スーパーボール/ハーフタイムショー

2021年2月9日の日記より

米国時間の2月7日のスーパーボールが開催された。コロナの感染拡大が止まらない中、あれだけのイベントを成し遂げてしまう事に、改めて感服する。アメリカ人という人種は、もちろん賛否両論はあったのだろうが、ああやってイベント事を成功させてしまう。オリンピックと違って一試合だけだからと言う事を言う人がいるかもしれないが、それでもあれだけ大掛かりなイベントを開催するとなると、前後の準備、関係者の数、相当な人数が投入されており、感染対策を実施しながら開催できると言う事を示していたと感じた。特にプレイヤーはもはや飛沫がどうのこうの言う感じではなく、通常通りのプレーをしていた。重症化の懸念がある人のプロファイルは既になされており、アスリートが重症化するという事態はほとんど聞いたことが無く、そういう観点での情報が積みあがっているから開催に踏み切っているのだろう。NBAもバブルでプレーオフを開催し、感染者は出ていたが重傷者が出るような雰囲気は無く、報道も、事実もないのだろう。世代や既往症によってリスクが大きく違うと言う事を認識した上での対策が必要であり、高齢者の常識を全員に当てはめるのは危険である。

感染症の日本史 (文春新書)

一方で、ハーフタイムショーは素晴らしかったと言えるだろう。マイケルジャクソンのWe are the worldではないが、しっとりと聞かせる感じが、今年の状況に非常にマッチしていた。バカ騒ぎをするわけではなく、コンサートや芸術鑑賞にも行きづらい昨今の状況の中、芸術性というものは何だったのか、あの歌声を聞いていると我々人類の文化的な生活というものは文化や芸術と言ったものに彩られてこその生活なのだと言う事に気づかされる。コロナで外出制限がある中、とりあえず仕事だけは回そうという形で在宅勤務を続けている人が多いと思う。在宅勤務でなくてもそうだが、余暇というか人生を楽しむ行動を減らさざるを得ない状況になっているのは、一般的な認識となっているだろう。

その生活が一年ほど続いた中でのスーパーボールのハーフタイムショーであらためて気づかされた。コンサート、映画、寄席、歌舞伎、絵画鑑賞、動物園、水族館、色々なイベントや芸術の鑑賞手段があるが、そういったものを出来るだけ自粛してきた一年間だった。さらに加えて、文化や芸術というものは日常生活から生み出されるが、それには異文化の接点が必要であり、異文化というのは国の違いでもあるが、例えば、家庭の違い、会社の違い、日本国内の出身地域の違いでもある。そういったものがぶつかり合う場面が減っている事によって、芸術家の芸術活動だけでなく、一般市民の芸術活動というか文化活動すら減少しているのである。これは岡本太郎ではないが、ぶつかり合いに芸術があると言う事を改めて気づかさせてくれるし、それでこそ人間らしい生活なのだろうと思う訳である。

加えてハーフタイムショーについていうと、完全にマスクを装着した、しかも医療用のマスクに見えるようなマスクである、ダンサーがパフォーマンスをするという行為は、賛否両論あるのかもしれないが、当方は好意的に捉えた。マスクをしていてもパフォーマンスは出来るし、新たな表現も出来る、さらには興奮や感動を与える事も出来る、そういった事を主張しているように感じられた。マスクをルール化した政権への皮肉という捉え方もあるのかもしれないが、この時期にあえてマスクをしたダンサーで揃えてしまう所に、アメリカ人のエッジを駆け抜けようとする意志の強さというか、芸術性とはそこから生まれてくるんだろう、という挑戦的なメッセージが感じられた。非常に良いショーだったと思っている。