遺伝子と性格

遺伝子と性格

遺伝子解析技術、速度が上がっており、様々な遺伝情報を調べられる状況になってきた。自分のルーツを分析できるツールが販売されているし、民間レベルでも遺伝子解析というのが手の届くレベルの価格になってきている。自分のルーツを探るというのはロマンがある話ではあるが、自分の将来を探るというのは良い面と悪い面の両方がある気がする。

もちろん、病気の予測、例えば乳がんや胃がんのような病気になりやすい、高血圧になりやすい、そういった遺伝的傾向を分析して予測する事で、予防に役立てる事が出来るだろうから、広く言えば人命を助ける事に繋がり、倫理的には重要な研究分野であるように思える。

しかしながら、出生前診断を遺伝子解析で行う、ひいては、さらに研究が進み、性格診断、能力診断、そういったものが出生前、出生後に関わらず当たり前になっていく世の中に怖さを感じるのは私だけではないだろう。橘玲氏の著書によると、知能指数、性格、身体能力、音楽的才能、性的志向まで遺伝的要素が影響するという研究結果が得られているようだ。もちろん、それを発現する特定の遺伝子を発見したというまでの話ではないが、遺伝的に説明がつくケースがある一定の割合で存在するというものだ。家庭環境という環境因子は親が作る部分が一定程度あるので、親の能力や志向に似てくるのだという話もあるが、それでも例えば養子に出た場合、一卵性双生児が別々に育てられたケース、そういった研究の結果により、遺伝的要素が影響しているという研究結果が得られているという事だ。

今後遺伝子分析技術が発展していくと、例えば知能指数を司るような遺伝子、運動能力、しかも特定の、例えば足が速いとか、持久力が高いとか、そういった事を司るような遺伝子について、特定の遺伝子の関与が解明されていくと、遺伝子組み換えドーピングのようなことにつながりかねないし、あまり考えたくはないが、遺伝子分析結果による選択的な中絶などが起こりかねない、という危惧もある。そういう事態は倫理的に許されるものではないが、事実として現在、出生前診断という事が行われており、これは人間の本性として、子孫の繁栄、自分の遺伝子が残りやすくしたい、そういった意思から発生した事であり、少しねじ曲がっている気もしなくはないが、この傾向は止められないだろう。

そういった遺伝子解析による将来予測が進んでいった結果、どのような世界が待っているのだろうか。自分や子供を設計するような世界だろうか。遺伝子を操作して自分を再設計するというのは、現在の倫理では問題がある様に感じるが、将来の倫理観の中ではどうなのだろうか。美容整形は悪なのか、そういった議論にもつながるが、世界が大きく言えばゆっくりとリベラルな方向へ進んでいる事を考えると、私の数世代後の世界では、遺伝子操作を行うのも個人の自由、そういった倫理観になっているような気もする。

グローバル化は個人という自覚を則し、リベラル化を推進していると思う。地域社会や国という枠組みすら超えて世界がつながるようになったことで、自分は何人か、という問いの必要性は薄まり、自分がどういう人間なのか、個人に焦点が当たるようになっている。これは明らかなリベラル化であり、今2020年に生きている私としては、この傾向が後退するような未来は考えずらい。

日本国内で言うと、江戸時代までは身分が違う業界に行く事はかなり稀な事だったと思う。商人の息子は商人、武士の子供は武士になるのである。それが明治以降徐々に崩れたかもしれないが、それでもしばらくは階級を超えられない時代が長かった。しかしながら現代社会においては、ある意味下剋上的な事は頻発しており、それは産業の主導権がどんどん変わっていく、そういうスピードが加速していっているからである。今後、ますますその傾向は強まり、その結果として個人の未来を個人が設計するようになるだろうから、遺伝子操作による個人の将来の設計というのが自然に捉えられる未来が来るのだと思う。それについて現代の倫理観で、良し悪しを言っても意味が無い気がする。