科学の使命

科学の使命

生きる事の意義、意味というと仰々しくはあるが、我々生命は何故誕生して、何に向かって生きているのか、この問いは科学に対する挑戦でもある。科学は我々というものが何なのか、その問いに対して答えを探し続けてきた。進化論という観点もそうだし、素粒子学的な観点からも、分子、原子、元素の確定、発見、DNAの発見、原子核の観察、素粒子の発見というように発展してきている。素粒子がなぜ存在するのか、どうやって発生するのか、そういった観察から生命の本質に至る発見が得られるのかもしれないが、まだしばらく時間はかかるのだろう。

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ビッグバンという状態の前にインフレーションという状態があった事が現在では言われている。宇宙が生まれる前の状態については、記述するほどの知見が得られていないので何とも言えないが、無の状態なのか、物質が無いと言う事が証明された空間なのか、むしろ均一に無限大の密度を持つ物質に満たされた状態なのか分からないが、そこに何らかの揺らぎが起き、揺らぎが起点となり爆発的に反応が進んでいく、そういった状態だったのかもしれない。揺らぎの起点では相対的に密度が高い状態となり、重力の効果なのか、エネルギーの効果なのか、何らかの反応が即され、その反応が次の反応を則すような状態となりインフレーションが起こり、さらにビッグバンへとつながったのだろう。そこからの宇宙の膨張というのはハッブルが観察した通りに証明されており、一点を起点とした膨張はいまだに続いている。

宇宙の誕生以前の「揺らぎ」、というのがポイントになるのだろうか。これが見えざる手によって行われた宇宙創造なのだろうか。揺らぎ自体については、外部環境の変化があれば、完全な均一な状態からも発生しうるので、見えざる手が必要とは言い切れないが、それでは宇宙誕生以前の状態の外部環境というのは何なんだろうか。宇宙誕生以前の種の宇宙の状態を取り囲む何かがあったという事だろうか。それとも宇宙の種の外側にはさらに大きな何か、例えば「母宇宙」のようなものがあるのだろうか。「母宇宙」の存在の観察が今後のテーマになってくるのかもしれない。しかしながら、「母宇宙」が観察されたとしても「母宇宙」はどうやって誕生したのかという疑問には答えてくれない事が想定されるので、科学の追求は止められないのだろう。

これを止める事が出来るのは、というか止めるというのではなく、どこかで納得感を与える事が出来るのは宗教の力と言う事になってくる。神が創造した、この一言でどこかで探求を小休止して、自らを納得させることができる。我々人間は不安な状態を抱える事が好きではなく、自分たちが何故存在し、何のために生きるのかという答えを欲して、心の安定を求めてしまうものなのだろう。

それにプラスして、生活、生存の安定のために、生まれ持っての平等性、死後の世界での安寧、これらを付与していく事が宗教に求められている事であり、我々人類が欲しがちなものなのだろう。科学と宗教というのは表裏一体とも言える。そういう意味で言うと、科学の進展とともに宗教も発展していくべきなのかもしれない。現存する大手の宗教というのは、2000年前の前後にできたものであり、当時とは科学技術や発見されている事柄の数は雲泥の差となっている。現在の科学技術をベースとして、一つのストーリーを作れる宗教が台頭するのかもしれないが、それよりも救済や秩序、そういった観点での宗教的な意味合いが強く、それは既存の体制とも結びついているものであるので、なかなか新しい宗教が勃興しないという面もあるのかもしれない。

そういう意味では、人類の起源、生命の起源という観点から宗教について議論をし直してみて、現在の科学が導き出した理論との整合性というか、ストーリーの成否をしっかりと描きなおしてみるのも、面白いのかもしれない。さらにそれを超えるような科学的な偉業が今後も出てくることを願ってはいる。

宗教と科学

宗教と科学

この古くて新しいテーマについての対立は17世紀、18世紀よりは落ち着いているようにも見える。ガリレオやダーウィンが活躍した時代に比べたら、現代の科学者は新発見について誇りを持てるようになっているだろう。これは宗教側が譲歩しているとか、科学に適応しようとしているわけではなく、科学の発見が宗教の論理を凌駕しているからだと思われる。

