宗教の本質

宗教の本質

先日、古い映画ではあるがダヴィンチコードを再び見てみた。イエスキリストの末裔を守る、という話であり、現代にも末裔が生きているという話であったが、日本で言うと天皇家は2600年前から血脈が途絶えていないことになっているので、あながちフィクションと切り捨てる事も出来ない。十字軍であったり、テンプル騎士団はそのキリストの神器を守るため云々という話なので、ストーリーとしては歴史も重なりあいながら、興味深いものであった。

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キリスト教を国家宗教とした2,3世紀ごろのローマ帝国では、その頃いくつもあった宗派のストーリーというか神話を、取捨選択して国教のストーリーとしていったという表現があったが、これは本当に興味深い。結局のところ、権力者が国民統治のために活用する、活用しやすく作り変えて宗教としていくのであり、その結果、宗教家という権力者が生まれ、統治に大きな力を発揮していくのである。

前にも書いたが、キリストの誕生日と言われるクリスマスは、結局のところ太陽信仰という古来からの信仰の中での、太陽が再生する日である冬至に近い日としており、これも以前は異教信者だった人たちを懐柔するための作戦であろう。このように権力というものは宗教、文化さえも塗り替えて、都合が良いように作り変えてきたのである。これは恐らく世界的に見ても、一般的な動きなのだろう。キリスト教だけが特別ではなく、権力は富に繋がり、人間というものの欲望が存在する限りにおいては、権力欲を抑止することは出来ず、権力争いをしてきた1万年と言っても過言ではない。何故1万年というかというと、これは大体農耕が始まった時だと言われており、農耕により生産の集約、余剰食糧が現れ、富と貧富の差が生まれて言ったというのが定説であり、それ以前の人類は、山や川、海で取れたものをその日暮らしに近い形で生活していたと言われている。それほど農業生産というのは革命的な事であり、人類の運命を本質的に変えてしまったと言っても過言ではない。

翻ってみて我が国日本であるが、2600年前の神武天皇がこの国土に降り立ち、国を統治していき、現在まで天皇家という形で続いているというのが、神話に近くはあるが、この国の形、文化、歴史を形作っている。これらは日本書紀に記載されている記述であるが、その時に、2,3世紀のローマ帝国のようなことが行われたのは間違いないだろう。そこで善意を持って、真実だけを編纂したと考えるのはあまりに青臭い考え方と言わざるを得ない。

確かにそれを超える事実を知る事は不可能に近く、日本書紀を信じるしかないのだが、そういう取捨選択が起きた事、勝者が書く歴史である事、これらは自覚して読むべきだろう。ちょうど2世紀、3世紀頃に、太陽をつかさどる神が隠れてしまって、みんなで無理やり出したら、そこから国は繁栄した、みたいな記述が日本の神話にはあるみたいだが、この頃に勝者が生まれたというのは一つの良い推測であるだろう。

その頃に丁度、井沢元彦氏の著書によれば、日本列島において二度の皆既日食があったらしい。これは天文学、数学的に計算ができる現象であり、この二度の日食は確かにあったようで、しかもここ2000年では珍しい事に、ヒトが人生で二度見れるチャンスがあるくらい、ショートスパンで起こったというのが計算結果になっている。

その時に太陽を司った神が、呪術的な予言を見せたり、呪術的なスピーチをして、権力を奪い取ったのかもしれない。これが日本でも2,3世紀、ローマ帝国が宗教を統一してキリスト教を国教としたのも同じような時期というのは非常に興味深い。日本で起こった二度の皆既日食がローマで同時期にあった言う事は無いだろうが、何かしら天候に関わるイベント、彗星などの天体に関わるイベントがあったのかもしれない。それくらい天気、天候、天文、これらは世界の統治機構を変える力がある。これらをコントロールする事は、ある意味では権力をコントロールする事にもつながる。人類は食糧生産という農耕を生み出した時と同じ、革命的な状況を迎えようとしているのかもしれない。天候をコントロールするというのは、新たな権力の創出なのかもしれない。