グローバル化と自動車産業

グローバル化と自動車産業

日本の家電メーカーの凋落は既に決定的であり、三洋電機、東芝、日立、シャープ、これらの家電製品は既に日本国内でしかほとんど売れていないと感じられる。もちろん東南アジアの国々で一部地位を保っている製品群もあるが、既に日本人のマインドにも、「家電製品は中国や韓国のメーカーには勝てない」これが一般論となっているだろう。

ハイアールやLG、これらの名前を日本国内でもよく聞くようになってきた。シャープの亀山ブランドの液晶も一時脚光を浴びたが、既に見る影もなく、液晶の製造と言えばJDIの苦境しか日本ではニュースにならない。液晶で言えば既にLG Displayなんかも赤字続きであり、中国メーカーに太刀打ちできなくなりつつあり、LGもOLED中心にする戦略を持っている。OLEDにしても中国が台頭してきており、早晩技術的な差が無くなっていくのだろう。

これら家電に関わる製造業というのは、乱暴な言い方をしてしまうと、それほど技術力が高くなくても出来てしまうという側面がある。多くの物は人命にかかわるような甚大な事故になりづらいと言う事もあり、安全制御に関する設計に2重3重の手間をかける必要も無く、温めるとか、冷やすとか、発光させる、回転させる、と比較的単純なものが多い。それ故に、模倣も簡単であり、製造コストが低い国がデザインさえ何とかすれば競争優位に立っていくという図式が、ずっと続いている。

それに対して自動車は人命に関わる事故を防ぐという大きなポイントがあり、この点は家電製品とは違うと言われてきた。それ故に、新車の開発には巨額な投資が必要であるし、衝突安全性能試験や、それぞれの部品の耐久試験、これらに大きな開発費用が振り分けられる。また環境性能に関しても家電製品よりも排気ガスという直接的な汚染物質の排出源であるが故に、メーカーはその点に関しても巨額の設備投資と、研究開発を行ってきた。

しかしながら、人命と環境対応という巨大自動車メーカーが数の論理で勝ち続けてきた二つの重要な要素、特にここ30年くらいはそうだったのだが、これらが揺らいでいる。人命に関わる事故を防ぐ技術は自動運転によって補われようとしている。自動車メーカーも開発を行っているがこれはハードの世界というよりは、ソフトの世界という側面が強いので、最終的には製造業の優位性という方向には向かわないと思われる。プラットフォームが徐々に共通化されていく事で、どのような自動車にも簡単にそして安価に自動運転の技術が展開されるようになっていくのだろう。もちろん、その際にそのベース部分を提供する会社が大きな利益を得る可能性があるが、それが例えば、GMとかトヨタとかVWとかになるようなイメージではなく、GoogleとかAppleが急成長したように、自動運転のプラットフォームを提供するようなデジタル的な会社が利益を得ていくのではないだろうか。今で言うとNVIDIAみたいな半導体企業や、IBMとかそういった企業が利益を得ていくような形に変わるのかもしれない。

また、環境性能という意味ではEVが自動車メーカーの排ガス規制への対抗の歴史を大きく変えるだろう。排ガス規制対応でエンジン開発、排気系統部品の開発に巨額の開発費が当てられ、それらにかかわる企業は恩恵を受けていた。しかしながらEVが主流になると、今も既に転換が起きているが自動車メーカーという一体組織よりは、電池メーカーと、セットアップメーカーに分業が進む。

セットアップメーカーはTESLAが良い例だが、デザインとコンセプトさえしっかりしていれば経営は軌道に乗るし、むしろデザインとコンセプトが市場での地位を決めると言っても過言ではない世界になりつつある。自動車はデザインである、という市場に移行していくトレンドだ。ファッションブランド化していくと言っても良いかもしれない。現にTESLAのショールームは洗練されており、俗にいうブランド物の店舗と並んでても違和感はない。もちろんTESLAを見ていると大量生産のメリットというのは得ている印象ではあるので、デザインを担保に生産設備を整えられるのかというのはポイントになり、資金調達力は一定のレベルで求められるが、今よりもデザインが解決できる世界にはなっていく。

これらを総合していくと、二つの点でゲームチェンジが進んでおり、日本の自動車メーカーは、このままだと家電メーカーがたどった末路を進んでいきかねないと思う。トヨタはPanasonic的になるかもしれないが、10年以内にホンダは日立、日産は東芝、三菱自動車は三菱電機、スズキは三洋みたいになり最終的にはインドの会社に買収されてしまったり、そういう状況になっていくかもしれないと、日本電産の社長のインタビューを見ながら思った。

