ諸国を含む途上国ではいまだに出生率が高い状態があるが、ヒトの人口というのはこれから100,200年かけて調整されていくのかもしれない。もちろん、イナゴのように絶滅する事は無いだろうが、1000年、10000万年というスパンで見た場合に、今の人口というのは突発的な異常増加だったと言う事になる可能性はある。

これは生命が歩んできた38億年の歴史自体が制御している事というか、38億年間にわたって生命が連綿と維持されてきたのは、地球環境という生命を含めたシステムが、自己調整できるようになっているから、むしろ自己調整してきた結果が刻まれており、自己調整する事というのが地球の環境として維持するための項目に刷り込まれているから、達成されているという見方が出来る。

異常繁殖した種に対しては何らかの圧力で自己調整がなされるし、行き過ぎた気候変動に対しても自己調整して維持されているのだと思われる。例えば氷河期の後には温暖期が来るわけだし、太陽との距離、球体であること、地軸がある事、磁場がある事、地球中心部のマントルは溶けて流動しているが地殻にはちょうど良い深さの固い殻がある事、これらが調和されているというか、これらが地球に住む生命にはちょうどいい調和となっているのだろう。これも逆説的に言うと、こういう調和環境の中、38億年間紡いできた生命の形態というのは、この調和している環境だからこそ生み出されたというか、他の調和環境の天体であったら、今の地球上のエコシステムのような形にはなっておらず、例えば食物連鎖の考え方が逆であったり、我々には想像もできないような独自の環境になっているのだろう。ヒトの人生はせいぜい100年オーダーであるが、我々のDNAは38億年前からつながっており、地球環境の歴史と切っても切れないものである。地球による自己調整という見えざる手によって、我々の運命は動かされているのである。

原子力発電と再生可能エネルギー

2020年11月19日の日記より

原子力発電と再生可能エネルギー

日本政府も2050年までの実質CO2排出量のゼロを目指すという方針を表明したが、足元の現状は、日本の再生エネルギーによる電源比率は18%にとどまるらしい。欧州主要国は40%前後と言われ、太陽光、風力発電が一定程度普及している。日本は国土が狭い、という考え方をする人がいるが、欧州の国々と比べたら、フランスやスペインと比べても2割少ない程度で、ドイツよりも国家面積は大きい。

この日本は小さな国とか、国土が狭いという先入観は困ったもので、米国や中国、ロシアという日本を取り囲む国と比べると小さいだけで、世界には180か国とも200か国とも言われる国々がある中で、小さい国と言えるのかというとそうでは無いと思う。ともあれ、そういった国家面積が近い国々と比べても再生エネルギーの活用割合は小さい。気象条件が違うとかいろいろあるのかもしれないが、一番大きな違いは、政府主導で取り組んできたのかどうか、という点だろう。

太陽光発電により発電された電力の買い取り制度など、スペインやドイツが先行して、日本は模倣をしてきた。太陽光発電の発電効率を上げるのに成功した、という日本企業や大学の研究室の発表をみる事があり、そういった分野では日本は優れた成果を上げているかもしれないが、いかんせんコストという観点から言うと、完全自由経済の下では再生可能エネルギーの普及への壁が高く、コストが高いのである。

優れたものを作る事と、世の中にそのものが普及するかどうか、これらの点が重なる部分もあれば、重ならない部分もあるという所について理解が進んでいないというのが、旧来から言われる日本企業のガラパゴス的発想なのかもしれない。ガラパゴス諸島というのは文字通り島であり、他の地域と断絶されていたからゆえに、ガラパゴス島の動植物は独自の進化を遂げた。それを使った例えとしてガラパゴス化という言葉が使われるが、日本という国家はそういう意味で江戸時代の鎖国の時の影響をいまだに抱えているのかもしれない。

それは言語的な意味で外国語の浸透が少なかったりもしたし、文化的な意味でもそうであろう。さらにもっとも重要なのは精神的な部分なのかもしれない。国内の閉鎖体系に存在する事が居心地が良い、こういった発想は依然として我々の精神のどこかに残っており、外国の事は外国の事、こういった整理をしてしまうのかもしれない。

話を戻して、再生可能エネルギーの普及については、石炭火力と比べてコスト競争力が無い再生可能エネルギーを活用するには、国民の負担が必要であることは間違いなく、税金を活用した普及の後押しが不可欠である。それらを実践できたのが欧州のしかもドイツ、フランス、スペイン、イタリアと言う事になるのだと思う。これが出来るためには、国民的な議論と、国民のリテラシーの向上が必要になる。

それらを活性化させるのは政治家と言われる人たちの仕事なのかもしれないが、本質は民主主義国家である限り国民の議論であり、国民の意識が重要になってくる。環境はどうでも良くて金儲けが重要、そう考える国民が多いと議論は進まず、再生可能エネルギーの活用も進まない。電源構成比率についての戦略を示す、そこまでは経済産業省と政治家の議論が必要であるが、それにどこまで税金を費やすのか、ここを本質的に動かすためには、国民の意識が上がる必要がある。

その点を突き詰めた時に、筆者自身が大きく日本と欧州で異なると感じるのは教育であり、教育も現状を切り取っただけの話ではなく、例えばここ50年の教育の積み重ねではないだろうか。例えば70歳前後の女性の教育レベル、というので比較すると、50年ほど前の話になるが、客観的に見て高等教育機関の充実は欧州の方が早かったであろうことや、戦後の復興期の日本を考えると、現在の高齢者と呼ばれる人たちの教育レベルが違うのではないか、という所に行き当たる。日本は65歳以上の人口が35%以上と言われ、選挙権を持つ人口比で言ったらさらに高くなるだろうし、世代別投票率を考えると、恐らく65歳以上の人が選挙に投票する人の50%を超えるのではないだろうか、とすら思われる。

そういった層の環境に対する考え方が変わらない限り、この議論は進まない。これは働き方改革とか、子育て支援とかにも通じる話であるが、日本の選挙は半分前後が高齢者によって行われていると見積もれる現状から言うと、高齢者の好きな政策に傾きやすい。

少子化が改善されない事、働き方改革が進まない事、再生可能エネルギーの割合が増えない事、これらをすべて一色淡にするのは乱暴ではあるが、政策決定が高齢者寄りになってしまうのが、現在の日本の社会であり、政治であるとは言えるのではないだろうか。今の70歳は戦後生まれであり、復興とともに育った世代である。20年後の団塊Jr世代が70歳になる頃は、すでにバブルとともに育った世代が高齢者になる。この世代は平均的な教育レベルは高くなるだろうが、個人主義的な思考が強いので、どちらかというとアメリカ的になっていきそうな気がする。もちろん人口動態上、団塊の世代が退場していくと、高齢者人口の比率が下がるであろうから、その頃には70歳前後の人々の思想を議論すること自体が、重要性を失っていくのかもしれないが。