宗教側の姿勢というのはそれほど変わっていないように見えるからである。例えば米国ではいまだに進化論を教える事が出来ない州があると言われている。我々日本人からすると異様な光景にも感じる。これは民度とか学力の問題では無く、宗教勢力が一定の力という名の権力を持ち、州政府、連邦政府にロビイングという圧力をかけているからである。ロビイングを行うロビイストは金だけあれば何でもする人たちであり、中国のためにロビイングを行うコンサルもワシントンDCにはたくさんいる。

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なのでロビイストの存在は問題では無く、そこに金を掛けられる団体がある事がポイントであり、宗教家、ここでは主にカトリック系と言う事になるのだろうが、これらの団体が資金力を持ち、影響力を行使しているという事の示唆である。これが良いとか悪いとかいう話ではなく、日本は宗教勢力の権力への介入というのは創価学会と公明党の繋がりでしか現れず、宗教色の強い政策が反映されることがないが、世界の国々では宗教というのは一定の政治的発言力を持っていると言う事が言えるのだろう。

一方科学者の存在も政策に影響を与える事はある。例えば地球温暖化問題で政策に沿った論文を出す科学者はいるし、そういった例はある。ただこれらはどちらかというと科学者が政治利用されている例であり、科学者としての政治思想は脱宗教的な発想とは言えるが、何か大きなバックボーンがあるわけではなく、政治における立場では、宗教が圧倒的に有利ではあるのだろう。というか科学者陣営は積極的に対立をしたり、対抗的な発言をしているわけではない。

そのように考えると宗教と科学の対立というのは、モラルであったり、人生観、哲学、そういった分野での人類、生物としての根源的な事に対する問いについての回答における対立であり、もっと個人に対しての影響が強いとも言え、これが一つの対立軸である。ヒトが「分からないものを知りたい」とする好奇心からくる欲求と、「分からない事は不安。だから、早急に回答を受け取りたい」と求める不安、分からないことに対してのアプローチの違いともいえるのだろう。どちらもまっとうな思考回路であるが、人類が歩んできた道を考えると、少なくともホモサピエンスの20万年の歴史で言えば、好奇心が切り開いてきた道という面が大きいだろう。

もちろん困難に直面した時に不安要素を最小化するという能力も生き延びてきた要因の一つではあるが、人類が現在のような技術力を身に着けたのは、好奇心が全ての源ではないかというのが、筆者の考えだ。出アフリカから始まり、ベーリング海峡を超えるという生物分布の拡大の歩みは、もともと住んでいたところの食糧が足りなくなったから、東へ東へと進出したという側面も勿論あるが、その移住に際しては力は弱かったかもしれないが、好奇心旺盛な集団がいて、移住を決断していった。そういった連鎖のもと、最終的に現在の南アメリカ大陸に到達した人類は、好奇心やクリエイティブな発想を身に着けていったのだろうと想像できるのである。

そういった意味で「分からないことをもっと知りたい」という欲求にこたえる科学や科学者というのは重要な存在であり、人類存亡の根幹をなすものである、そこまで強く筆者は支持するのである。科学の歩みを止めてしまう事は、人類の歩みを止めてしまう事にもなりかねない。

6500万年前に圧倒的な最強の生物類となった恐竜は、隕石の衝突でほろんだが、例えば進化の方向性、生物種の選択的進化が少しでも別の方向に行っていたら隕石の衝突があったとしても絶滅しなかったのかもしれない。そこには油断や慢心が無かったのであろうか。そういった意味で科学の進行を止めるとか減速させるような動きがあると、人類全体の繁栄という観点からも悲しい気持ちになってしまう。

特に科学の発展にも莫大なお金がかかる昨今ではあるが、お金は極限まで効率的に運用するというトレンドが出来上がりつつある。これは目の前の利益を最大化するという聞こえの良い方策ではあるが、遊びの予算で科学振興を行う事を減らしていくと、1000年、2000年単位で見た時に、人類の科学発展の基盤がくじかれることになる。もしかするとそういった視点から資本主義を批判的にみる事が出来る科学者の意見団体が必要なのかもしれないと思う次第である。