自動車はその頃にはこれらのメーカーが戦う戦場ではなくなっており、例えば半導体開発であったり、IOTや自動運転のソフト開発、電池事業、水素インフラ関連、こういった形に事業転換が出来た企業が生き残っていると思われるし、今が事業転換のラストチャンスのタイミングかもしれない。

国家の債務

2020年11月12日の日記より

国家の債務

株式市場が好調で日本でも米国でも今年の最高値を付け、日本に至っては1991年以来の高値と言われている。中央銀行による金融緩和政策により金が余っていると言われて久しいが、先進諸国はコロナを受けて財政規律についての議論を一旦追いやり、金融緩和を進めている。これが株価、債券、金等の商品価格を支え、日本で言えば不動産の価格を維持する事にもつながっている。

これらがさらに個人消費を下支えしており、株価上昇につながるという好循環になっている。もちろん、中央銀行や各国政府が意図した方向に行っており、失業者を減らしたり、国民の所得を守る事に成功しているように見える。以前は、日本で言えば財務省が財政規律論者であり、例えばドイツなども財政規律の維持に関心を払っていたと記憶している。

コロナで傷ついた経済が金融緩和でコロナ以前よりも拡大する、これは大変結構な事であるが、それではこれをずっと継続すればいいのだろうか。米国ではインフレ率が戻る事が2022年末までないだろうと言う事で、2022年末までの金融緩和の継続は既に既成事実化しつつある。

では2023年は止める事が正解なのだろうか。2%程度の緩やかなインフレを起こすための金融緩和は無期限で継続すれば良いのではないだろうか。景気の下支え、さらにインフレによる相対的な国家債務の減少、ともに大きなメリットがあるので金融緩和は一生継続すれば良いのではないかと考えてもおかしくない。旧来の理屈だと、過度な金融緩和は急速なインフレーションを起こす可能性があり、急速なインフレーションは貨幣の価値を貶めるので、良くないという話だったと思う。ただ、貨幣の価値を貶めるというのは一国の話であり、一国のみが急速なインフレーションに陥ると、確かに購買力が著しく低下して、商品の輸入も出来なくなるし、国民の資産価値も国際的に見てみると低下する。ただ、経済というか国民の生産力と消費力が変わらない前提であれば、ハイパーインフレが起きても、国内の物価の上昇と共に、賃金の上昇が起こるはずであり、もし閉じた経済で、前提が変わっていなければ、問題は無いはずである。恐らくその場合に問題なのは、国家債務の増大を引き起こす事態が継続した場合には、消費力が停滞している事が前提となっており、物価の上昇に賃金の上昇が追い付かない事態が想定されているから、ハイパーインフレの恐怖というのが刷り込まれているのだろう。

ただ、国際協調を図りながら、日米欧と例えば中国も強調して、GDP比で同じ程度の金融緩和を強調して行ったらどうなるのだろうか。これは現在の世界に近い状況だと思うが、一国がハイパーインフレに陥る未来は想像しづらい。そういう状況下で日本でも財政規律を求めるような声は少なくなっているように感じる。この方法であれば、世界経済の安定や、むしろ一定の成長率を維持する事は簡単なのではないだろうか。現在の株価上昇はそれを反映しているのではないだろうか。

そういう意味で現在は日米欧中の4頭体制の資本経済の世界であり、これらがバスケット的に通貨をコントロールする世界になっている。これはある意味では自分たちを助けるためには非常に都合が良い政策になっているが、新興国、後進国と言われる国は同様に緩和を継続していかないと、国際競争という意味で果実を得られず、後手に回ってしまう。

しかしながらそれらの国の通貨は、多くの場合脆弱であり、外貨準備金が豊富か、国際収支が黒字でないと、売られるリスクが大いにある。トルコはハイパーインフレ対策のために金利の上げを見込んでいるが、これはインフレ対策、通貨下落対策にはなるが、国内経済にとっては引き締め策であり、資金の流動性が下がる。この相反する状態を綱渡りで政策運営していくのがこれらの国々の課題となり、経済の低迷か、インフレを選択せざるを得ず、今後ますます厳しくなっていくだろう。通貨が強力な国が自国のために財政規律を無視し始めた事の歪は、こういった新興国、後進国の通貨、経済にダメージを与えるのだと思う。特に資源がない国際収支が赤字な国においては、コロナ後の財政政策が強化されるであろう2021年以降は厳しい状況が続くのだと思う。これは超大国とそれ以外の国の溝を深める事になり、20世紀の大戦の引き金になったような状況を生み出してしまうのかもしれない。