生命の起源

生命の起源

これもまた興味深いテーマであり、宇宙の誕生には神の手が加えられて、初めに揺らぎあれ、というのが、初めに光あれ、になったのかもしれない。出発点というものが見えないし、再現方法についても途方もない努力が必要なように感じる。

一方で、地球誕生が45億年前程度で、たくさんの隕石がぶつかり合って誕生し、初期地球はドロドロのマグマの海と高温の大気で覆われ、太陽との距離感がちょうどよかったことから徐々に冷まされて、最初は液体の恐らく硫酸か塩酸の雨が降り続き、カルシウムやナトリウムと中和されて、徐々に現在の姿に近づいて行ったのだろう。

その後、海水が真水に近い塩水になっていき、大気には二酸化炭素が満ちてくるようになった。その中でまずは圧力、温度、化学成分濃度が最適になったところで、アミノ酸が形成されて、タンパク質となり、タンパク質が効率的に成長する仕組みとして、単純な化学反応としての二酸化炭素の分解、炭素成分の取り込み、酸素の排出という仕組みが出来上がっていった。化学反応の仕組みを効率的に行えるタンパク質が結果的に増加する事が出来、効率的なたんぱく質の一つが、タンパク質の内部構造としてRNAのような、次世代へ自分の仕組みを受け継ぐ要素を体内に持ち始めて、それが世代を超えた生存戦略に繋がっていく事になる。

これが高度化していくと、DNAになり、分裂による子孫繁栄につながり、そこで子孫を残すことが生存環境を拡大するという戦略にとっての目的となり、その目的を達成するために、タンパク質間で競争が始まったところから、生物の進化が始まっていく。その後、生物が複雑化していくに従い、様々な突然変異、自然淘汰が行われていくわけだが、タンパク質間の生存競争の過程というか延長線上に、知能を持つという選択も、描けないわけではない。脳の複雑な機能については分からないことが多く、人類の誕生からの自我や、死後の世界への探求という部分は生物の生存競争という面からは飛躍し過ぎている気もするが、これは脳という機関を持ってしまい、そもそもの目的以上の機関になってしまい、生存競争の側面を超えてしまったゆえだろう。

タンパク質の存在範囲の拡張、という元々の地球が進化する初期の営みの延長線上に現在までの人類の進化、生命の進化の理由というのは描けないわけでは無いと、上記のように考えることは出来る。一方で、タンパク質の存在範囲の拡張というのは、何故行われたのか。これは一種の化学的平衡を作り出すための、例えば熱い空気が冷たい空気と対流するような自然現象として、ありえるのだろうか。恐らく、科学的には、生の酸素、水素や、イオン化した元素が多数存在する状態よりも、元素が重合している状態の方がエネルギー的に安定となるのだろう。そういう意味では、炭素単体、酸素単体、が存在する状態よりも、タンパク質として重合した状態の方が安定的と言え、これらの動きは地球が誕生した時点から考えると、灼熱のマグマ地球が安定化していくためのプロセスであったと言えなくはない。大気の状態や、海水の状態、地球の気温という点からも、全ては安定化の方向性に進むベクトルなのである。

初期地球において安定化の方向性に進むために生物が発生し、初期の生物進化が無しえてきたことはどうやらなんとなく説明可能な感じはするが、その後、進化というのが暴走しだしているともいえるのかもしれない。あまりに生物種が増え過ぎた事もあり、地球環境としては安定化とは呼べない方向に進んでいるような感じもする。ただ、現在の状態が1億年前と比べて、安定化しているのか、不安定化しているのか、この点は、もう少し広い視野で見る必要があり、全体としては45億年前から一貫して安定化しているのかもしれない。このことを考える事が、今後1億年の地球、生命、人類を考える事に繋がると考えると、思考実験は面白いものである。ただ、人類は1億年後には間違いなくいないだろう。