宗教の本質

宗教の本質

先日、古い映画ではあるがダヴィンチコードを再び見てみた。イエスキリストの末裔を守る、という話であり、現代にも末裔が生きているという話であったが、日本で言うと天皇家は2600年前から血脈が途絶えていないことになっているので、あながちフィクションと切り捨てる事も出来ない。十字軍であったり、テンプル騎士団はそのキリストの神器を守るため云々という話なので、ストーリーとしては歴史も重なりあいながら、興味深いものであった。

オリジン【角川文庫 上中下合本版】

キリスト教を国家宗教とした2,3世紀ごろのローマ帝国では、その頃いくつもあった宗派のストーリーというか神話を、取捨選択して国教のストーリーとしていったという表現があったが、これは本当に興味深い。結局のところ、権力者が国民統治のために活用する、活用しやすく作り変えて宗教としていくのであり、その結果、宗教家という権力者が生まれ、統治に大きな力を発揮していくのである。

前にも書いたが、キリストの誕生日と言われるクリスマスは、結局のところ太陽信仰という古来からの信仰の中での、太陽が再生する日である冬至に近い日としており、これも以前は異教信者だった人たちを懐柔するための作戦であろう。このように権力というものは宗教、文化さえも塗り替えて、都合が良いように作り変えてきたのである。これは恐らく世界的に見ても、一般的な動きなのだろう。キリスト教だけが特別ではなく、権力は富に繋がり、人間というものの欲望が存在する限りにおいては、権力欲を抑止することは出来ず、権力争いをしてきた1万年と言っても過言ではない。何故1万年というかというと、これは大体農耕が始まった時だと言われており、農耕により生産の集約、余剰食糧が現れ、富と貧富の差が生まれて言ったというのが定説であり、それ以前の人類は、山や川、海で取れたものをその日暮らしに近い形で生活していたと言われている。それほど農業生産というのは革命的な事であり、人類の運命を本質的に変えてしまったと言っても過言ではない。

翻ってみて我が国日本であるが、2600年前の神武天皇がこの国土に降り立ち、国を統治していき、現在まで天皇家という形で続いているというのが、神話に近くはあるが、この国の形、文化、歴史を形作っている。これらは日本書紀に記載されている記述であるが、その時に、2,3世紀のローマ帝国のようなことが行われたのは間違いないだろう。そこで善意を持って、真実だけを編纂したと考えるのはあまりに青臭い考え方と言わざるを得ない。

確かにそれを超える事実を知る事は不可能に近く、日本書紀を信じるしかないのだが、そういう取捨選択が起きた事、勝者が書く歴史である事、これらは自覚して読むべきだろう。ちょうど2世紀、3世紀頃に、太陽をつかさどる神が隠れてしまって、みんなで無理やり出したら、そこから国は繁栄した、みたいな記述が日本の神話にはあるみたいだが、この頃に勝者が生まれたというのは一つの良い推測であるだろう。

その頃に丁度、井沢元彦氏の著書によれば、日本列島において二度の皆既日食があったらしい。これは天文学、数学的に計算ができる現象であり、この二度の日食は確かにあったようで、しかもここ2000年では珍しい事に、ヒトが人生で二度見れるチャンスがあるくらい、ショートスパンで起こったというのが計算結果になっている。

その時に太陽を司った神が、呪術的な予言を見せたり、呪術的なスピーチをして、権力を奪い取ったのかもしれない。これが日本でも2,3世紀、ローマ帝国が宗教を統一してキリスト教を国教としたのも同じような時期というのは非常に興味深い。日本で起こった二度の皆既日食がローマで同時期にあった言う事は無いだろうが、何かしら天候に関わるイベント、彗星などの天体に関わるイベントがあったのかもしれない。それくらい天気、天候、天文、これらは世界の統治機構を変える力がある。これらをコントロールする事は、ある意味では権力をコントロールする事にもつながる。人類は食糧生産という農耕を生み出した時と同じ、革命的な状況を迎えようとしているのかもしれない。天候をコントロールするというのは、新たな権力の創出なのかもしれない。